諦観
選手権が終わってから、サークルメンバーが部室に顔を出す時間や頻度は、少しずつ変わっていった。結果が出た者は、忙しくなり、結果が出なかった者の中には、サークルに顔を見せる頻度が減った者もいた。部室の椅子は、以前よりも空席が目立つようになった。空の席を見つめて、輝幸は、勉強や、恋愛、アルバイトなど、その人の中で大切なものの順位が変わったのだろう思った。
輝幸はネタを書かなくなった。書こうと机に向かっても、ネタを練れば練るほど言葉が整っていく感覚が、空虚に思えた。言葉が整うことが、勝利につながらないと知ってしまったからだ。ネタを書かなくなった輝幸と相方は次第にギクシャクするようになった。輝幸は、今のコンビを解散し、ネタを書ける相方と、新たにコンビを組むことにした。
輝幸は、合コンによく出かけるようになった。合コンで出会ったのは、二十五歳の小学校教員だった。肩まである艶やかな暗めの茶髪で、白い肌。派手ではないが、日本的な美人だった。穏やかな性格で、ゆっくりした口調だったが、よく笑う女だった。彼女は、大学お笑いのファンで、輝幸のことを知っていた。「大学お笑い選手権、決勝行ってましたよね?すごいです。」と、少し興奮して輝幸に言った。その言葉は、選手権の結果を知ったあとで輝幸に初めて向けられた、無条件の肯定のように聞こえた。合コンのあと、二人は、輝幸の部屋に行った。彼女は自分も緊張しながらも優しく、輝幸をリードしてくれた。
翌朝、目が覚めたとき、輝幸の隣りで彼女はまだ眠っていた。しばらくその寝息を聞いてると、ようやく、輝幸には自分が童貞を卒業したという実感が湧いてきた。その日、彼女が帰ったあと、輝幸はいつも通りに大学に行ったが、新しい自分になれたようで、世界は、イキイキとして見えた。
それからしばらくの間、輝幸は有頂天だった。しかし、日が経つにつれ、彼女との会話を、「予定調和」に感じるようになった。新鮮さや、驚きがない。言葉から、奥行きや刺激を感じない。彼女が悪いわけではなかった。ただ、彼女との関係に、日に日に閉塞感を感じるようになっていった。最初、あんなに嬉しく感じた、彼女の「すごい」も、だんだんと軽く聞こえるようになり、彼女の僅かなアラがめにつき、行き場のない苛立ちが胸に溜まっていった。
やがて彼は、また合コンに顔を出すようになった。合コンでも、以前より言葉が滑らかに出てくる。場の空気を読み、軽く皮肉を交えたツッコミを入れると、お笑いの素人である女たちはよく笑ってくれた。彼は、笑わせることで好意を得られる自分に有頂天になっていた。輝幸は、父から十分な仕送りを受け、駅近の広いマンションに一人で住んでいた。ブランドものの服、生活感の薄い部屋。それらは彼自身の努力の結果ではなかったが、合コンに参加する女達のなかには、それらを「魅力的」だと感じる者も多かった。一人と関係を持つたびに、次へ進んだ。
そんな日々がしばらく続いたある日、輝幸の心が自分にないことを感じ取った彼女は、「解放してあげるね。」と言って輝幸に微笑んだ。彼女の目には光るものが見えたが、輝幸が引き留めることはなかった。
その後も輝幸は、合コンを渡り歩いた。切れ味の良いツッコミで場を沸かせ、無難に好かれ、無難に関係を終える。期待も失望も深く残らない関係。名前を忘れても、困らない関係。傷つかない代わりに、何も残らない。輝幸は、その空虚さに心の底では気づきながらも、女達を征服することで得られる、薄っぺらい自己肯定感にすがりついていた。
輝幸は、合コンに行くようになっても、サークルには顔を出し、新しい相方の書いたネタで舞台に立ち続けていた。可もなく不可もない、よくある類のネタ。輝幸はそれにツッコミを入れ、一定の笑いを取った。「うまい」という声は起きるが、爆笑は起きない。彼らのネタの評価は「安定」だった。安定という言葉が、彼の胸を少しずつ削っていった。安定は、前に進まないことの別名でもあった。
綾子は、輝幸とは対照的に、忙しさを増していった。選手権以降、自大学の先輩や、他大学の同級生などと、さまざまなユニットを組み、出る大会、出る大会で結果を残していった。その名前は学内のみにとどまらず、関東の大学お笑い界全体に知れ渡っていた。特に、J大学のお笑いサークルの一年生で、関東大学お笑い界で綾子と同じくらい名をあげていた楠木圭介とのコンビは圧巻だった。圭介のボケは、綾子とはまた別の方向性で、オタク的な妄想を爆発させたようなボケだったが、二人のダブルボケ漫才は、二人の個性がぶつかりあい、会場に揺れんばかりの笑いを生み出していた。
輝幸は彼女の活躍を、距離を置いた場所から眺めていた。近づけば、自分の中の何かが壊れる気がした。それでも、顔を合わせれば、挨拶は交わすし、必要な会話はする。ただ、それ以上のことはない。以前なら自然に生まれていた会話が、どこかぎこちなく途切れる。そのぎこちなさから、二人とも目を反らしているようだった。
ブックマーク、高評価お願いします!




