5話 色褪せない記憶
――あれは六年前。私がまだ八歳でリフェイラ家の娘となってからまだ間もない頃。私は貴族魔法学院に正式編入される前、一週間の学院体験入学をさせられた事があった。
通常の入学とは違い編入の場合は、色々な都合を考えて本入学の前に一週間だけ体験学習をするルールがあるらしい。
当初、貴族の魔法学院などにまるで興味はなかったが、学院敷地内にあった巨大な図書館にだけはとても心が惹かれた。
私は新しい知識を得る事は大好きだ。知らない事を知る事はとても楽しい。
「ギランお父様。私は図書館でじっくりと勉強がしたいです。あそこなら貴族のマナーも色々覚えられると思います」
体験入学中であっても他の貴族の子たちと混じって勉強をしたくなかった私は、貴族のマナーの勉強という建前を取り繕って父へとそう懇願したら、笑顔で好きにしなさいと言われた。
たくさんの本を適当に手に取り、私は日長読書に明け暮れた。
ここには想像を絶する知識の山が秘められている。私はそれを吸収するのが楽しくて仕方がなかった。
そんな一週間の体験学習期間中の二日目の日のこと。
「変わってるなあ、キミは。そんな本の何が面白いんだい?」
本棚に本を戻そうとした私の背後から急に声をかけられた。
振り向くとそこには全く見覚えのない男の子がいた。
歳は少し上だろうか。やや大人びて見える端正な顔立ちをした少年。青い髪色に燃えるような赤みがかった瞳が特徴的だった。
「……」
私は基本的に無視しかしない。
学院見学中も何人かの生徒に声を掛けられはしたが、全部無視した。
何故かって?
私は貴族が大嫌いだからだ。誰が好んでクソ虫と会話などするものか。
この少年もこの図書館にいるので、貴族の子である事は間違いない。制服とは違う少し見慣れない服を着ているけれど。
「それさ、特級魔導書だろ? そんなもの読んで何が楽しいんだ? っていうか、女の子がそんなものを何時間もよく飽きずに読んでいられるね?」
テーブルの上に腰掛けてそう言う彼は、見た目こそ良いものの、とても品のある上流貴族の子には見えない。貧乏貴族の男爵令息あたりだろうか。
「……詠唱文を覚えるのが好きなの」
ずっと無視しようと思ったけれど、魔導書を何度も『そんなもの』扱いされた事に腹が立って思わず言い返してしまった。
「詠唱文を……? 魔法が使いたいからか?」
「違う。詠唱文を覚えるのが好きなの」
「何故だい? 詠唱文だけを覚えてもそれに相応する適性魔力と魔導具がなければ何もできないだろう?」
「別に魔法が使いたいわけじゃない。詠唱文にはたくさんの意味が込められている。魔法を使う為に精霊と契約を結ぶお願いの言葉がたくさん、ね」
「で、それを覚えてどうするんだ?」
「それだけだけど」
「それだけ……それ、意味あるのかい?」
「意味なんて必要ない。私がしたいからそうしてるだけ」
「……ふーん。他にも聖教の教典とか医学書とかの小難しい本とかも読んでいたね。王宮の魔導医師にでもなりたいのかい?」
「違う。ただ読んで覚えたかったから読んだだけ」
「なんだそれ……そんな本、授業以外で興味を持つ事なんてあるかな?」
「私にはある」
「ふーん。変わってるなキミは。っと、私はもう行かなくちゃ。じゃあね」
言いたい事だけを言い放ってその男の子は走り去ってしまった。
不可解な顔をしながらも、私はその日、学院をあとにした。
翌日。
私が図書館に顔を出すと、また先日の青い髪の男の子と顔を合わせた。
向こうが色々と聞いてくるので私は仕方なく受け答えをせざるを得なかった。
「ねえ、この魔導書の詠唱文のこのフレーズ、全然読めないんだけどなんて読むのかな?」
「これはね、二つの言語が入り混じっているから両方の意味を理解していないと読めない。一つは人間の言葉だけどもうひとつは古代エルフ族の言葉だから……」
名前も知らない男の子は私に色々と聞いてくるから、私は仕方なく受け答えをするしかなかった。
仕方なく、ね。
「……キミはすごいな。他種族言語まで丸暗記してるのか。古代エルフ族の言葉なんて普通はそんな容易く覚えられないよ。というか一体いつ覚えたんだい? 毎日勉強したって何年もかかるだろう、普通はさ」
そういうものなのか。
私にはいまいち普通、というのがわからない。
何せ平民街で過ごしていた頃は知識を得る機会は少なかったし友人もいなかった。リフェイラの屋敷に住んでから教わったのは主に貴族のマナーばかりだったし。
そんな風にして、私は名も知らない青い髪と赤い瞳を持つ男の子と会話を重ねるようになっていった。
「なるほど。つまり今、この国の問題点であるこの階級制度の改善を優先して……」
「ううん、それよりもっと魔導技術の汎用性を改善する必要性の方が高い。それは現在の医療問題にも通じていると思う。それらを抜本的に是正するには魔導技術をもっと応用して……」
気づけば青い髪の彼と私は様々な本に対して、屈託のない意見を交わし合う仲になっていた。
彼は一見ぶっきらぼうな感じかと思ったが、話してみると想像以上に繊細で、聡明で、優しくて、私はそんな彼と語り合うのがいつのまにか楽しくなっていた。
楽しい、という気持ちが本以外に向けられたのは、本当のお母さんを亡くしてからこれが初めてだと思う。
そんな楽しかった日々。それもこの短い期間だけ。
この一週間という間だけの話。
しかし今でもこの時の事を鮮明に繊細に覚えている。
――それから月日が経ち学院へと無事編入する事ができたが、私が入学してからは学院の図書館で彼と再会する事は二度となかった。