エンジェルフォール
あるとき神は、高き台地を創られた。
海の底を持ち上げ、天に近付けた。
そこは、選ばれし者だけが行くことができた。
地上に天国ができたのであった。
あるとき神は、崖の途中に広い棚を創られた。
そこで休む者は、自らの罪を思い出す。
罪は涙となって岩を流れ、岩を灰色に染めた。
罪を洗い終えた者だけが、白き壁を登ることができた。
あるとき神は、自然を愛する民を慈しみ、台地の上へと移された。
なぜならその民の都は、海に沈んでしまったからである。
だが民は、なお故郷を求め、崖より身を投げた。
その時、神は知った。
民が愛していたのは、故郷だったのだと。
神は落ちる民を霧とし、そっと故郷へと帰された。
◆
イシュの民は何も、引っ込み思案というわけではない。
他のみんなと主張がぶつからなければ、遠慮は消え去り、上昇思考を見せるのだ。
「あい、きゃん、ふらーいっ!」
どっぶ~ん!
瑠璃語と呼ばれる類の言葉だろうか。
私を気遣ってくれたことのあるイシュの民が、テルマエに飛び込んだ。
同じ最後尾を歩いて来たプリマヴェーラだ。
「先に身体を洗いなさいな!」
あっという間に濁り湯になった今、もはや時すでに遅しである。
「なんで?」
「なんでって、次に入る方が……」
「だって、流れてってくれるし。ほら。」
「……本当ですわね。あの、さっきの掛け声、私にも教えてくださらない?」
「あい、きゃん、ふらーい!だよ!」
「ゆっくり教えてちょうだいな。」
「あい。」
「あい。」
「きゃん。」
「きゃん。」
「ふらーい。」
「ふらーい。」
「よし、行ってみよう!」
「フランチェスカ・ウァレリア・フォン・ミッチェル!行きまーす!あい、きゃん、ふらーいっ!」
どっっぶ~んっ!
「「あはははははは!」」
「いざ、参る!」
どっっぶ~んっ!
「「「あはははははは!」」」
「……あぁ、愉快でありんす!浮世の塵芥も、砂埃も、皆この湯に溶けてしまいんした。」
「あなたもそんな真似、するのね。」
「紫露は、くちゃ~い!ばっちい~!などと言われとうないでありんす。」
「見つかる前に直行できて良かったね!」
種族は違えど、汚れれば同じ。
ローザよりも時間は掛かったけれど、ようやくイシュの民と並べたように思えた。
砂埃は湯に溶け、流れていく。
濯がれたプリマヴェーラの肌には、消えない痕が浮かんでいた。
「見事なテルマエですわね。地下だというのに明るくて、不思議ですわ。」
「ガン・イシュは、楽園を求めた者たちが行きついた果てでありんす。」
「私、帰りたくないな。」
「ここには永く住まうための庵がありんす。心ゆくまでお留まりになんなんし。」
「いいの?!」
「二つの胤が揃った今、いずれは世界中のイシュの民の終の棲家にだってなりんしょう。」
懐の深さが感じられた。
途中で見掛けた石の家は、遊びに誘った者たちの仮住まいなどではないということ。
魔王は、明確にイシュの民を集めようとしているのだ。
そして私自身、それがいいと思うようになってしまっていた。
ここには、鞭の一振りもないのだから。
光に照らされて、きらめく小さな波。
その音が、どこか心地よかった。
どこへ行くのだろう――
「このお湯、どこに行くんだろう……」
プリマヴェーラも、そんなことを言う。
流れの行方を確かめたくなり、私は薄まっていく濁り湯を追ってゆっくりと歩き出していた。
「だんだん冷たくなってくね。」
「ええ。水も増えて来ましたし、私は上がりますわ。」
私はただ、流れる水を目で追い続けた。
洞窟の先から、強い雨が降り続くような平坦な音が響く。
周囲から集まる水と共に、テルマエとは違う冷たい空気が吸い寄せられている。
縦穴の底では、風はまだ慈悲深く、テルマエの湯気を優しく天へと運んでいた。
だが、無数の枝道を飲み込み、道が一筋の地下河川へと絞られるにつれ、空気は牙を剥き始めた。
背後から押し寄せる冷気は重さを増し、目に見えない巨大な手が背中を突き飛ばそうとする。
「これ以上は危ないのではないかしら。」
「え?何か言った?」
声は轟音に塗りつぶされていく。
視界の先に、白い光。
水の流れを追い掛けるように歩いた末に、そこは、海だった。
……などという悠長な感想を抱く暇は、一瞬たりともなかった。
洞窟の終点、岩盤が唐突に断ち切られた先には、ただ圧倒的な虚空が口を開けていた。
地下を駆け抜けてきた冷気が、見た限り唯一の出口に殺到し、狂ったような暴風となって私ごと外へと叩き出そうとする。
「この先は、人間には危ないさね。」
目の前に壁ができる。
巨大な蛇の胴が横たわったのだ。
叫んでいる感じもないのに、声が良く通る。
「それとも、飛び降りてみるかい?」
薔薇色の服に身を包んだ小さい蛇の獣人が、その言葉を合図にぼちゃん、ぼちゃんと水に飛び込んだ。
そのまま一瞬で光の方へと吸い込まれて行く。
「今、落ちましてよ!」
「心配なんざいらないさね。見てな。」
小さい子は、霧になどならず、再び姿を現した。
金色に輝く翼を広げた獣人の首に、しっかりと巻き付いて。
「メレナ、そろそろクレトスとかが寄って来ちゃうから終わりかな。」
「クレトスって誰だい?」
「リルの友だちのプテラケファルスだよ。好奇心が強くてさ。」
「ああ、そりゃ危険だね。滝の周りはプテラケファルスじゃ巻き込まれちまうだろうさ。」
プテラケファルスはミッチェル領でもごくたまに目撃される、巨大な翼竜だ。
蝙蝠のような翼を持ち、奇妙な鳴き声を上げ、大空を旋回する。
海側から天空の台地を登るという選択肢を奪う存在として知られる。
天空の台地に来て、死の花と合唱するように求愛することを突き止めた。
そのことでジェミーから、立派な学者だと言われたばかりだ。
「そんなことより、あなたの掴んでいるのはもしかしなくても、プリマヴェーラではなくて?」
もう一人、翼の生えた獣人が現れると、何故か急に風の音が邪魔にならなくなった。
それは獣人などではなく、東の崖で出会った、ドラゴンだった。
ルネは、同じく首に小さい子を巻き付けている。
「へへへ、落っこちちゃった。」
「落っこちてったねぇ。」
「空中で捕まえたんですの?」
「いや、海に落ちてから拾った。」
「改めてでたらめな頑丈さですわね。」
長鞭で肌は裂けるというのに、この高さから落ちて傷一つないなんて。
それだけに、長鞭の威力が恐ろしくなる。
それだけに、練習が必要なのがわかる。
だからといって、イシュの民を練習台にするなんて。
イシュの民に振るうのだから当たり前だなんて考えていた自分が、今では信じられない。
「今さらですけれど、鞭を振るった一人として、謝罪いたしますわ。」
謝罪して終わりというわけではない。
これは、けじめだ。
当のプリマヴェーラはきょとんとしているが、それでいい。
許しを求めたわけではないのだ。
止める言葉ではなく、認めた証の言葉だった。
罪を、罪として。
決まらないってことは、そういうこと。
イシュの民のおかげだ。
懺悔をして、はい終わり。
そんな考えを完全に捨てられたのは。




