前進
綾子は、ドラマ撮影の現場で、一人の男性と出会った。
初めて会ったのは、控室の廊下で、すれ違ったときだった。
細身で、背は高くない。だが、立ち姿に妙な存在感がある。
目が合った瞬間、相手が軽く会釈した。
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
それだけのやりとりだったが、なぜか印象に残った。
後で知った名前。
吉瀬正輝。
憑依型の演技と評され、影のある役で人気急上昇中の若手俳優だった。
その次に話したのは、撮影の待ち時間だった。
同じシーンの撮影が押し、二人ともベンチに座っていた。
「芸人さんですよね。」
吉瀬が、先に口を開いた。
「はい。一応。」
「ドラマ、初めてですか?」
「ほぼ。演技は高校のとき以来です」
吉瀬は、少しだけ笑った。
「じゃあ、楽しい時期ですね。」
「……そうかも。」
その言い方が、経験者のそれだった。
「芝居を始めたころは、なにもかも全部新鮮だから。」
「今は、楽しくなさそうな言い方ですね。」
「楽しくなくはないよ。でも、そのうち怖くなる。」
「怖くなる?」
「正解がないから。」
綾子は、その言葉に引っかかった。
「お笑いも、正解ないですよ。」
「でも、客が笑ったら一応、正解じゃないですか。」
「……確かに。」
芝居は違う。
観客の反応は、すぐには返ってこない。
「僕、役に入るとき、自分の感情は信用しないようにしてるんです。」
「どういうことですか?」
「自分の感情って、だいたい邪魔なんで。」
綾子は、理解できなくて、質問した。
「普通は、役になり切って、自分のなかの感情を引き出すんじゃないですか?」
「ですよね。でも、感情を出す前に、役の癖を探す。歩き方とか、目線とか」
「……面白い。」
彼の話は、理屈っぽいのに、嫌味がなかった。
実践から出てきた言葉だった。
「加納さんのコント、見ました。」
「え?」
「切り替え、すごいですよね。あれ、演技ですよ。」
「……そう言われると、ちょっと嬉しいです。」
綾子は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
芸人を色眼鏡でみていない、
同じ表現者としてフラットに見てくれている感覚。
「また、いろいろ聞かせてください。」
「こちらこそ。」
撮影が再開され、立ち位置に戻るその背中を見送りながら、綾子は思った。
演技は、逃げ道じゃない。
別の角度から、自分を鍛える場所だ。
忙しさの中で、久しぶりに「前に進んでいる実感」があった。
輝幸の才能が開花するのを見届けたい方
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作者に、書き続けるチカラを!!




