48話 槌屋凌の駆ける理由
まだ、かのん(ロリ先生)、文子(榊先生)が夏の森の2年生だった頃。
凌(凌監督)もまた、陸上部の1年生だった。
当時の夏の森には全国屈指のスプリンターが揃っており、四継、マイルで史上初の全国二冠を達成した。
その世代を取材していたのが、新聞部だった文子だ。
通称”歴代最強の世代”と呼ばれるメンバーは主に3人の3年生、そして2年生のかのんで構成される。
当時1年生だった凌もまた、リザーバーとしてチームに貢献した。
彼女達の走るレースはどれも伝説となり、全てが上手くいっていた。
ただの練習でも笑顔が溢れ、ドラマが生まれた。
まさに、夏の森陸上部の絶頂期だ。
翌年、主力の3年生が引退し、3年生になったかのんと、2年生になった凌の2人が主力になる。
他のメンバーも決して悪くない、むしろ誇れる実力を持っていた。
”歴代最強の世代”を超えられるとは思っていなかったが、それでもチームのベストを尽くし、楽しく走れればいいと思っていた。
目標は関東制覇。
四継王者、才能の宝庫と呼ばれる、千葉・栞葉高校。
マイル王者、全国一のスプリント王国と呼ばれる東京・冬の里女子学院。
長く続いた両校の天下を終わらせたのが”歴代最強の世代”だった。
どちらのチームも、今年はそのリベンジと気合十分だろう。
だから自分達は、先輩達の獲得した王座を守ってみせよう。
全国制覇の翌年にしてはささやかだったが、現実的で、ドラマ性もあり、熱くなれる、いい目標だった。
順調に都大会に進み、チームの記録も雰囲気も悪くなかった。
ただ走るだけの練習でも、そのメンバーでいれば全てが楽しかった。
今なお瞼の裏に残る、追いつきたい先輩達の存在がチームの士気を上げた。
自分達はまだまだ強くなれる、成長そのものが楽しい、世代交代をしても、夏の森陸上部には変わらずそうした空気が常にあった。
都大会で凌が故障をするまでは。
すでに個人200mで関東大会出場を決めていた凌だったが、四継の準決勝で足を故障してしまう。
準エースという責任感から、過度なトレーニングを積んでしまった影響だった。
幸い、決して大きな故障ではなかったし、全力では走れないものの、なんとか走ることはできる程度だった。
しかし今後のことを考え、部長だったかのんは凌に安静を命じた。
準エースを欠いたチームでも、都大会はギリギリ突破できる想定だった。
リザーバーを含め、他のメンバーもよく育っていたし、なによりかのん自身がいる。
凌もどこか楽観的で、諦めて観戦を楽しもうという気持ちでレースを見守っていた。
しかし、夏の森のリレーチームは、四継もマイルも都大会の決勝で負け、関東大会には進めなかった。
メンバーチェンジによるバトン習熟度の低下、そして予想よりも僅かに、他のチームのレベルが上がっていたのだ。
全てが順調なはずで、都大会は通過点に過ぎないはずだった。
幸い、凌の故障は関東大会までに治り、個人種目には出場できた。
かのんと凌は関東大会を制し、全国大会に出場した。
チームメイトは、みんな喜んでくれた。
しかしリレーについては、まるでタブーかのように触れられなくなった。
前年王者の夏の森は、リベンジに燃えていた挑戦者と戦わないまま、その王座を明け渡すことになった。
翌年、かのんが引退し、凌が部長として部を牽引する立場になった。
かのんが抜けた分だけ部の競技レベルはやや下がったが、それでも仲間に恵まれ、リレーで関東大会出場を目指して練習に励んだ。
そして迎えた都大会の決勝、梅雨の大雨が降っていた。
自分が頑張らなければと、凌は予選、準決勝、決勝とフル出場した。
個人200mを3本、四継を3本、マイルを3本……かつてのチームと違い流す余裕はない、全て全力だ。
ただでさえ厳しいエントリー数、その上に大雨だ、アドレナリンで誤魔化されていたが、確実に身体に疲労は溜まっていた。
そして悲劇は起こる。
四継の決勝、2走を走っていた凌は疲労が蓄積していた上に大雨の影響もあり、3走にバトンが届かなかった。
待って! と叫ぶも遅く、失格の旗が上がる。
しかしチームメイトは責めず、むしろ健闘を讃え、慰めてくれた。
都大会の決勝、楽しい舞台だったと。
あなたがいなければ、立つことすらできなかった、ここまで連れてきてありがとうと。
バトンが繋がらず、走ることすら許されなかった3走、4走の選手ですら、凌の前では涙を見せなかった。
だからこそ、マイルの決勝を走らないわけにはいかなかった。
自分がチームの夢を背負うんだ、自分の失敗は、自分が取り返すんだ。
そう言い聞かせて、鉛のように重い身体に鞭を打った。
しかし冷静に考えれば、走るべきではなかった。
すでに精神的にも、肉体的にも限界を迎えていたのだ。
リザーバーの選手に交代をしたほうが、安定したレースができたはずだった。
リザーバーの選手はいつでも走れると、安心して交代して欲しいと言っていた。
それでも、自分が走るべきだと信じて疑わなかった。
いや、無理やりに思い込んでいた。
チームの誰もが、心のどこかで不安を抱えながらも、凌を信じた。
6位でバトンを受け取り、これで最後とばかりに全力で走った。
4走の自分で全てが決まる、この順位を守れば関東大会に進める。
もはや個人種目のときのような余裕はなく、ただ力を絞り出すように走った。
しかし400mは残酷な種目だ。
雨粒に打たれ、風に押し戻される身体はいつものように動かない。
冷静な判断力を失い、ただ前に進もうと足掻く。
夏の森は8着でゴールし、その夢は都大会で終わった。
またしても凌は、個人200mだけで……一人だけで、全国まで走り続けることになった。
そして200mで王者になった。
まるでチームという重荷を捨てたからこそ、個人に専念したからこそ得られた結果だという皮肉に思えた。
仲間達の犠牲の上、埋もれた夢の上に置かれた王座かのようだった。
称賛された。
羨ましがられた。
部の誇りだと言われた。
しかし、楽しくはなかった。
先輩達と一緒に走っていたあの日々は、毎日が楽しかったのに。
全国最速の称号を手にしても、その心には重たい石が乗ったままだった。
全ては2年生の都大会、あの日に故障したことが始まりだった。
あの大会の敗北から、まるで下り坂を転がり落ちていくように、徐々に楽しさも失われていった。
2年生の都大会、無理にでも走っておけばよかった。
いや、そもそも無茶なオーバーワークなんてしなければよかった。
3年生の都大会、自分が失敗を受け入れて、仲間にバトンを譲っていればよかった。
自分が潰れてしまう前に、もっと仲間を信じて作戦を考えるべきだった。
もし別の未来があったら。
何度もそう、繰り返し考える。
どの失敗も根本の原因は同じだ。
自分の弱さを受け入れず、傲慢にも走り続けた結果、仲間の夢を終わらせてしまった。
もっと冷静になるべきだった。
もっと公平な目で見るべきだった。
もっと仲間を信じるべきだった。
もっと……仲間にチャンスをあげたかった。
そのチャンスは、自分自身が、この手で奪い、無駄に捨ててしまった。
自分が自分に負けたことが悔しい。
仲間のチャンスを奪い続けた自分が憎い。
走る楽しさを教えてあげられなかった自分が情けない。
勝てなかった自分が、負けた自分が、許せない。
高校を卒業しても、凌の悪夢は消えなかった。
そして全国制覇をしたと言っても、プロとして戦えるほどの才能はなかった。
自分が選手としてやり直すこと、それによって悪夢を消し去ることはできないのだと悟った。
陸上部の強い立身大で、スポーツ科学の研究をし、教員免許を取った。
立身大付属の教員になり、陸上部の監督になった。
選手としてやり直せないなら、監督としてやり直そうと思った。
もう二度と、自分のような存在に夢を奪われる選手が生まれないように。
そして自分と同じ道を歩み、悪夢にうなされる選手が生まれないように。
全ての選手が、公平に夢を追えるチームを作るために。
「だから私達は……立身大付属の陸上部は、勝利と公平にこだわっているんです。そして全ては私の反省から始まりました。一見、厳しいように見えるかもしれない。けれど、世の中には私みたいな……無自覚に人の夢を終わらせてしまう人間がいるんです。それに抗えるのは、生まれながらの強者……ごく、ごく僅かな子達だけ。ほとんどの子達は運命に抗うこともできず、夢を終わらせてしまう。だからせめて、私のチームだけは……そんな子達に夢を、最後まで追わせてあげたいんです」
立身大付属というチームは、凌の贖罪の意識から生まれたチームだった。
「本当は……夏の森みたいに、みんなで仲良く楽しく走れて、その上で勝利まで得られれば一番ですよ。分かってます。けど、世の中はそんなに甘くない。偶然の掛け算で、たまたま幸運が重なっただけ、たまたま悲劇が起きなかっただけ。私には、そういう風に思えるんです。だって! 現に、10年前に私が夏の森の夢を……あのときの仲間が追っていた未来を壊してるんですよ!? だからこそ、肯定できるわけないじゃないですか。自分勝手にぬるま湯に浸っていた私自身が、どれだけ仲間の夢を奪ってしまったか。もう、そんなの見たくないんですよ……」
目に涙をためてそう言った凌の頭を、精一杯背伸びしてかのんが撫でてあげる。
30センチはあろうかという身長差の2人だが、こういうときのかのんはお姉さんだ。
「ごめんな……あの頃の私がもっとしっかりしていれば、リョウのことも救ってやれたかもしれない。重荷を背負わせたまま、一人残しちまって……」
凌を抱き寄せると、自分の小さな身体で抱き締めながら囁く。
「私もずっと、心に重石が残ってたんだ。チームを最後まで笑顔で引退まで連れていく。それが目標だったからな……。でもあの敗北から、それが叶わなかった。故障する前にもっと練習を抑えさせるべきだったとか、故障していても無理にでも走らせればよかったのかとか。あのとき走らせなかったのは私の判断ミスだったのか、それとも自分がもっと速ければ……それこそ、何かもっと違う練習をしていればよかったのか。ずっと悩んだよ。でも、どんな選択肢を選んだって、結果は分からないんだ。選択をする度に正解もあれば不正解もある、いい結果も、悪い結果も、どっちもあり得るんだ。だから、できるだけ後悔しない方を選ぶ。仮に結果がついてこなくても、そうやって前に向かって走り続けるしかないんだよ。もちろん、自分の選択でチームを犠牲にしたくないって気持ちは痛いほど分かる、私も部長としてチームを引っ張ったんだ、いつもそう思っていたさ。けどな……」
この先の言葉を、文子は知っていた。
かのんの先代の部長が言っていた言葉だ。
その部長はさらに前の部長から、何代にも渡って夏の森の部長に継がれてきた言葉だ。
「仲間のために笑顔で犠牲になれるのは、そいつのチームだけなんだよ」
凌はハッと思い出す。
自分もその言葉を継いでいた。
辛い日々の中で、忘れてしまっていた言葉だ。
「安い言葉だけどな……チームは助け合いだよ。迷惑なんて知らない内にお互いかけてるんだ。だからこそ、それを受け止めてやれるのがチームなんだ。もしも一人ずつで成り立つなら、それぞれが誰にも迷惑かけずにゴールまで走れるなら……それはチームじゃない、ただの個の集まりってことだ。だから……うちは、夏の森の陸上部は、いつまでも変わらずにやっていくよ。どんな絶望を前にしても、いや、そういったときにこそ、みんなで楽しくをモットーにさ。競技の強さじゃない、いつだって楽しめるような、強いハートを持ったヤツらを育てたいんだ」
抱きしめられながら囁かれた言葉は、これまでの悪夢をようやく消してくれるようだった。
自分が壊してしまったと思ったチームは、夏の森の陸上部は、今も強く、そこにある。
凌がもう掲げられないと思った旗を、今も高らかに、強い意志で掲げ続けている。
理想論だと吐き捨てた思想を今も守り続ける姿に、凌は涙が止まらなかった。
やっぱり、もっと仲間を信じていればよかった。
かのんは、夏の森陸上部は、諦めてしまった自分が思っているよりも、ずっと強かったんだ。
「お前のチームの精神は否定しない。けど、うちのことも心配するな。あれから10年……もう十分背負っただろ。もう贖罪なんて考えず、気楽にやれよ。今の夏の森には私がいる、強いチームに育ってる。もう悲劇は繰り返さない。だからお前も……立身大付属の、あの子達の笑顔を守ってやれよ。お前の作った、公平で優しいチームの仲間達の笑顔をさ」
凌は少女に戻ったかのように泣いた。
かつての仲間であり、尊敬する先輩の胸の中で。
「あれから10年かかったけれど……ようやく、決着みたいね。私も心配してたんだから」
文子も新聞部として、共に歴史を見てきたのだ。
当時のことは心のつかえとして残っていた。
「まったくだ。同窓会にも出てこないし、赴任した学校は評判悪いしで、他の仲間も心配してたぞ」
かのんも呆れた声で言う。
「そうですよね……でも流石にちょっと顔を出しづらくて……」
「だからって、いつまでも引きずってても仕方ないしな。言っただろ? 私達はチームだったんだから。いつだって受け止めてやれるさ。というわけで飲みに行くぞー」
「いいわね! 卒業してから、凌ちゃんとは全然話せてなかったもの」
「まったく、先輩達には負けましたよ……本当に、当時のまんま。みんなで楽しく……今も、守ってるんですね。今回の大会も、指導者としても、完敗です」
凌は先日までのねっとりと煽ってくる姿はどこへやら、しおらしい後輩の姿になってしまった。
しかしかのんは、ニヤリと笑って言った。
「敗北宣言なんて、らしくないんじゃないか? 1勝1敗で勝負持越しだろ? 四継は立身大付属の勝ち、マイルは夏の森の勝ちだ。あの子達が諦めない限り、勝負はまだまだ続くだろうよ。都大会だけじゃない、秋も、来年も、再来年も。よろしく頼むよ、ライバル校さん」
「そうですね。うちの子達はもっと強くなりますよ。きっと……いえ、必ず」
こうして、両校の因縁とともに東京南地区予選の濃密な2日間は終わった。
これから始まるのは新しい歴史、新しい伝説だ。




