62話 都大会四継決勝・1つ上のステージ
「陽子ちゃん! 1走走るんだ!」
「昭穂さんこそ!」
無線チェクを終えた陽子に、立身大付属の昭穂が声をかけた。
立身大付属の決勝オーダーは、地区大会からメンバーは同じのまま、走順のみの変更が予想されていた。
しかし実際にはリザーバーとして準決勝までを走っていた昭穂が1走のポジションにいる。
立身大付属の4番手は12秒6台の選手、200mで25秒99のタイムを持つ昭穂は5番手扱いだ。
昭穂のタイムも2走以降であれば十分戦力として通用するのだが、1走としては強みが活きない。
立身大付属はロングスプリンターが豊富な反面、1走の適性を持つ選手は少なく、先述の4番手の選手は貴重な存在だった。
昭穂も同じことを思ったのか、陽子に「もしかして」と言って苦笑いをする。
100mで2位の麻矢を差し置いて、昭穂と同じロングスプリンターが1走にいるのだ。
互いに実力を認め合うライバルだが、奇しくも専門外の戦場で同じ境遇になったようだった。
「お互い、ピンチヒッターとしての登場みたいね」
「みたいですね。それも、何故か1走で」
「1走は得意な方じゃないけど、陽子ちゃんには負けられないね。言っておくけど、地区大会のときよりも速いから。私も、みんなも」
「その言葉、そのままお返ししますよ」
「じゃあ、勝負だね。200mの前哨戦!」
「随分自信があるんですね。受けて立ちますよ!」
2人でニヤリと笑って、自分のコースに戻る。
(きっと……昭穂さんも私と同じように、準備をしてきたんだ。だから、自信があるんだな)
陽子は、昭穂にますます親近感を懐きつつ、ライバルとして相応しいと感じた。
周りを見回し、他校の1走を確認する。
まず最初に目につくのは、冬の谷の部長、猪熊甲己。
予選で陽子と走った『弾丸ウサギ』こと宇佐木万里をも凌駕する実力なことは確実だ。
想像もつかないな。と陽子は思わず身震いする。
そして警戒すべきは100m準決勝で11秒95を記録した成野ひとを擁する春の丘。
ひとを2走に置き、4走には関東6強『眠れる森の美女』木下昼寝が控える、油断できないオーダーだ。
(とはいえ、1走は13秒台の選手……ここで私がリードを取れれば、後ろがぐっと楽になる!)
夏の森も非常に恵まれたメンバーを揃えてはいる。
2走の蒼はトップスピード勝負なら、ひととも勝負ができるだろう。
4走の瑠那は、同じ関東6強として昼寝と互角と称される。
しかしあくまでどちらも互角まで、明確な有利は取れない。
勝負は1走の陽子と3走の美咲にかかっている。
「位置について」
コールがかかり、陽子はスターティングブロックに足をかける。
予選のときとは違い、警戒すべき相手は全てアウトレーン、段差スタートの前方にいる。
4レーンを走る陽子は、後方から冷静に俯瞰することができる。
(予選のときは内側からまくられて焦っちゃったからな……ラッキーだった。今度は、冷静に自分の走りができる)
「用意」
陽子は静かに息を吸い、目を瞑った。
「パァン!」
カッ。と目を見開くと同時に、陽子はスターティングブロックを思い切り蹴り飛ばす。
低く、重く、力強く足をつくと、その勢いで雨水がパシャッと足首に飛ぶ。
雨の後で普段よりも滑りやすいトラックだが、陽子には関係ない。
持ち前のフィジカルを活かして、一歩一歩、力強く踏み込む。
前方、遥か遠くに猛烈なスタートを切った甲己が見える。
コーナー沿いのスタンドから驚愕の声が聞こえるが、陽子は気にしない。
今の陽子は冷静だ。
身の丈に合わない相手を追うことはしない。
焦らず、自分の走りを意識する。
そして、ターゲットと認識した、立身大と春の丘よりも前に出ることだけを目指す。
(やっぱり昭穂さん、速くなってる! けど……勝てないわけじゃない!)
昭穂を追い、トップスピードまで加速する。
コーナーでの加速も、ロリ先生の特訓もあってだいぶ慣れたものだ。
視界の端では春の丘の翔子が遠心力に振られ、コーナーの外側を走ってしまっているのが見える。
陽子もマシになったとはいえ、まだまだ直したいところだらけだと感じる。
(瑠那や美咲先輩からしたら、あの走りと五十歩百歩か……もっと教わりたい、もっと速くなりたい……もっと先へ、もっと高みへ!)
陽子の心は熱く燃えている。
しかし、思考は妙にクリアで、あらゆる情報が視界から入ってくる。
いつも以上に視界が広く、明るく、まるで真っ白な撮影スタジオにいるかのようだ。
体感時間は現実の時間よりもゆったりと流れ、思考をするのに十分な猶予がある。
身体は思い通りに動き、思考はクリア。
その現象が、陽子のコンディションの好調さを物語っていた。
過去の自分であれば、頭の中が真っ白になるくらいに全力を出しても到達し得なかった領域。
しかし壁を超えるときは唐突に訪れ、その後には別世界が広がる。
今までは、全てを出し切れば残るのは達成感だけだった。
しかし、今は自分の走りの粗がすぐに分かる。
もっとこうしたい、もっとここを直したい。
そんなことを具体的に考えられるほど、全身の情報が脳に流れ込み続ける。
陽子の脳の処理速度は、通常時の何倍以上にもなっていた。
それは陽子が、1つ上のステージに進んだことを意味していた。
リレーメンバーという責任ある役割を担い、そして力不足を痛感した経験が、さらなる力を求める渇望が、陽子の成長を促したのだ。
「1走、基準よりもかなり速いです! 減速せず……そのままトップスピードで来ます!」
「蒼から香織へ。タイミングは任せますよ」
「了解、タイミングサポート……3、2、1、GO!」
練習時よりも明らかに速く走った陽子だが、終盤にバテることもなくテイクオーバーゾーンに入る。
練習通りのタイミングでは衝突してしまうため、香織が基準よりも早く蒼をスタートさせる。
こういった調整は、最後は目測と体感値でするしかない。
蒼は部員達を常にそばで見続けてきた、香織の調整力に絶対の信頼を置いていた。
「はいっ!」
蒼の長い腕が伸び、陽子は手のひらにバトンを押し込む。
完璧なタイミングでバトンが繋がり、蒼は2位でバックストレートを走り出す。
「よっしゃあーっ! 部長、いっけぇー!」
冬の谷の甲己を除き、陽子よりも速く走った1走はいなかった。
思わずガッツポーズをしながら、陽子は蒼に声援を送る。
背後から聞こえる陽子の声に耳を傾けながら、蒼は後輩の成長を頼もしく思う。
そしてここからは2走、エース区間の戦いだ。
夏の森の部長にして『蒼炎』の二つ名を持つ、皆川蒼。
彼女は、静かに心の炉に蒼い炎を入れた。
(陽子さん……やはり、大舞台の戦いの中で、抱えた想いの大きさにより成長するタイプでしたか。であれば、私も応えなくてはなりませんね)




