猶予
大学3年も終わりに近づき、就活が始まったころ、輝幸の時間感覚は歪んでいた。講義はほとんど出ていない。昼頃に起きて、だらだらとして、夜になり、酒を飲み、誰かと交わり、また朝になる。その繰り返しの中で、彼は無意識に「先」を考えないようにしていた。
ある晩、父から呼び出しがあった。リビングに通されると、父はいつもの席に座り、新聞を畳んでテーブルに置いた。視線が、輝幸を捉える。
「卒業後のことだが」
切り出しは静かだった。だが、議論の余地がないことを、声の低さが示していた。
「私の会社に来なさい。部署は考えてある。」
それは提案ではなく、伝達だった。輝幸は一瞬、喉の奥で言葉を詰まらせた。父から離れ、父に感じていた恐怖は薄れたはずだったが、実際に言葉を向けられると、まだ、身体がビクッとした。だが輝幸は、本に閉じこもってばかりいたころとは違った。
「……行きません。」
声は思ったよりもはっきりしていた。父の眉が、わずかに動いた。
「何?」
「お笑い芸人になります。」
――沈黙が落ちた
父はすぐには反論しなかった。
想定外の返事を咀嚼するのに、時間がかかっているのだろうか。しばらく時間がたったあと、
「何をふざけたことを言っている!」
父は、大声で怒鳴った。
輝幸が高校の時よりも、強い怒気を感じた。
「ふざけてません。」
「本気で言っているのか?」
「本気です。」
「そんなことを許すはずがないだろ。何のために大学に行かせたと思ってるんだ。」
「何と言われようとお笑いをやります。もう本格的に活動を始めてています。」
「なんだと。そんなことは許可していない。」
父のその一言が、輝幸の気持ちを爆発させた。
「俺がK大に行って、興味をなくしたくせに、いまさら許可なんて言う資格があなたにあるんですか。」
「なんだと!親になんて口の利き方だ!」
かつてない荒い口調で、睨みつける父に、睨み返す輝幸。
昔の輝幸なら黙って父の言う通りにしたが、今日は怒りが勝った。
「うるさいな。」
その言葉を聞き、父が、信じられないというような表情を輝幸に向ける。
少しの沈黙のあと、再び父が口を開く。
「だいたい。何をやっても中途半端なお前に、そんな世界でやっていけるはずがない。」
その言葉は、輝幸の内部に、長年蓄積されていた疑念と同じ形をしていた。
だが、皮肉なことに、父への反発心が、輝幸にそれを乗り越えさせた。
「三年ください。」
自分でも驚くほど、食い下がっていた。
「三年で結果を出します。出なかったら、会社に入ります。」
「何が三年だ。ただでさえ出来の悪いお前に、三年もやれるわけがないだろう。」
「なら俺は、あなたの前から姿を消します。」
「なに?自分が何を言っているかわかっているのか?そんなことをしてみろ。仕送りも止めるし、マンションも取り上げるからな。」
「かまいません。」
輝幸は父を真っ向から見据えて言い放った。
父は、見たことのない輝幸の剣幕に驚いたようだった。
長い沈黙のあと、父は、頷いた。
「いいだろう。三年だ」
「それで俺が納得する結果が出せなかったら、会社に入るんだぞ。」
「はい。約束します。」
「ふん。時間を無駄にした。」
父は、捨て台詞を吐いて、自分の部屋に戻っていった。
それは許可ではなく、猶予だった。
輝幸はその夜、初めて父に本音を言った気がした。
反抗心から出た言葉かもしれない。
だが、それでも、何も言えなかったこれまでよりよりはましだと思った。
実家を出たあと、輝幸は一人で歩きながら、奇妙な高揚を感じていた。怖さはある。だが同時に、「もう、前に進むしかない。」と割り切れた爽快感もあった。三年で結果を出す。そのために何が必要か。答えは、驚くほどはっきりしていた。
――加納綾子だ。
彼女は、大学お笑いの世界で、すでに伝説であった。大会に出れば、いかなるユニットでも優勝をさらっていく。既に複数の芸能プロダクションからオファーが来ている、という噂も耳に入っていた。
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