第4話 聖女の役目
聖女としての日々は、驚くほど静かに始まった。
豪華な部屋を与えられ、食事は決まった時間に運ばれ、身の回りの世話はすべて整えられている。
けれど、自由はなかった。
「これを覚えてください」
若い神官が、薄い冊子を机の上に置いた。
祈りの言葉が、びっしりと書き連ねられている。
「癒やしの祈り、鎮魂、祝福、浄化……基本的なものです。発音と間を正確に」
リーシェは冊子を開き、目を通した。
文字を追うことはできる。
意味も、なんとなく分かる。
だが――心が動かない。
「感情は込めなくていいんですか」
ふと、そう尋ねた。
神官は一瞬きょとんとし、すぐに首を振った。
「不要です。むしろ、邪魔になることもあります」
それは当然のように告げられた。
「聖女様は“器”です。正確に言葉をなぞっていただければ、それで」
器。
その言葉が、頭の中で鈍く響く。
祈りの練習は、淡々と進んだ。
決められた場所に立ち、決められた姿勢で、決められた言葉を口にする。
「……ルミナ・エル……」
声は、かすれなかった。
間違いもない。
それでも、胸の内は空白のまま。
なのに。
「反応、確認」
床の紋章が、かすかに光った。
リーシェは、思わず口を閉じた。
「……今、何かしましたか」
「いいえ」
神官は即答した。
「詠唱は正確でした。問題ありません」
問題しかない、とリーシェは思った。
祈っていない。
願っていない。
信じてもいない。
それなのに、奇跡は“形”を取る。
昼には、実地確認があった。
神殿の奥、簡易的な治療室。
軽い怪我を負った兵士が、寝台に座らされている。
「大丈夫ですか」
声をかけると、兵士はぎこちなく笑った。
「ええ。光栄です、聖女様」
その呼び方に、胸が少し痛んだ。
リーシェは、教えられた通りに祈りの言葉を唱える。
光が生まれ、傷が塞がる。
完全ではないが、確かに回復していた。
「……ありがとうございます」
兵士は深く頭を下げた。
リーシェは、何も言えなかった。
感謝される理由が、自分には分からなかったからだ。
部屋を出た廊下で、アルヴェルトが待っていた。
「終わったか」
「……はい」
短いやり取り。
歩きながら、リーシェはぽつりと呟いた。
「私、何もしていないんです」
アルヴェルトはすぐに答えなかった。
「それでも、結果は出ている」
「それが、怖いんです」
足が止まる。
「私の気持ちは、どこにも関係ない」
アルヴェルトは、ゆっくりと振り返った。
「……祈れないのか」
リーシェは、頷いた。
「祈り方が、分からない」
彼は少し考え、低い声で言った。
「なら、無理に祈るな」
リーシェは、目を見開いた。
「そんなこと、許されません」
「俺は許す」
即答だった。
「少なくとも、俺の前では」
胸の奥が、わずかに緩む。
夜、部屋に戻っても、眠れなかった。
今日の光景が、何度も蘇る。
感謝する人。
安堵する神官。
正しく動いた“聖女”。
そして、何も感じていない自分。
「……これが、私の役目」
呟いた声は、誰にも届かない。
そのとき、胸の奥の空白が、微かに揺れた。
言葉ではない。
音でもない。
それでも、確かに何かが“在る”。
リーシェは、布団の中で目を閉じた。
聖女としての役目が始まった日。
彼女は、はっきりと理解していた。
――これは祝福ではない。
これは、檻だ。
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