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楽園から続く道  作者: 詠み人知らず


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番外編 ~崎本 紗枝~ 後編

 初めて会った彼は、想像したよりも軽かった。本当に軽いというより、軽く見えるように振る舞っているようだった。彼の目は不安そうなのに、彼の口だけが笑っているような気がした。


「正直に言いますね。企画の“本好き芸人の小説”って、世の中に溢れてます。」


私は最初に刺した。刺すのは怖くなかった。編集者の仕事は、優しくすることではない。


彼は苦笑した。


「でも、中島さんのYou tubeを見て、この人は違う・・・この人は、本というものを私なんかよりずっと深く理解しているって感じたんです。正直、驚きました。」


私がそう言ったとき、彼の目が一瞬だけ揺れた。褒め言葉を受け取れない揺れだ。期待されることが怖い人間の揺れ。


数日後、送られてきた短編を読んだ夜、私は机の前で動けなくなった。


衝撃、という言葉が安っぽく感じた。


文章に体温がある。しかも、熱いのではなく、冷たい体温だ。淡々としているのに、妙に生々しい。日常のすぐ隣にあるはずの世界が、少しだけずれていて、そのずれが笑えるのに怖い。誰もが目にしているが、誰も意識していなかった世の中の沈殿物を、多彩な言葉で掬い上げてしまう。彼の言葉には、私が逆立ちしても真似できない種類の力があった。


――私が欲しかったのは、これだ。


小説家になりたかった自分。なれなかった自分。言葉に才能がない自分。その全部が、彼の原稿の前で、膝をついた。


「この人の言葉を、世に出したい。」


それは編集者としての欲でもあり、挫折した作家志望としての熱でもあった。


彼と会う回数が増えると、私は彼のなかの、劣等感に気づいた。彼は、きっと、「正しい」人生を歩くことに成功した私に劣等感を感じているのだろう。そして、反対に、私も、彼の「正しい」から外れた人生や、自分が求めても手に入らなかった才能に、心の奥底で、劣等感を感じていることに気づいた。


――だから、気になってしまった。


最初は、恋愛感情ではなかった。観察だった。素材としての興味でもあった。けれど、劣等感という共通言語を見つけた瞬間から、私は彼を「他人」として見られなくなっていった。


彼が私を口説いたのは、ある打ち合わせの後、お酒を飲んだ帰りだった。仕事の話が途切れ、沈黙が落ちたとき、彼は妙に真剣な目をした。


「崎本さんって、完璧っすよね。」

「……私、全然完璧じゃないです。」

私は、そう言う声が少し震えているのを自覚した。

彼は笑った。いつもの軽い笑いではなく、少し優しい笑いだった。

「知ってます。完璧な人は、そんな目はしない。」


その一言で、私の胸の奥の何かが崩れた。

見抜かれたことが怖いのに、嬉しかった。

私は、自分が「正しく見られること」に疲れていたのだと、そのとき初めて理解した。


誘われてついていった先は、ホテルではなく、彼の部屋だった。

散らかった本と、台本と、コンビニの袋。

生活の形が雑で、でも生々しい。

私が憧れていた「正しくない」人生は、こういう匂いをしているのかもしれないと思った。


抱かれる直前、私は一瞬だけ冷静になった。


――この人は私を使って、自分の劣等感を埋めようとしている。

わかっている。

わかっているのに、止められない。

それは、私も同じだったからだ。

だから受け入れた。

受け入れてしまった。


翌朝、薄いカーテン越しの光の中で、彼は寝息を立てていた。

無防備な顔。

TVでは見せない顔。

私はその横顔を見ながら、妙に静かな気持ちになった。


彼が自分を征服することで埋めようとした穴。

自分が彼に触れることで埋めようとした穴。

穴は埋まったのか。

埋まっていない。

埋まっていないのに、少しだけ呼吸が深くなっている。

その気づきは苦かったが、嫌ではなかった。

正しい道を歩いてきた私の人生で、初めて「正しくない感情」を、正しくないまま抱えられた気がしたからだ。


私のとなりで、彼が起きそうだったので、私は目を瞑り、寝たふりをした。

彼は、しばらく黙って私を見つめているようだった。


少しして、私は、たった今目が覚めたかのように目を開けると、

「おはよう。」と言った。


それ聞いて、彼は優しく微笑み、「おはよう」と返した。

私は、その笑みを見て、気づいた。

――もう、戻れない。


私は化粧をして、いつもの「正しい顔」を作って部屋を出た。けれど胸の奥には、正しくない熱が残っていた。

それは、燃え残った夢の残り火ではなく、自分の中に新たに生まれた火種きもちだった。

輝幸の才能が開花するのを見届けたい方。

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