第12話 祈りの本質
禁書庫の最深部は、冷えていた。
書架は低くなり、天井も下がる。
まるで、世界の裏側に潜り込んでいくような感覚。
老司書は、黙って先を歩いていた。
足取りは遅いが、迷いはない。
「ここから先は、神殿の正式記録ではない」
立ち止まり、そう言った。
「捨てられた記述だ」
リーシェは、息を呑んだ。
石壁に埋め込まれた小さな扉。
封印というより、“忘却”に近い扱い。
老司書は鍵を使わなかった。
ただ、古い印章に触れる。
扉が、静かに開いた。
中には、一冊の書があった。
装丁は質素で、題名もない。
「これが、最初の祈りの記録だ」
リーシェは、慎重に近づいた。
「……聖女の?」
「違う」
老司書は首を振る。
「まだ、聖女という制度が生まれる前のものだ」
ページを開く。
そこにあったのは、儀式でも聖句でもない。
断片的な文章。
日記に近い。
『彼女の代わりに、畑に立った。
祈ったわけではない。
ただ、私が倒れると決めただけだ』
リーシェの指が、止まる。
『それで雨が降った。
理由は分からない。
だが、誰かが救われた』
「……これが、祈り?」
「そうだ」
老司書は静かに言った。
「最初の祈りとは、願いではない」
ページをめくる。
『私は神に何も求めていない。
ただ、あの子が生きるなら、それでよかった』
『結果は、どうでもよかった』
リーシェの胸が、強く打たれた。
――結果を求めない。
祈りなのに?
「祈りとは」
老司書は言葉を選ぶ。
「本来は、“差し出す行為”だ」
願うことではない。
期待することでもない。
「誰かのために、
自分が何かを手放すと決めること」
リーシェは、無意識に自分の胸に手を当てた。
空白。
削られていると思っていたもの。
「……じゃあ」
声が、震える。
「今の世界で行われている祈りは」
「取引だ」
老司書は、はっきりと言った。
「救ってくれたら信じる。
奇跡を起こしたら従う」
沈黙。
「それは、祈りではない」
リーシェの中で、何かが音を立てて繋がった。
自分が祈れなかった理由。
言葉が空虚だった理由。
「私は……」
喉が、熱くなる。
「私は、奪われる祈りを拒んでいたんですね」
老司書は、ゆっくりと頷いた。
「お前は、願えなかったのではない」
「“差し出す役”を、
最初から押し付けられていたからだ」
胸の奥が、苦しくなる。
聖女とは何か。
制度とは何か。
すべてが、一本の線で繋がる。
「……聖女制度は」
リーシェは、呟く。
「祈りを、一人に集約したもの」
「その通りだ」
老司書は、淡々と続ける。
「人々が、本来差し出すはずだったものを、
一人に背負わせる仕組み」
だから、聖女は壊れる。
壊れない方が、おかしい。
リーシェは、書を閉じた。
手が、震えている。
「……私が拒否したら」
声を、強くする。
「祈りは、完全に消えますか」
老司書は、すぐには答えなかった。
しばらく考え、そして言った。
「一時的にはな」
だが、と続ける。
「だが、祈りは人の行為だ」
「奪われなければ、戻る」
リーシェは、目を閉じた。
怖い。
でも。
今までとは、違う怖さだった。
自分が消える恐怖ではない。
世界が、変わる恐怖。
それでも。
「……私、祈らないと思います」
はっきりと、言った。
老司書は、何も言わなかった。
止めもしなかった。
それが、答えだった。
禁書庫を出ると、廊下の先に光が差していた。
リーシェは、歩き出す。
もう、戻れない。
だが同時に、初めて分かった。
祈りとは、
誰かが消えることではない。
誰かが、
自分で差し出すことを選ぶ行為だ。
そして今まで、
その役目を一人で背負わされていたのが――
聖女だった。
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