第9話 禁書庫に眠る名
神殿の奥には、地図にも記されない場所がある。
案内がなければ辿り着けず、知っていても許可なく踏み入ることはできない。
そこは、祈りの記録が眠る場所――禁書庫だった。
リーシェがその存在を知ったのは、偶然だった。
巡行から戻った翌日。
疲労が抜けきらない身体を引きずりながら、神殿内を歩いていたときのことだ。
扉の隙間から、紙を繰る音が聞こえた。
覗くつもりはなかった。
ただ、足が止まった。
「……入るかね」
中から、低い声がした。
驚いて振り向くと、白髪の老司書が立っていた。
背は低く、目は細い。だが、その視線だけは鋭い。
「聖女様が、ここに用があるとは思えんが」
皮肉でも、拒絶でもない。
事実の確認だった。
リーシェは、一瞬だけ迷い、そして言った。
「……知りたいんです」
「何を」
「私の前に、ここに立った人たちを」
老司書は、黙って彼女を見つめた。
やがて、ゆっくりと扉を開ける。
「なら、覚悟して入れ」
禁書庫の中は、静まり返っていた。
高い書架が円を描くように並び、中央には古い石机が置かれている。
埃の匂いと、乾いた紙の気配。
「ここには、聖女の記録がある」
老司書は言った。
「だが、祝福の物語ではない」
彼は、一冊の帳簿を取り出した。
表紙は擦り切れ、題名は消えている。
「これは、正式な歴代聖女名簿だ」
リーシェは、息を呑んだ。
ページを開く。
名前。
年齢。
巡行記録。
そして――終わり。
「……死因が、ありません」
「書かれておらん」
老司書は淡々と言う。
「正確には、“書けなかった”」
ページをめくる。
どの名前も、ある地点で途切れている。
「皆、ある日を境に、記録から消える」
リーシェの指が、震えた。
「……全員、ですか」
「ああ」
老司書は、静かに頷いた。
「祈りの聖女は、長く生きない」
胸の奥が、冷え切る。
「彼女たちは、奇跡を起こし続けた。世界を保った」
そして、と老司書は続けた。
「その代償として、“中身”を失った」
リーシェは顔を上げた。
「中身……?」
「感情、記憶、願い。順番は様々だ」
彼は、古い記録を指でなぞる。
「最後に残るのは、“祈りに反応する器”だけ」
声が、出なかった。
胸の奥の空白。
あれは、最初からあったものではない。
――削られている。
それは、比喩ではなかった。
「……私は」
ようやく、声を絞り出す。
「私も、そうなるんですか」
老司書は、少しだけ目を伏せた。
「順当に行けばな」
順当。
それは、制度として正しいという意味だった。
沈黙が落ちる。
やがて、老司書は付け加えた。
「だが」
リーシェは、顔を上げる。
「お前は、少し違う」
心臓が、跳ねた。
「祈りを信じていない聖女は、初めてだ」
老司書は、かすかに笑った。
「空っぽだからこそ、まだ削れる余地がある」
残酷な言葉。
だが、同時に希望でもあった。
「つまり……」
「壊れる前に、問い直せる」
老司書は、はっきりと言った。
「祈りとは何か。
なぜ、聖女だけが背負うのか」
リーシェの胸の奥で、何かが初めて“形”を持った。
恐怖ではない。
絶望でもない。
疑問だ。
「……教えてください」
リーシェは言った。
「全部」
老司書は、ゆっくりと頷いた。
「その代わり」
一拍置いて。
「真実を知れば、戻れんぞ」
リーシェは、迷わなかった。
「もう、戻れません」
聖女として壇上に立ったあの日から。
巡行で人々の怒りを浴びたあの夜から。
そして今、この名簿を見た瞬間から。
禁書庫の扉が、静かに閉じる。
その音は、
リーシェが“消耗するだけの聖女”をやめた合図だった。
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