6話 フランの不調
ドリゼラの魔力暴走事件から数日が経ち、大舞踏会の日まで残すところ数日となったとある日。
「あ……お、お姉様、おはようございます」
「おはようドリゼラ」
以前までは屋敷の中で彼女と目が合っても嫌味を言われるか、あからさまに視界から私を外すかしていた彼女が、しおらしく挨拶してくるようになった。
「わ、私は先に行きます。失礼します!」
ただまあ……逃げるような感じで私の前からいなくなるんだけどな。
よほどあの事件が恐ろしかったのか、それとも私が恐ろしかったのか。
なんにせよ、私の日々の憂鬱はこれで少し減った気がする。
元々ドリゼラはかなりの負けず嫌いで、何かと私に張り合ってきていてクソウザかった。
だからこそ学院のテストなんかじゃ、わざと悪い点数を取ってあいつを調子付かせてやったりしていたが、それがある意味いけなかったのかもしれない。
結果として、彼女の感情を逆撫でし過ぎていたのかもな。
まあでも、私はそもそも知識を得るのは好きだが順位などが大々的に公表されるテストの点数などで目立ちたくもなかったからな……。陰に潜んでいるのが一番だ。
「デレアさん。何をしているの」
屋敷の廊下で背後から声が掛けられた。
この冷たい感じの声はカタリナお母様だ。
「おはようございます、カタリナお母様」
「挨拶はいらないわ。それより廊下の中央で呆けていないでくれるかしら。とても邪魔よ」
「申し訳ありませんでした」
私はスッとカタリナお母様に道を譲り、頭を下げる。
「……ふん。魔力もない平民の癖に」
すれ違い様、わざと私に聞こえるようにお母様は呟いた。
口を開けば魔力、平民。そればかりだな、この家は。
私はカタリナお母様の背後を少しだけ、じと目で見て、密かに中指を立てカタリナお母様を侮辱してやった。
「デレアさん」
「は、はい」
やべ、バレたか?
「今度の大舞踏会、どうしても出るそうね」
なんだ、またその話か。
「……ギランお父様から必ず出ろと命じられているので」
「そう。それは構わないけれど、決して余計なことはしないでちょうだい。ドリゼラの近くを彷徨く事も禁じておきます」
「心得ております」
「ふん、どうだか。あの平民女の娘だし、女狐みたいにまた人の男を取ろうとするかもしれないわ」
「……私がドリゼラの気に入った相手を奪うかもしれない、と?」
はは、ないない。
そもそも私はクソ虫どもと仲良く喋る気は毛頭ないんだぞ。
「あなたの母がそうだったもの。ギランを私から寝取ろうとして……本当に嫌な女」
「……」
それについては正直、私にもよくわかっていない。
何故父、ギランは私の母と不貞を働いたのか。あの実直そうな父にしては少し意外だと思っている。
まあ、でも所詮お父様もクソ虫だと言う事だろうな。
「ドリゼラの邪魔はしません」
「ええ、絶対にお願いね。今回のこれは……ただの舞踏会などではないのだから」
ただの舞踏会ではない?
どういう事だろうか。お貴族様の婚約者探しの場、という意味か?
「カタリナお母様、それはどういう?」
「あなたは何も知らなくていい。黙って隅っこの方で大人しく食事でも楽しんでいなさい」
私もそれが望みですけどね。
「それとフランに話しておきました。今日からしばらく、学院は休みなさい」
「え!?」
「あなた、自分では気づいていないかもしれないけれど、言葉づかいや礼儀作法、カーテシーなどもはっきり言って下の下よ。そのまま公爵様の大舞踏会なんかに出たら本当に大恥をかいてしまうわ。あなただけが恥をかくのならまだしも、リフェイラ家が恥をかく可能性もあるのよ。そこ、ちゃんと理解しているのかしら?」
はい、理解しております。
自分は直す気がないからこの感じのままなのです。
とはいえ、これでもそれなりに気を使ってはいるんだけどな。さすがはお貴族様だ、めざとい。
いやいや、そんな事よりも!
「が、学院は休まなければならないのですか?」
本が読めなくなる!
「当たり前でしょう。あなた、うちに来てから数年も経っているのに礼儀も貴族の常識も全然疎いままじゃないの。今日からフランに付きっきりで毎日教えてもらいなさい」
「だ、大丈夫です。私はその気になればきちんとこなすので……」
「フランから聞いてるわ。あなた、ちっとも作法が出来ていないって。フランからオーケーが出るまで、学院には通わせません。ギランにもこの事はすでに伝えてありますから」
クソがぁーッ!
ふざけんなクソ虫ババア! 私の唯一の楽しみを奪うんじゃねえ!
「ほら、早速フランが階下で待っているわよ」
クソ虫どものマナーなど癖づけたくなくて普段から反発していたのにそれがあだになるなんて……。
と、こうして私は自業自得なのだが、しばらく学院に行けなくなってしまった。
●○●○●
「違います。カーテシーを行なう際は、もっと背筋を伸ばしてください。曲げるのは引いた片膝だけですと何度言ったらわかるんですか。それとフレアスカートはもっと端の方を、花を摘むように小さく指先だけで持ち上げるんですよ」
フランに厳しく細かくそう言われるが、理屈では十分に理解している。
カーテシーの作法もお貴族様の一般的礼儀作法も一通り完全に頭に入ってはいる。だが、私は体が硬い。理想通りに動かないのだ。
「フラン。私はこれでも背筋を伸ばしているつもりだ」
「デレアお嬢様、その口調もおやめください」
やめる気はない。
私は基本、お母様とお父様、また、外のお貴族様の前では体面上それなりに敬語を使うが、そうではない人間に対しては素で話す。
疲れるからだ。
とは言っても学院では話すような相手はほぼ皆無なので自然と話す人間は限られている。つまり私が素で話すのはフランのみだ。
フランはこの事をカタリナお母様には言いつけてはいないようだ。口調については誰からも何も言われていないし、先日のドリゼラも突然の私の口調に驚いていたからな。
「悪いがフラン。お前の前でまで猫は被りたくない。面倒だからな」
「……はあ。わかりましたよ。でもカタリナ様やギラン様、また、その他の貴族様方の前では十分に注意してくださいね」
「わかっている」
「では続けましょう」
こうして私は大舞踏会の日までフランから貴族作法教育を叩き込まれる事となった。
――その三日目の事。
「……どうしたフラン?」
私が今日も自室で食事のマナーを順序通りに行なっていると、それを見張っていたはずのフランが眉間にシワを寄せて瞳を閉じていた。
「いえ、なんでもありません」
「……そうか」
嘘だ。
フランの様子が明らかにおかしい。
彼女は侍女としてとても優秀だ。命じられた仕事は手早くそつなくこなし、常に自身の体調の管理も万全だ。
そんな彼女が珍しく、具合の悪そうな顔色をしている。
「ときにフラン。この魚料理の食べ方はフォークだけで良いのか? それともナイフも添えるべきか?」
「……」
「フラン、聞いているか?」
「あ……はい。それは……フォーク、だけで問題ありません」
カマをかけてみたがやはり変だな。この魚料理の食べ方は何度も実践している。普段のフランなら「何度言わせるんですか、相変わらず物覚えが悪いですね」と嫌味を言うはず。
やはりこいつ、何かおかしいな?
「……」
私は眼鏡越しに視線を細かく動かして彼女をじっくり観察してみた。
外見に目立つ大きな何かは見当たらない。気になるのは、フランの頬が少し赤いくらいか。
いや、違う。よくよく見れば彼女の右手の指先が微かに赤く変色し、手の甲に小さな蕁麻疹が出来ているのも見える。それによく聞いてみると彼女の息づかいも些か変だ。
それらを見て、私はふと先日、偶然耳にした侍女たちと侍女頭のこんな会話を思い出した。
「明日は仕事が捗りそうね」
「ええ、そうね。デレアお嬢様が娯楽室の掃除の日は、わがままなドリゼラお嬢様がいちいち私たちを呼び出さないから仕事が進むのよね」
「あなたたちも大変でしょうけど愚痴はそこまでになさい。さて、今日は裏手のハーブ園の雑草狩りとハーブの採取を済ませてしまいましょう。先日、奥様が新しく手に入れられた最近流行りのハーブの種もようやく花が咲いたし、それもそろそろ採取してティータイムの時に使えるようにしておかないといけないわ」
最近流行りのハーブといえば諸外国から輸入されたという噂のカモミールだ。
そういえば今日の夕方、カタリナお母様が学院から帰ってきたドリゼラとテラスでプチ茶会をしていたな。おそらく流れの上だと先日のハーブティーを嗜んでいるはずだ。
「フラン。今日の給仕当番はもしやお前だったか?」
「はあ……はあ……。はい……急な……お茶会をしたいと……奥様に言われて、私が担当、しました」
フランは先程よりも明らかに息づかいを荒くして、かなり苦しそうに答えた。
更に今は右手を胸元に当てている。
……こいつは不味いな。
「おい、フラン。そこのベッドで横になれ」
「え……? 何を……」
「いいから病人は黙って横になれ」
私は少し強引に彼女の腕を引っ張って、私のベッドに寝かせた。
ついでに彼女の手首に指を当て、脈を見る。数十秒でわかるくらい明らかに頻脈性不整脈を起こしている上、熱も急上昇している。
それに先程からフランは手の甲をやたらと掻きむしっていた。いや、それも今はもう腕全体だ。手の甲にあった蕁麻疹が急激な速度で上腕へと広がっている。
この症状、間違いないぞ。