第5話 人であること
夜の神殿は、昼よりも静かだった。
灯りは最小限に抑えられ、長い廊下には人影もない。足音さえ吸い込まれるようで、リーシェは自分が歩いているのかどうか分からなくなる。
眠れなかった。
目を閉じると、光が浮かぶ。
傷が塞がり、感謝され、役目を果たした“聖女”の姿。
――私じゃない。
そう思うほど、胸が苦しくなる。
部屋を抜け出したのは衝動だった。
誰かに会いたいわけではない。
ただ、このまま一人でいると、自分が消えてしまいそうだった。
中庭に出ると、夜気が肌を撫でた。
月は雲に隠れ、輪郭だけが淡く滲んでいる。
ベンチに腰を下ろした瞬間、堪えていたものが溢れた。
音を立てないように息を殺しても、涙は勝手に落ちてくる。
「……っ」
祈れない。
感じられない。
それなのに、期待される。
――聖女様。
その呼び名が、刃のように刺さる。
「ここにいたか」
低い声がして、リーシェは肩を震わせた。
アルヴェルトだった。
鎧は外し、簡素な服装で、いつもの無表情のまま立っている。
「……すみません。勝手に出てきて」
「構わない。見回りの途中だ」
それ以上、何も言わない。
問い詰めもしない。
その距離感が、ありがたかった。
しばらく、二人とも黙って夜を見ていた。
やがて、リーシェがぽつりと口を開く。
「私、今日……ありがとうって言われました」
「……そうか」
「でも、嬉しくなかった」
声が震える。
「だって、私は何もしていない。祈ってもいない。信じてもいない」
アルヴェルトは、すぐには答えなかった。
「それでも、人は救われた」
「それは……偶然です」
「偶然でもいい」
彼は静かに言った。
「少なくとも、君のせいで誰かが死んだわけじゃない」
リーシェは、はっと顔を上げた。
「……私のせいで、死ぬこともあるんですか」
問いというより、恐怖だった。
アルヴェルトは、視線を逸らさなかった。
「可能性の話だ」
正直すぎる言葉。
だが、嘘よりずっと優しかった。
「リーシェ」
初めて、名前だけを呼ばれた。
「君は、聖女としてここにいる。でも」
少しだけ、言葉を探す間があった。
「今ここで泣いているのは、ただの人間だ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……それでも、いいんですか」
「いい」
即答だった。
「聖女でも、人であれなくなる必要はない」
リーシェは、声を上げて泣いた。
抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れる。
弱さも、怖さも、不安も。
アルヴェルトは何も言わず、ただそこに立っていた。
慰めることもしない。
祈りも、言葉も、差し出さない。
それが、何よりの救いだった。
しばらくして、涙が落ち着いた頃。
「……もし、祈れなくなったら」
リーシェが言う。
「それでも、私は聖女でいなきゃいけませんか」
アルヴェルトは少し考えた。
「聖女でいるかどうかは、俺が決めることじゃない」
正直な答え。
「だが――」
彼は続けた。
「君が人であることは、誰にも奪えない」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
リーシェは、胸の奥の空白が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
完全に埋まることはない。
それでも、そこに“立っていていい”と思えた。
聖女としてではなく、
誰かの役に立つ存在でもなく。
ただ、ここにいる一人の人間として。
それだけで、今は十分だった。
この夜のことを、リーシェは後になって何度も思い出す。
祈りを失った世界で、
彼女が初めて「救われた」瞬間だったから。
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