第15話 奇跡なき日常
奇跡は、起きなかった。
それが、最初に訪れた変化だった。
聖女が隔離されてから、数日。
神殿からは公式な発表はなく、ただ巡行予定が「延期」されたとだけ告げられた。
王都は、表面上は平穏だった。
市場は開き、商人は声を張り、子どもたちは走り回る。
誰もが、いつも通りの日常を装っている。
けれど、微妙な違和感が積み重なっていた。
神殿前の広場。
かつては、朝夕に祈りを捧げる人々で溢れていた場所。
今は、まばらだ。
「……最近、何も起きないな」
年配の男が、呟く。
「前は、祈れば風邪くらいは治ったのに」
隣の女が、肩をすくめた。
「奇跡なんて、元々そんなものよ」
その言葉に、男は返せなかった。
奇跡がない日常。
それは、壊滅でも絶望でもない。
ただ――不便だった。
小さな傷は、時間をかけて治すしかない。
作物は、世話を怠れば枯れる。
病人は、看病が必要になる。
当たり前のこと。
それを、人々は久しく忘れていた。
隔離された部屋で、リーシェは窓の外を眺めていた。
祈らない日々。
奇跡を起こさない時間。
それでも、世界は続いている。
胸の奥を確かめる。
空白は、静かだ。
削られていない。
食事を運んできた若い神官が、無意識に口を滑らせた。
「……東区で、少し騒ぎがありました」
「騒ぎ?」
久しぶりの会話に、リーシェは顔を上げる。
「井戸が枯れて、住民同士で言い争いに……」
彼は、言葉を濁した。
「でも、最終的には協力して、水路を掘り直したそうです」
リーシェは、目を瞬いた。
「……奇跡は?」
「起きていません」
神官は、少し困ったように笑った。
「でも……死人は出なかったと」
その夜。
別の報告が届く。
南の貧民区で、流行病が出た。
治癒の奇跡は、当然起きない。
代わりに、人々は寝ずに看病を続けた。
薬師が走り回り、食べ物を分け合った。
治らない者もいた。
死者も、出た。
だが、放置される者はいなかった。
リーシェは、胸が締めつけられるのを感じた。
――これが、祈り。
奇跡ではない。
光もない。
それでも、人は誰かのために何かを差し出している。
見返りを求めずに。
翌朝。
神殿の外で、小さな出来事が起きた。
倒れた老人を、通りすがりの少女が支えた。
周囲の人々が手を貸し、家まで運ぶ。
誰も、聖女を呼ばなかった。
誰も、奇跡を期待しなかった。
それでも――
「……助かった」
老人は、確かに生きていた。
隔離された部屋で、リーシェは目を閉じた。
胸の奥が、微かに温かい。
祈りの聖源が、反応している。
だが、それは自分を通してではない。
人から、人へ。
それは、弱く、断片的で、不完全だ。
だが、確かに“ある”。
神殿の上層部では、別の空気が流れていた。
「奇跡が減っている」
「だが、混乱は限定的だ」
「……なぜだ」
説明が、つかない。
祈りが集約されていないのに、
世界は即座には崩れていない。
リーシェは、はっきりと理解した。
聖女がいない世界は、
確かに不便で、苦しい。
だが。
誰か一人を削ることで成り立つ世界より、
ずっと“生きている”。
奇跡なき日常。
それは、終わりではなかった。
始まりだった。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
あと数話で完結になります。
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