予言
大学1年の秋。「大学お笑い選手権」という言葉がサークル内で話題に登る頻度が増えていくにつれて、輝幸の呼吸は少しずつ浅くなった。本も、お笑いも高校時代の彼にとっては、逃げ場だった。逃げ場だった場所に、輝幸を苦しめた受験と、同じ様に点数がつき、順位がつく。そういう種類の現実味から、輝幸は逃げ出したかった。しかし、やっと見つけた居場所を失うのが怖くて、逃げ出すこともできなかった。
予選が近づくにつれ、サークル内の会話は大会の話に益々集約されていった。どこの大学が強いか、どのコンビが優勝するか、参加者の誰が名をはせているか。期待と不安が入り混じった空気が部室を満たしはじめていた。輝幸のコンビは、「悪くない」と言われていた。「ネタがまとまっている。ツッコミが鋭い。」褒められると輝幸は、自分を信じ込ませるようにうなずいた。
選手権の前日、サークルの部室は遅くまで明かりがついていた。誰かがネタ合わせをし、誰かが話し合い、誰かがスマホで撮ったネタ動画を見つめる。輝幸は壁際の椅子に座って、机に置いたノートを見つめていた。このネタで勝てるのか。けれど、書き直したところで「驚き」は増えない気がしていた。彼の書くネタは、手を入れれば入れるほど整う。整うほど、角が丸くなる気がしたのだ。
「ナカジ。」
ふいに背後から声がして振り向くと、綾子が立っていた。
最近、輝幸はサークル内でもっぱら「ナカジ」と呼ばれるようになっていた。
部室の蛍光灯の下で、彼女の目は妙に輝いて見えた。手に持っていた漫才台本は、角が少し折れていて、彼女たちの練習量が垣間見えた。
「まだ残ってたんだ。」
「うん。明日だし。」
それだけで、会話は一度途切れた。綾子は輝幸が使っていた机の隣の机に腰をかけ、机の上に持っていた台本を置いた。
「緊張してる?」
問いは軽いのに、追い詰められた気がした。輝幸は、なんとか笑ってごまかした。
「まあ、普通に。緊張しないやつなんて、いないだろ?」
「いるよ?‥‥わたし。」
言い切って、綾子は少し笑った。自慢でも強がりでもなく、単なる事実のように。
「……ずるっ!」
輝幸は、重い話しを避けるように、ふざけた口調で言った。
「ずるくない。緊張って、負けるのが怖いってことでしょ?」
綾子は言葉を選ぶというより、感情をそそのまま口から出しているようだった。
「え?アヤコは、負けてもいいって思いながら、やってるってこと?」
「べつにいいじゃん。予選敗退でも。自分がかっこいいと思えるお笑いができればさ。」
輝幸は一瞬、返答を失った。失敗してもいい。そんな発想は、あの家にはなかった。失敗はそのまま価値の低下だった。彼の身体は、失敗を恐れる形に矯正されている。
「‥‥でも、皆んな期待してくれてるのに‥‥」
一瞬の沈黙のあと、無意識に輝幸の口から本音が洩れた。
それを聞いて、綾子は「ナンセンスだ。」とでもいいたげに、肩をすくめた。
「でも、ナカジのツッコミって、ほんと的確だし、言葉が多彩だよね。」
「そうかな?」
初対面のときとは、違う。
サークルで、短くない時間をともに過ごしたうえで、再び投げられた高評価に、輝幸の心臓がドクッと鳴った。
「そうだよ。だって、たまになんだけど、ボケている方が、ツッコまれてから、そのボケの面白さに気づかされている瞬間あるよね。あれ、普通できないよ。」
目をキラキラ輝かせて、綾子が言った。
輝幸に喜びと興奮が走る。
輝幸は、それを隠しながら、努めて平然と返した。
「いや、自分では意識してなかったな。読書の副作用なのかも。」
「いい副作用でよかったね。」
綾子は笑ったが、その目は冗談だけではなかった。
「‥‥明日さ、負けてもサークルやめないでね。」
不意に綾子が言った。その言い方は、命令ではなく、懇願のようだった。
「負ける前提かよ。」
輝幸は反射的に答えてしまう。
「前提じゃない。可能性。ナカジは、負けるとすぐ逃げそうだから。」
胸のど真ん中に言葉が刺さった。自分の負け犬根性を見透かされていそうで、輝幸は動揺したが、絞り出すように応えた。
「やめないよ。」
綾子は机から降りて、台本を抱え直した。
「そう‥‥じゃ、明日。先に帰るね。」
部室のドアが閉まるまで、彼女の背中を見送ったあと、輝幸はノートを見つめていた。彼女の言葉が、シャーペンの文字より濃く残って、消しゴムでも消えない感じがした。




