迷走
300PV、ありがとうございます。
事務所設立から1年が経ったころ、テレビでは、輝幸は次第に「じゃない方芸人」として扱われるようになっていった。トークを振られるのは綾子。カメラが追うのも彼女だ。輝幸は、その横で綾子との対比でいじられる。オドオドした態度と、鈍いコメント、親は社長で、遅刻癖。そういうキャラクターは、わかりやすい。番組としても扱いやすい。本人が自分で認めて笑いにすれば、なおさらだ。
「いや、しょうがないでしょ。お金があるんだから。」
自分の口からそう言って、楽に笑いを取る。
スタジオは確かに沸く。スタッフも笑う。共演者も乗ってくる。
仕事としては、成立している。
だが、そのたびに、胸の奥で何かが削れていく感覚があった。
削れているのが自尊心なのか、言葉への信頼なのか、あるいは「自分が自分である」という感覚そのものなのか、輝幸には判別できなかった。
これは仕事だ。役割だ。
そう自分に言い聞かせることでしか、舞台に立ち続けられなかった。
控室で一人になると、スマホを眺める時間が増えた。番組を見たというDM。
軽い誘い。深く考えなくていい関係。期待もしないし、失望もしない。今の輝幸にとって、その「浅さ」は救いだった。深く考えないこと。それが、彼が正気を保つために必要な距離だった。
そんなある日、何気ない雑談の中で、その話題が出た。
「加納さん、ドラマ出てるよね。」
スタッフの一人が、輝幸にいった。
「深夜枠だけど、あれ結構評判いいらしいよ。」
「演技、意外とハマってるって。」
「…そうみたいですね。」
輝幸は、できるだけ平坦な声で返した。
表情も変えなかった。
変えなかったつもりだった。
だが、胸の奥で、小さく何かが鳴った。
綾子が、自分の知らない場所で、別の評価軸を手に入れていく。
その事実が、時間差で効いてくる。
綾子と事務所で顔を合わせる時間は、確実に減っていた。
綾子は撮影と打ち合わせに追われ、輝幸は呼ばれない現場が増えた。
同じ空間にいるときも、会話は業務連絡が中心だった。
「この日、撮影でいない。」
「了解。」
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ある日、番組の収録後。
輝幸は一人、スタジオの隅でモニターを眺めていた。
次の番組の予告が流れ、画面の中に綾子が映った。
ドラマのワンシーン。
そこに、もう一人、男が映った。
若い。だが、どこか影がある。
「綾瀬正輝だよね。」
「最近、すごいよな。」
スタッフの声が、背後から聞こえる。
「なんか、綾子ちゃんとお似合いだよね」
軽い調子の一言だった。
誰も深い意味で言っていない。
だが、その言葉は、輝幸の胸の奥に、濁った滴を落とした。
苛立ちとも、嫉妬とも言い切れない感情。
自分でも扱い方がわからないまま、広がっていく。
いじられて、笑われて、愚鈍な役を演じる。
それが求められている自分だと、身体が覚えてしまっている。
演じることに慣れてしまえば、それはもう演技ではなくなる。
帰り道、街灯の下で立ち止まり、自分の影を見た。
影は、どこまでも真っ暗だった。
一方、綾子は、ドラマの撮影を終えて、一人でスタジオを出たところだった。
夜風が、火照った身体を冷ます。
綾子はふと輝幸のことを思い出した。
彼のワードセンス。
的確で、核心を外さないツッコミ。
信じている。
だからこそ、今の状況がもどかしい。
言葉を持っている人間が、言葉を捨てるような振る舞いをしている。
心の中で、芸人としての綾子が叫んだ。
「それは、本当のあいつじゃない。」と。
副社長としての綾子がそれに応えた。
「この世界で生き残っていくためには、今はそれしかない。」と。
輝幸の才能が覚醒するのを見届けたい方。
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