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滴る足音

作者: 幻彗 / gensui

『夏のホラー2025』企画にエントリーしています。

じつはホラーはあまり得意ではないのですが、「静かで怖いもの」を書いてみたくなり挑戦しました。

雨音が好きな方も苦手な方も、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

カーテンもまだ掛けていない窓ガラスに、か細い月が滲んでいた。引っ越ししてから1週間後、時刻はちょうど深夜二時だった。積み上げたダンボールの隙間で毛布にくるまり、うとうとしかけた佐伯結衣の耳朶を、「ポト…」と低い滴音が叩いた。

 慌てて天井を仰いだ。白い合板は乾き切り、染みひとつ見当たらなかった。気のせいかと思いかけた瞬間、ふたたび――「ポト…ポト…」。規則正しく落ちるのに、雫はどこにもなかった。

 キッチンへ走り、蛇口を押さえてみた。金属は冷たく固く閉じられていた。排水口に顔を近づけると、生臭い川泥の匂いがふっと鼻先を撫でた。

 寝室へ戻ると、闇が濃さを増していた。スマートフォンで時間を確認した刹那、背後で床板がわずかに軋んだ。振り返った畳の上に小さな濡れ跡――だが指で触れたが乾いたままだった。

 結衣は耳を塞ぎ、布団に潜った。滴音は心臓の鼓動と重なり合い、ゆっくりと脈を刻んだ。鼓動が速まると雫の間隔も縮んだ。やがて障子の隙間から冷気が忍び込み、見えない水の匂いが部屋を満たした。

 眠気は遠のき、深い井戸の底に吸い込まれるような静寂だけが残った。最後にもう一滴――「ポト」。結衣は目を閉じたまま、濡れていないはずの枕に冷たい染みが広がっていく錯覚に身を固くした。


翌朝。結衣は取材ノートと古いミラーレスカメラを肩に掛け、川中島古戦場跡へ向かった。

 東京の編集プロダクションを辞め、「歴史と土地の声をじかに聞きたい」という理由で長野へ移住した。両親は数年前に他界し、唯一の肉親である妹は遠くで就職していた。都会の喧噪から離れ、独りで記事を書くには静かなこの地がちょうどよかった――少なくとも、昨夜の滴音を聞くまでは。

 案内役は地元で語り部を務めていた元社会科教師・宮坂明。軽トラックを降りると、柔らかな信州訛りで「まず“首清め井戸”を見ておきましょう」と言い、竹林の奥へ歩き出した。

「上杉軍と武田軍がぶつかったあの日、この井戸で無数の首が洗われたと伝わっています。水面に影が映ったら、討死した兵が帰り道を探している証しだ、とね」

 八幡原史跡公園の裏手。木漏れ日を縫って進むと、苔むした石組みの井戸がひっそり口を開けていた。風もないのに水面がわずかに揺れ、雫の輪紋が静かに広がっていた。


(昨夜の雫と同じ間隔……)


 そう思った瞬間、縁石に赤い子供靴がひとつ転がっていたのが目に入った。濡れた布地から雫が垂れ、その滴は重力を無視して石を逆らい、上へ――水面へ吸い込まれていった。


 井戸を離れ、宮坂とともに土径を下った。緑陰を抜けるたびに、結衣のリュックの奥でカメラがカタリと鳴り、耳の奥ではさきほどの雫がまだこだましていた。

「少し寄り道を」

 宮坂は指で日の当たる丘を示した。そこには一面の麦畑が波打っていた。だが穂先は奇妙に垂れ、まるで天地が反転した草屏風のようだった。

「逆さ麦、って聞いたことありますか」

「いえ……」

「戦で首が多く落ちた土は湿りすぎて、作物が根を上げる。だから刈り入れ前になると穂が下を向く。首が地面を探している合図だとも言われます」

 冗談とも真実ともつかぬ声。結衣は望遠で穂先を捉えた。金色の列が風に震え、影が地表を泳いだ。シャッターを切るたび、ファインダーの底に影のような人影が横切った――兵士の列? 気のせい、と自分に言い聞かせた。


 低く雲が鳴った。山裾を覆っていた雲が裂け、冷たい雨粒が一斉に落ち始めた。宮坂は作り慣れたビニールの雨合羽を広げ、結衣にフードを被せた。

「山の雨はすぐ止む。けれど、この畑には長居しない方がいい」

 雨脚は強まり、畑はたちまち水鏡に変わった。麦の列が逆さに映り込み、風が止むと上下の金色が溶け合った。

 ずぶ、と足が泥に沈み込んだ。結衣が慌てて足を抜いた。その跡に黒い水が瞬時に湧き、波紋を残して止まった。波紋はすぐ足跡の形に収束し、次の瞬間にはまた消えた。

 水面の向こう、人影が立っていた。濡れ髪を貼りつかせた少女――昨日の夜、廊下で見失ったあの子に似ていた。片足を泥に沈めたまま、顔だけをこちらに向け、無表情に唇を開いた。

「もうすぐ……聞こえるよ」

 声か風か、胸骨を震わせる低さ。結衣が瞬きをした刹那、少女は消え、そこには片方の赤い靴だけが浮いていた。靴は泥に沈まず、逆さ麦の穂先に支えられるよう宙にとどまっていた。そこから滴り落ちた雫が、なぜか上へ向かって麦の列を遡り、空に吸い込まれた。


「行きましょう」

 宮坂が結衣の肩をつかみ、畑を離れた。雨はさらに激しく、轟く空が麦海を揉みほぐした。

 舗装道路に出たとき、結衣は背中を襲う冷気に身を震わせた。振り返ると、麦畑の水面は鉛の鏡と化し、そこに黒い行列が映っていた。合戦絵巻のように槍を携え、ずぶ濡れの兵が無言で行進しているのだ。だが空の下には誰もいない。結衣の目には、鏡像だけが歩いているように映った。

 やがて雷鳴が畑を裂き、鏡は砕けた。水柱が立ち、霧のような水滴が風に運ばれ、結衣の頬を切る。耳を塞いでも「ザッ、ザッ」という進軍の足音が鼓膜を打ち続けた。


 バス停の小さな屋根に駆け込む頃には、鼓動と足音の区別がつかなくなっていた。宮坂が静かに語った。

「昔、雨の日にこの畑で子供がひとり消えた。泥に沈んだ首を探しに来た、と言い残してね」

 結衣は震える手でカメラを確認した。レンズは濡れて曇っているはずなのに、液晶には鮮明な写真が映っていた。畑の中央、逆さ麦の中に立つ少女。肩から濁流がしたたり落ち、足元には黒く裂けた地面。その奥に、数え切れない白い足跡が蠢いていた。


 バスが来る気配はない。雨音は屋根を叩きつけ、空気は湿りすぎて息が重い。ふとスマートフォンが震えた。画面に通知はない。だが背後で――「ポト…ザッ…」。

 振り向くと、アスファルトに水溜りがひとつ。そこにさきほどの少女の赤靴が逆さに浮いていた。雫が滴り、上へ昇る。空を見上げれば、雲は裂け、雨はまだ止まない。

 結衣は靴に触れようとして手を止めた。指先に届く前に靴は音もなく沈み、水溜りごと地面に吸収される。残ったのは泥の匂いと、足元へまとわりつく冷たい霧。

 遠くで宮坂が名を呼ぶ声がした。慌てて振り返った結衣の背後、誰もいない畑から一陣の風が起こり、逆さ麦が波打った。

 その波はまるで、見えない兵たちが列を組み、闇の底から抜け出そうと揺さぶっているようだった。


夜八時。豪雨は小康状態になったものの、雲は低く垂れこめ、街灯のオレンジが雨粒を鈍く光らせていた。結衣は震えた両腕を抱き、古アパート〈桔梗荘〉の階段を上った。踊り場の蛍光灯は水滴に濡れたように滲み、薄暗い廊下へ冷気を撒く。


 ――ザッ。


 背後でひときわ大きく水を踏む音がした。振り返るが、階段は闇に沈んでいた。幻聴だと言い聞かせ、急いで鍵を差し込んだ。


 部屋の中は湿度が増し、畳がじとりと汗ばんでいた。照明の紐を引いた瞬間、バチンと短い閃光。蛍光灯が弾け、室内が闇に沈んだ。外の稲光が障子を白く染め、つづいて深い静寂――そこへ、「ポト…ザッ…」。天井から滴音が落ち、床を濡らす足音が這う。


 心臓が喉まで突き上げた。スマホのライトを頼りに玄関へ戻ると、扉の向こうで誰かが立ち止まる気配。影が下からにじむように伸び、結衣の靴先をかすめた。


「佐伯さん、いるの」


 低く掠れた女声。大家の田嶋菜津子だった。結衣が震える声で返事をすると、戸の向こうで鍵の束が微かに鳴った。


「開けなくていい。水が呼んでるときは、じっとしてるんだよ」


 田嶋は囁き、続けざまに早口で経文のような言葉を唱え始めた。障子の隙間から廊下の蛍光灯がまた弾け、闇が波のように押し寄せた。


 結衣は背を壁につけ、スマホのライトを天井へ向けた。合板が脈動し、乾いていたはずの木目がじわりと黒ずむ。やがて水滴が盛り上がり、あらぬ方向へ昇って消えた。


「前に住んでた若い男もね、その音を録ろうとして死んだよ」


 扉越しの田嶋の声は、ずっと昔の出来事を思い出すように湿っていた。

「夜中の二時に天井を叩き、水の跡を追って……翌朝、畳の下で見つかった。胸まで水に浸かっていたのに、畳も服も乾いていたんだ」


 結衣は声を失った。すると廊下奥から、子どもの笑い声が小さく響いた。スマホを向けると、光の輪の中心で濡れ髪の少女――武田凛花が片足を上げたまま立っていた。赤いワンピースから水が滴り、廊下に黒い足跡を連ねていた。結衣は喉を凍らせながら、その姿を見上げた。


「ねえ、結衣さん」


 凛花は靴を片手に掲げ、ゆっくりと逆さにする。靴の中から零れた雫は落ちず、空気を這うように天井へ昇っていく。

「あと少しで、みんな帰れるんだって。だから、動いちゃだめだよ」


 最後の語尾が廊下に滲み、少女の姿が灯りの滲みと共に溶けた。


 静寂。結衣は扉にもたれ、唇を噛んだ。田嶋の気配は消え、廊下は闇に沈んだまま。スマホのライトがわずかに揺れ、天井の染みが呼吸するように膨らんだ。


 遠くで時計が二時を告げる。音は風に攫われ、代わりに――「ポト…ザッ…ザッ…」。足音が鼓動と同調し、床下で何かが歩き出した。


 結衣は肩を震わせながら目を閉じた。田嶋の忠告どおり、一歩も動かない。耳元で濡れた兵の列が行進し、やがて壁を通り抜け、夜の底へ遠ざかっていった。


 数分か、数時間か。気づけば滴音も足音も止み、闇は静まり返っていた。結衣はおそるおそる立ち上がり、障子を少し開いた。廊下の先、月明かりの差す階段に、赤い靴がぽつんと置かれていた。


 その靴は、ゆっくりと横倒しになり、口を開けた。闇より黒い水滴が一つ、廊下を逆さに昇り――天井に吸い込まれて消えた。


 翌日の夕刻、川中島一帯に警戒レベル4の避難指示が発令された。千曲川上流で続いた豪雨が堤防を溢れさせ、八幡原史跡公園へ向かう道路はすでに膝下まで冠水していた。アパートの窓ガラスに叩きつける雨粒は夜を早め、灰色の空がじわじわと土色に染まりはじめていた。

 結衣のスマートフォンが震えた。画面には「宮坂」の名。

《供養塔の前にいる。水が騒いでいる。来られるなら急いで》

 短いメッセージの末尾に、濁った井戸水のようなノイズが混じっていた。


 結衣は合羽を羽織り、懐中電灯とノートをリュックに詰める。玄関を開けると、すでに外廊下は薄膜の水路と化し、足元を冷たい流れが撫でた。田嶋の部屋に灯りは無かった。

「行くのかい」

 階下から上がる途中、田嶋が暗がりで濡れた傘を絞っていた。

「宮坂さんが供養塔で――」

「雨が兵を連れて来る。戻れなくなるよ」

 田嶋はそう言って目を伏せた。結衣は唾を飲み込み、靴底を水に沈める。昨夜の足音は遠ざかった。けれど今夜は、足跡そのものが水面に刻まれる気がした。


     ◇


 史跡公園へ向かう県道は濁流の滝壺と化していた。道路脇を走る用水路から水が溢れ、石垣にぶつかるたび、断末魔のような呻き声に変わる。懐中電灯の光が雨粒ですぐ霧散し、視界は三メートル先まで。

 結衣は両腕を抱きながら足を進めた。泥水がアスファルトを覆い、靴底を吸い込む。歩幅に合わせ、背後でザッ、ザッと遅れて足音が重なった。振り返っても誰もいない。闇はただ泡立ち、泡が弾ければ呻き声へ変わる。


 供養塔の石段に灯りはなく、雨を裂く稲光だけが巨石の影を浮かび上がらせる。石碑の足元は腰まで冠水し、宮坂は膝下の泥水に立ち、経文を唱え続けていた。

「来てはいけなかった」

 結衣が告げると、老人は首を横に振った。

「来たのは音の方だ。もう引き返せる雨じゃない」

 供養塔の中心石には、無数の水泡が「口」のように開き、雨ではない水が逆流していた。泡は重なり、深い胸の音へ変わる。鼓動――いや、進軍太鼓か。

 結衣は石碑に近寄り、掌を当てた。石は凍るほど冷たいのに、内部から微細な振動が伝わる。指先を当てた場所に黒い斑点が現れ、じわりと円を拡げた。


 稲光が塔を貫いた瞬間、空気が裏返る音がした。宮坂の経文が途切れ、闇の中、石碑がぐう、と呻いた。水面に広がった泡の上へ、人影が――否、影だけが浮き上がる。槍を担ぎ、鎧を濡らし、顔のない兵たち。彼らは水の上を渡り、石段をのぼるたび、結衣の耳元でポト…ザッ…と滴音と足音を交互に刻んだ。

 身体が竦む。足首を掴む冷たい感触。水面下に沈む草履の跡、無数の趾が泥に吠え、結衣を泥濘へ引き込もうとする。

「佐伯さん!」

 宮坂が腕を引いた。結衣は泥を蹴り、石段を駆け上がる。どこからともなく少女の笑い声が響いた。


     ◇


 丘を越え、八幡原の中心へ下りると、濁流はさらに勢いを増していた。草原は黒い湖へ変わり、地面から突き出た石標が点々と小島のように浮かぶ。遠くで雷が山並みを照らすたび、水面に兵の行列が映った。

 その中央に、赤いワンピースの少女――武田凛花が首まで水に浸かって立っていた。片手を差し上げ、何かを待つように指を曲げた。

 宮坂が結衣の腕を押さえた。

「近づくな。あれは渡し守だ」

 言葉を息で切りながら、老人は再び経を唱えた。

 凛花の足元で渦が巻き、黒い柱が空へ伸びる。柱の内側を、逆さの雫が多数昇ってゆく。雫の奥に、ずぶ濡れの兵士が何十人も隊列を成し上昇していた。鼻先から垂れた水が逆流し、槍先は月明かりの代わりに稲光で輝いた。

 凛花は微笑み、結衣を誘うように手招いた。

「向こうは、温かいよ。みんな、待ってる」

 雨が声を細切れにした。それでも結衣には、少女の瞳に映る無数の足跡が、こちらの世界を擦りガラスの向こうから打ち続けるのが見えた。


 宮坂が経を強めた刹那、凛花の身体が黒い柱に溶けた。水面には片靴だけが残り、ポト…とひとしずく、靴底からこぼれた。

 次の瞬間、湖全体が心臓の鼓動のように震え、大きく息を吐くように凹んだ。水が吸い込まれ、地表が露わになりかけ――反動で黒水が跳ね上がった。

 結衣と宮坂は堤防の斜面へ駆けた。後方で石標が倒れ、水柱の尾を引きながら宙を舞う。水音は次第に地鳴りへ変わり、あたりに貼りついていた闇を震わせた。


     ◇


 どれほど走ったか。防災無線のサイレンが遠くで響く頃、結衣は陸橋のたもとで膝をついた。

 雷明かりに照らされた宮坂の顔は土気色で、目尻に泥雨が流れていた。老人は震える声で言った。

「見たろう、あれが八幡原の ”かえりみち” だ。戦で渡れなかった魂は、雨の日に水へ道を求める」

「凛花、は……?」

「渡し守だ。誰ともわからん小児の姿を借り、兵を迎えに来る。靴は羽織。雫は手旗。黒水は陣太鼓」


 結衣は息を呑んだ。鼓膜の奥で、まだ滴音が鳴っていた。ポト、ザッ、ポト――脈打つたび、鼓動が速くなる。

「もう引き返せない。走れ」

 宮坂が声を震わせる。陸橋の下で濁流が逆巻き、橋脚を揺らした。水面に再び兵の影が浮かび上がり、斜面を這い上がろうとしていた。


 結衣は立ち上がり、雨の闇へ走り出した。背後の老人の経文は風に呑まれ、巻き上がる水煙が月を隠してゆく。


 濁流の上に、凛花の笑い声がひらひらと舞った。


 時計が二十三時を過ぎた頃、桔梗荘に戻った結衣は、玄関の軒下で立ち尽くした。豪雨はいまだ止まず、街灯は雨脚を背に震え、廊下へと細く歪んだ影を投げていた。


 ――ザッ、ザッ。


 背後の水溜りが踏み鳴らされる気配。振り返っても誰もいない。長靴を脱ぎ、濡れた靴下のまま階段を上がると、二階の手すりが結露で光っていた。指で触れた雫は、重力を無視して不意に浮き上がり、冷たい光の尾を残して天井へ吸い込まれた。心臓が強く跳ねる。


 部屋の前に立つと、扉の下端から細い水流が漏れていた。鍵を差し込み、胸の奥で踏切が鳴るような鼓動を振り切って扉を押した。


 部屋は闇だった。電気が落ちているはずなのに、畳一面が黒い鏡のように光を返し、その中央に田嶋菜津子が正座していた。蝋燭一本の代わりに、床から湧き出す黒水が揺らめく青い光を放ち、彼女の顔を青白く照らした。


 田嶋はうわ言のように古い念仏を呟き、膝の上で数珠を滑らせていた。結衣が声をかけようと一歩踏み出すと、床の水面が波打ち、逆さの月が割れるような音を立てた。


 ――ポト。


 天井から一滴。雫が水鏡を叩くと、波紋の中心から白い足跡が浮かび上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ……足跡はすぐに数え切れなくなり、部屋の四方へ広がっていった。


 真夜中の二時を告げる、悠長な寺の鐘が遠くから漂う。その響きに合わせるかのように、踏みしめる足音が水面下で増幅され、床下の空間が存在を持ちはじめた。


 結衣は天井を仰いだ。合板が呼吸をするように膨らみ、乾いたはずの木目が濡れの紋様へ変わる。そこにぽっかりと裂け目が走り、真っ逆さまの闇が口を開く。


 黒水の柱が吹き上がった。天井から床へ真一文字に落ちたかと思うと、その水はすべて上へ逆流し、天井裏へ戻っていく。柱の内側を濡れた兵士たちが行列になって昇り、槍先は雨を切り裂く雷光のように瞬く。


 田嶋が経を強めた。だが声は水音に呑みこまれ、結衣の耳には、遠い太鼓のような鼓動しか届かない。足跡は今や部屋の隅々まで満ち、壁も襖も、兵の歩調と同じテンポで微かに息づいていた。


 畳の向こうでざわめきが分かれ、紅いワンピースの少女が現れた。武田凛花。濡れた髪を額に貼りつけ、空ろな瞳で結衣を見上げた。


「もう、帰れるよ」


 凛花が持ち上げた片靴から雫が零れた。雫は落下せず、天井へ舞い、闇の裂け目に消えた。


 結衣は足を取られ、座り込みながら首を横に振る。

「あなたは……もう向こう側にいるの?」

 凛花は笑うでも泣くでもなく、ただ首を傾げた。その瞬間、足跡の行列が水面を突き破り、部屋を包囲した。


 ――ザッ。


 鼓動が耳を打つたび、足音と滴音が重なり、世界が一つの脈動に統一されていく。


「動くな!」


 田嶋の叫びが割れた。結衣は震える腕で畳を掴む。足首に冷たい手が触れた――いや、濡れた草履の趾が絡みついていた。引き込まれる。冥い水底へ落ちる感覚。


 凛花が片靴を差し出した。赤い布地は血より濃い黒水に染まり、靴底から溢れる雫は止まらない。結衣は必死に視線を避けた。だが鼓動と足音はもはや同じ速度で、天井裏へ昇る兵の列とシンクロしていた。


 ――ポト。


 最後の一滴が落ちた。水柱は崩れ、闇の裂け目が閉じる。部屋を満たしていた黒水は瞬時に引き、畳は元の乾いた緑を取り戻す。足跡も、少女も、兵の列も消えた。


 蝋燭のない部屋を、湿った静寂が支配する。田嶋は息を詰めたまま数珠を握り、結衣は膝で震えながら天井を見つめた。あの裂け目はもうない。


 途方もない静けさ――耳鳴りよりも深い無音が降りてくる。世界が息を潜めているのか、それとも時だけが止まったのか。


 ふいに、畳の上に小さな濡れ跡が現れた。片靴の形をした、水の影。結衣は目を凝らす。靴から広がった雫が、再び逆さに昇っていく。


 そして、闇の奥で誰かが名を呼んだ。凛花の声か、水に沈んだ兵の声か分からない。透き通るほど冷たい声。


 ――佐伯結衣。


 鼓動が跳ねる。結衣は立ち上がれない。闇が、静寂が、雫が、みな自分の名前を知っていた。


 天井裏で乾いた木が軋んだ。やがて、どこにも属さないひとしずくがゆっくりと膨らみ、耐えがたい重みを纏って落下する。


 ポト。


 世界が再び動き始めた。時計の針が二時一分を指し、虫の声が遠くでざわめいた。だが結衣は動けない。畳の上の片靴の影が消えないまま、部屋中の空気を握り潰すように張り詰めていた。


 外では雨が弱まりつつある。雲の切れ間から月が覗き、障子に淡い光を落とした。月の輪郭の向こうで、わずかな滴がまたも膨らみかけていた。


 結衣は瞼を閉じ、呼吸を整えようとする。けれど耳の奥では、絶えず遠い行軍の足音が鳴り続けていた。


 ――ザッ、ザッ、ザッ。


 それは鼓動と同じ速さで、これからも途切れる気配を見せなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作《滴る足音》は、川中島という実在の地を舞台に「水」と「音」がもたらす幻想的な怪異を描くことを目指しました。

(もしそう感じていただけなかったら、それはひとえに私の力不足ということで……!)


滴る雫、逆さの麦、赤い靴――どれか一つでも記憶に残れば幸いです。

ご好評をいただけた際には、今回登場しなかった後輩や、まったく別の土地に潜む“水の怪異”を描く連載版も検討します。


感想・レビューをいただけると、とても励みになります。どうぞよろしくお願いします。

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