92話 エピローグ③
「……はあー」
私は深い溜め息をついて頭を抱えた。
オロオロと落ち着きなく彼の私室で歩き回るグラン様の姿を見るのはこれで何度目だろうか。
「デ、デレア! やっと来てくれたか!」
「まーたやっちゃったんですか……」
「そ、そうなんだ……どうしようこれ」
グラン様が慌てている原因は本である。
とある一冊の開かれた魔導書から、ぐわんぐわんとヘンテコな魔力が溢れ出して、周囲のものを破壊してしまっていたのだ。
魔導書の開き方は失敗するとこのように魔力暴走となる。暴走パターンは様々だが、濃い紫色をした魔力が触れた物体を腐食させるように破壊するのは闇属性魔力の暴走結果だ。
「どうしてまた私がいない時に、それ開いたんですか」
「わ、私ひとりでもなんとかなるかな、って思って……」
「前も同じ事、言ってましたよ」
グラン様の私室、王太子殿下の部屋にはたくさんの魔導書がある。
これは、グラン様が兵士たちに命じて各地にある希少価値の高い魔導書を集めさせたからである。
それというのも、彼はまだ魔力変異症の原因究明を諦めていないからであった。
何か手掛かりがあるはずだと彼は言い、様々な文献や魔導書を集め、私と共に解き明かそうと決めたのである。
そして新しく手に入れた魔導書については私と二人で読む事になっているのだが、たまにこうして勝手にグラン様が先走って失敗するのだ。
「ど、どうしようデレア」
彼は困り果てた表情で私にすがってくる。
「んもう、仕方ないですね。まずこの魔導書の属性から見てこ暴走状態を静める為には……」
と、こんな感じで私が暴走した魔導書を沈静化させるのもすでに五回目だ。
普段は凛々しく、勇ましく、そして器の大きなグランシエル殿下を演じているが、彼は案外どじっ子であった。
それはこの二年という歳月の中で私は十分に理解している。
「ああ……さすがはデレアだ! ありがとう!」
満面の笑みでグラン様がそうお礼を言うと、それだけで全て許してしまう私も甘すぎるのかもしれない。
ちなみにグラン様がグランシエル殿下になりすましている件を知っているのは、私と一部の宮廷官だけだ。
それ以外の宮廷官たちには『グラン様は国を出て外国で活動する事になった』という体裁にしている。
「やはり私にはデレアがいないと駄目だな……」
「んもう。そうやって良い風に言えばいいと思って」
「ははは。でも本当だよ。キミと婚約してもう二年になるが、キミへの想いはますます膨らむばかりだ。というより、常にキミへの愛が大きくなっていく一方だよ」
「ま、またそういう……」
「本当だよ。わかるだろう? 私のこの気持ち」
「……ッん」
彼はそう言って少し強引に私を抱きしめて、すかさず唇を奪いにきた。
私はなんだかんだと文句を言いながらもそれを抵抗せず受け入れてしまう。
全く、グラン様は本当にずるい。
こうやれば私の機嫌が直るとわかっているのだから。
……まあ、こうされるのも嫌いじゃないからいいけど。
「ごほん! あのだな……」
「ひゃああああああああ!?」
そんな風に彼の愛に浸っていると、突如思いがけない声が背後から耳に入り、私は飛び跳ねる様にグラン様から離れた。
「グラン殿下。私がいるのを知っていてデレア姫君とイチャつくのは控えていただきたい。私の方が困ります」
部屋の片隅から気まずそうに出てきたのはカイン・ルブルザーグ特級魔導医師ことカイン先生だった。
「ははは……すまない、カイン先生。ついデレアが可愛くて」
「私は良いですが、そのデレア姫君がなんと言うでしょうか」
カイン先生のその言葉通り、私は怒って俯いていた。
とんだところを見られてしまったのだ。当然だ。
「デ、デレア……?」
「グラン様……の、バカァァァアッ!」
パァン、と私は彼の頬を引っ叩いて差し上げた。
●○●○●
――更に一年余りの時が過ぎた。
グラン様は無事戴冠式を迎え、正式に即位し、その数日後には私と盛大な結婚式を挙げた。
王と王妃となってからは更にめまぐるしく多忙な日々が続いたが私とグラン様は喧嘩という喧嘩もする事なく、仲睦まじく過ごしていたと思う。
何故なら基本的にどんな言い争いになりかけても、彼が微笑んで抱きしめ甘やかされると結局全部、怒りなどなくなってしまうからである。
全く……私がここまで頭の中乙女だったとは数年前までなら考えられなかった。
「……どうだいデレア?」
「ええ、グラン様。今回の魔導書は当たりかもしれません」
私と彼は今日も禁書の一冊を二人で手を取り合って解読していた。
「そうか! ではその魔導書を読み終えたら」
グラン様がそこまで言うと、ドンドン、と扉を強く叩く音が室内に響く。
「両陛下! 大変です! リビア様が――」
その年。
王宮の元シエル殿下が生活を営んでいた例の地下室にて、衰弱の激しいリビアが息を引き取る。
だが、彼女の意思は無駄にはせず、私が取り込んだ。
そう。彼女の命の灯が消えてしまう前に、グラン様が施術したアストラルイーターを私もリビアに施したのである。
晩年、もはや会話する事すらままならなかったリビアだったが、最期にひと言だけ自らお願いしてきたのだ。
「私もシエル殿下と同じようにしてほしい」
と。
どうやらこの王宮でカイン先生にお世話をされる様になってから、シエル殿下の事を聞いたらしい。
そうして彼女の願い通り、彼女の心を受け取った私はその時、衝撃の事実を知る。
リビアは物心のつく前、奇妙な魔導師のもとで一時的に暮らしていたらしく、その魔導師の顔を彼女の記憶から読み取った事で私は驚かされた。
――ブライアン・ウォルバルト卿。
彼女の記憶に出てきた魔導師の顔は、かつて幼い頃に非道な貴族たちから私を救ってくれたあの老紳士であった。
そして私はリビア本人でさえ、すでに記憶の奥底にしまわれて思い出す事すら出来なかった古い記憶や封じられた記憶を掘り起こす。
『……これは、人類の新たな発展の為に必要な事だった』
ブライアンの言葉が私の脳裏に鮮明に蘇る。
『リビア、お前の犠牲は無駄にはしない』
『これからお前に施すのは延命魔術だ。これによってお前は魔力変異症の発症をいくらか抑える事ができるだろう』
『魔力変異症。これの正体は決して相入れない異種族間交配による産物だ』
『この病気の始まりは、人と魔族の交わりの結果である』
『人と魔族は相入れない生き物だ。だからこそ、人と魔族は決して交わってはいけない』
『だが、その掟を破った魔族が人と交わり子を成した。その魔族はある一定の潜伏期間をおいて魔力変異症を引き起こしおよそ二十四時間以内に死亡。しかしその子供が魔力変異症になる事はなく、しっかりと魔力だけを引き継いだ』
『注目すべきは人と魔族が性交などによって交わると必ず魔族側だけが死に至るという点だ。人の体液が魔族の体内に入り込む事で魔力変異症という病は引き起こされる。それは私が行った人体実験で確証済みだ』
『人と魔族は相入れないものであると本能的には理解していても、脳のエラーによって惹かれ合う者たちが定期的に現れる。そのエラーの隙間を縫うかの様に子には魔力変異症という病は遺伝発症しない』
『これが意味する事は、人類はやがてすべての人間が魔力を持つ様になり、そして魔族という種は絶滅するという事だ』
『何故なら、人と魔族の間に産まれた子は総じて、その見た目だけはなんら人間と変わりがなく産まれるのだからな』
『だからヴィクトリア王国歴五百十二年の現在において魔族は希少種となった。……そう、リビア。お前の母はまさに希少な魔族の生き残りだったのだからな』
『本来なら人と魔族の子にまで魔力変異症が起こる事はない。だからこそ、私はお前で試した。魔力変異症を引き起こしたお前の母の血をお前の中に入れたらどうなるのか、と』
『私は魔族であるお前の母が魔力変異症を発症した直後、彼女が息絶える前に彼女から血液サンプルを採取しておいた』
『そして私はつい先日、それをお前に投与した』
『結果、見事にお前も魔力変異症を引き起こした。これにて魔力変異症は発症した時点で他人に移す事があるとわかった』
『魔族の血とは魔力そのもの。つまりは魔力変異症を引き起こした魔力を他人に流すだけでも、この病は感染させられるという事実を知った』
『そして、魔族にとって魔力変異症は二十四時間以内に絶命する脅威的な病であっても、人間にとってはその期間が異様に長い事もこれまでの研究でわかっている』
『体組織の構造が根本的に違うからなのだろう。人と魔族の子であっても、見た目が人になるという事は身体を構築するDNAも人になっている為と思われる』
『それでも発症から十年を超えて生きる事はない。何故なら根治治療ができない。つまり、狂ってしまった魔力を元に戻せないからだ』
『この論文を私はガルトラントに売った。それだけで私は莫大な資産を手に入れた。そしてその資産を利用し、私が研究した新たな成果をこれから試す』
『この対処療法魔導術式を施せば、理論上お前の魔力変異症はいくらか鎮静化するはずだ。だが、果たしてどのくらいの期間、魔力変異症の発症を抑えられるかはわからない』
『これは私の身勝手な贖罪だ。お前の犠牲はきっと、おそらく全ての生物を新たな進化へと導く礎になるだろう』
『お前は目覚めた時、この私の言葉を覚えている事はない。魔力変異症に関する記憶は全て封じてしまわなければならないからだ』
『だから最後にお前に伝えておくこれは、単なる私の自己満足でありエゴな言葉だ』
『リビア、私の愛する孫娘よ。どうかこの哀れなおいぼれを許してほしい。そして願わくば、この対処療法魔導術式によって、生涯魔力変異症を引き起こさず、健やかに生き続けられる事を』
――そこでリビアの潜在意識によるブライアン卿の言葉は終わっていた。