前兆
300PV、ありがとうございます。
発売日、輝幸の短編小説が掲載された雑誌が事務所に届いた。表紙の片隅に、自分の名前がある。輝幸はそれを見て、これまで薄かった現実感が、急に湧いてきて、心が躍った。
事務所でPCを開こうとしていた綾子に、自分が書いた短編小説が掲載された雑誌が届いたことを伝えた。綾子は、受け取って、「これからWebで打ち合わせだから、それが終わったら、あとで読むね。」といった。そして、「まぁ、よかったじゃん。」と軽く言う。その軽さが、輝幸にはありがたかった。大げさにされると、ダメだったときに立ち直れなくなりそうだったからだ。
――夜。
綾子は二つのWeb打ち合わせがようやく終わり、独り事務所のデスクに座った。蛍光灯の光は冷たい。疲れが肩に溜まっている。でも、輝幸に雑誌を渡されてからずっと気になっていた。素人の書いた小説が、そう簡単にうまくいくはずがないと分かっていながらも、心のどこかで、輝幸の「言葉」に期待している自分がいた。その期待に蓋をしながら、綾子は雑誌の輝幸のページを開いた。
最初の数行に目を通すと、綾子の背筋がぞくりとした。
初めて舞台の上で輝幸のツッコミを見た、あの瞬間がフラッシュバックする。芸人らしからぬ多彩な表現、かといって奇をてらったようなわざとらしさはかけらもない。彼の言葉は、新鮮で刺激的だった。彼の言葉は、物語の世界を、そこで生きる登場人物たちの感情を、読者の頭のなかにありありと浮かび上がらせる。すぐ近くにありそうな世界なのに、その隙間から、別の世界が覗く。その覗き方が、怖いほど自然だった。綾子はページをめくる指が止まらなくなった。疲れがどこかへ消える。身体の内側が熱くなる。物語と一体になる。
読み終えてもしばらく、綾子は物語の世界にいた。主人公に思いをはせたあと、自らの人生について考えた。しばらく、宙をみつめたあと、ふと、我に返り、これが輝幸の書いた小説であることを思い出した。
鳥肌が立つ、という表現は安っぽい。だが彼女は本当に、腕の肌が粟立っているのを見た。
「……これだよ。これ。できんじゃん。」
呟きは誰にも届かない。届かないのに発した言葉は、まさに本音だった。
彼女は改めて理解した。輝幸の“平場の弱さ”は、才能がないからではない。自分に自信がない、彼に残された「お笑い」という場所を失うのが怖い、それが、彼の言葉から輝きを奪った。そうやって泥にまみれた男の言葉が、今、紙の上で躍動していた。
綾子はスマホを取り、輝幸に電話を掛けようとして、やめた。いい文章だとしても、それがすぐに世間に受け入れられるとはかぎらない。良いものが必ず評価される世界ではない。期待させて、ダメだった場合、彼はまた、どこかに逃げ込んでしまう気がした。
だから彼女は、ほめすぎないよう、冷静に言葉を選び、感想をSNSで輝幸に送った。
「本読みました。私は、いいと思ったよ。次からも頑張って。明日、連載の打ち合わせ、ちゃんと行ってね。遅刻しないで。」
それだけ送った。
送信した直後、綾子は「少し冷たすぎたか?」と後悔した。
しかし、綾子の想定より冷たくなってしまったメッセージのなかに、彼への複雑な感情が潜んでいることに、彼女は気付いていなかった。
窓の外はもう暗い。一部屋だけ明かりのついた事務所で一人、綾子は雑誌を閉じ、表紙の片隅の名前を見た。
「中島輝幸」
彼の名前が、妙に眩しく見えた。
輝幸の才能が開花するのを見届けたい方。
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