46話 地区予選マイル・決着
「部長、先頭の立身大付属との差は3秒です。相手の400mのデータはなし。実力未知数ですが、200mのタイムから推測するに……逆転の目はあります!」
昭穂を追う蒼に、香織から無線が入る。
一見、20m、3秒もの差は逆転不可能にも見える。
それも実力未知数とはいえ、立身大付属という強豪校が決勝で選んだ選手だ。
しかし、蒼ならば……『蒼炎』ならば、可能だと思わせてくれる。
「昭穂さん、凄い飛ばしてる! 200mのときと同じだ。まるで麻矢先輩みたい」
「確かに、あれでラストまでもつとは思えない。部長の実力を考えれば追いつくことは確実……あとは抜けるか。最後は、気力の勝負になりそうだね」
陽子は夏の森を応援しつつ、心の隅では昭穂のことも応援してしまう。
せっかく掴み取った舞台、ここで悔いの残らない走りを、自分に負けない走りをして欲しいと切に願う。
もっとも、昭穂は常に全力なので”自分に負けない走り”だけはできると自信を持って信じられる。
200m地点まできたところで、早くも蒼は昭穂との距離を10mまで詰めていた。
昭穂の耳にも、蒼の足音は聞こえている。
観戦している誰もが『蒼炎』が昭穂を抜き去ることを期待した。
四継の王者にして現在も先頭を走っている強豪、立身大付属を、少数精鋭の夏の森が猛追して抜き去る。
これほど分かりやすくドラマになる展開もない。
立身大付属のような立場は、観客からすれば敵役にされがちで、夏の森のような存在がヒーローたることを期待される。
走っている選手達の内実がどうかは、観客には見えない。
もはや、立身大付属を、昭穂を応援しているのはチームメイトだけになってしまった。
スタンドからは夏の森以外からも、いつしか「夏の森! 夏の森!」とコールが聞こえていた。
昭穂は状況を理解し、少し弱気になりかける。
しかしそのとき、インカムに監督の凌から無線が入った。
「昭穂ちゃん、残り200m。後ろ10m地点に夏の森よ。……自信を持ちなさい。相手は二つ名持ち、それも『蒼炎』よ。苦戦も接戦も織り込み済。でも私は決して、あなたを捨て石として4走に起用したわけじゃない。勝利のために、あなたがアンカーであることに意味があると思ったから起用したの。この場面にこそ、あなたの強さが必要だと思ったからよ。そのことを忘れないで。私”達”は、まだ勝利を諦めていないわ」
いつもの間延びした、ねっとりとした喋り方ではない。
冷静で、本気で、真面目な口調だ。
だからこそ、昭穂はその言葉の重みを理解した。
(チームの勝利のために……私が、私の力が、求められている!)
昭穂の心の炎が再度、強く燃え上がった。
勝利に、強さに、公平さにこだわる立身大付属の選手だからこそ分かる。
凌の言った言葉はお世辞でも、根拠のない励ましの言葉でもない。
勝利に繋げる力があると、そう信じての言葉だ。
昭穂自身、自分を完全には信じられてはいなかった。
負けるかもしれない、ただ、やれることは全力でやる、そういった心構えで臨んだ。
しかし監督は、チームメイトは、本気で”昭穂なら勝てる”と信じているのだ。
この土壇場で、伝説級の選手を相手に、昭穂が逃げ切ると、そのために自分達がバトンを繋いだのだと、そう信じているのだ。
(みんなが信じてくれているのに……私が、自分が自分を信じないなんてダメだ。失礼だ。私のもらったチャンスは、私の握ったバトンは、みんなが繋いでくれたものだ。だから、みんなの想いや期待まで、自信を持って背負わなきゃいけないんだ! それが、強さと覚悟だ!)
ホームストレート、長いレースは最後の100mを残すのみとなった。
3位以下のチームは、もはや遥か後方。
この舞台に立つのは夏の森と、立身大付属の2チームのみ。
観客の目は、まるでスポットライトで照らすかのように2人に集中する。
(今、私は舞台の……中心だ!)
自分は今、たった2人の役者の片割れ。
観客の目には、倒されるべき悪役として映っているかもしれない。
決して自分が主役だとは思わない。
ましてや英雄役なはずはない。
もう、魔王でも、鬼の大将でも、悪代官でもいい。
観客の期待なんて、シナリオなんて知るものか。
自分はただ、仲間の期待のみに応える。
自分の物語は、自分で決める。
それが、ここまで繋いできた仲間への礼儀だから。
それが、立身大付属の正義だから。
(負けるかぁぁぁ!)
もう、蒼は昭穂の真後ろにいる。
足音が聞こえるなんてレベルじゃない、その息遣いが、空を切る腕振りの音が、『蒼炎』のオーラの全てが、背後に感じられる。
それでも昭穂は諦めない。
ゴールを踏むまで、心は燃え尽きない。
蒼い炎がなんだ、効率的な高温度がなんだ。
自分は不器用に、荒々しく燃え広がる、紅い炎でいい。
戦いの終わりまで、その炎が燃え続けるなら、もうなんだっていい。
ただ、とうに限界を超えたこの身体をゴールまで運んでくれるなら、なんだっていい。
(――――――!!!)
視界が白い。
音が聞こえない。
何か空気が振動するような気がした。
四肢の感覚はすでになく、ただ、誰かに支えられているような不思議な感覚だけがある。
そうか、私は……燃え尽きたんだ。
「1着、夏の森女子、3分48秒84! 2着、立身大付属、3分48秒94!」
アナウンスの音で、昭穂は意識を取り戻す。
徐々に視界に色が戻り、見えていたのが空だったことが分かる。
起き上がろうとして、タンカに乗せられていたことに気付く。
傍らには、心配そうな表情をしたチームメイト達。
「私……」
「先輩! よかった、一瞬気絶してて……もう死んじゃったかもって」
「宗ちゃん、多分他のみんなは、流石に死んだとは思ってなかったですよ……それでも、凄く心配はしました」
「あぁ、倒れこむようにゴールしてから、そのまま本当に倒れたまま起き上がってこないものだから」
安心したのか、泣き出す宗を幸がなだめている。
栄子は「見えているか? 名前分かる?」などと簡単にチェックしてから、医療チームに連携を取っている。
レース後なのに、部長は頼りになるな……と昭穂はぼんやりと思う。
「私、負けたんですね……。ごめんなさい、3人が繋いでくれたのに。いや、3人だけじゃない、部のみんなが繋いでくれたバトン、1着で持ち帰れませんでした」
まだ少しぼんやりとした頭で、謝罪の言葉を紡ぐ。
「負けたのは”私達”ですよ。先輩だけじゃないです」
「私がもっと上手くレースを組み立てられれば良かったんです」
「私達がリードをあと70cm稼いでいれば、結果は違ったんだ。確かに私達は勝利にこだわっている。けど、今日のレースは……よかったと思う。私がマイルを走るようになってから、もうだいぶ長いが、とても熱いレースだった。もちろん、タイムもいい。勝ち切れなかったことは悔しいが、収穫も大きかった。そうですよね、監督?」
栄子がそう言って覗き込んでいた顔を引くと、そこには心配そうな顔をした凌が立っていた。
「昭穂ちゃん、いいレースだったわ。全て、使い切ったのね」
「はい……ゴール直前までの記憶はあるんですけど、ゴールした記憶がなくて」
「凄いわ。どれだけ全力を出しても、そこまで全てのエネルギーを放出できる選手は、そうはいない。一生、経験しないままの選手がほとんどよ。もちろん、リスクのあることではあるわ。それでも、あなたの強さが限界を引き出したことは、称賛に値するわ」
「私の強さ……」
「ところで昭穂ちゃん、あなたの400mの自己ベスト、何秒だったかしら?」
「校内のタイムトライアルでですけど、60秒9です」
「そうよね。それで、これがラップタイムよ」
昭穂に渡された記録表には58秒0と記載されていた。
「えっ……これ、私のタイムですか」
「えぇ。もちろん、マイルは個人400mより少しだけタイムが速くなるわ。それでも、これは十分立派なタイムよ。あなたは、自分に勝ったの。誇りに思って」
チームが負けたときに、ここまで凌が優しいことは珍しい。
しかし負けたときというのは、大抵の場合、相手に負ける以前に、自分自身にも負けているのだ。
今日のレースは、確かに夏の森に負けた。
しかし、それは自分に負けたからではない。
凌は敗者に厳しいが、自分に負けたのでなければ、その結果を尊重してくれる。
「準優勝よ。胸を張りなさい。あなた達は強かった。けれど、少しばかり、ほんの少しばかり、ライバルが強かった。そういうレースは、名勝負と呼ばれるのよ」
昭穂は、ふいに目元から涙が溢れた。
つい先ほどまでは状況を飲み込めず、ただ仲間への申し訳なさだけが募っていたのに。
「あなた達は強かった」その言葉を、どれほど待ちわびていただろう。
公式戦で走ることができないまま、中学時代から長い年月を過ごしてきた。
立身大付属に入学してからも、これまで、ただ輝く舞台に立つことを求めて走り続けてきた。
今、ようやく、それが認められた気がする。
不思議と、勝利を重ねてきたときよりも、負けた今のほうが、嬉しい気がする。
「そうか……勝利にこだわる私達が、それでも負けても仕方ないと思えるレースをできたことが、嬉しかったんだ。「強かった」と評されるほどの走りをして、それでも敵わないようなライバルに出会うこと。これが、求めてきたゴールだったんだ」
勝利にこだわれば、負けるときまで、その道は永遠に続く。
しかし自分に負けないで全力を出し切った上で、それでも勝てない相手がいたなら。
そこは、ゴールだ。
そして、とても幸せなことだ。
そんなレースは、選手人生の中でそうあるものじゃない。
一度もないかもしれない。
それを今日、味わうことができた。
だからこそ、今日のレースを、新たなスタートにすることができる。
「全力で負けたからこそ、次のステージのスタートなんだ」
そうつぶやいた昭穂に、宗がにっこりと笑って話しかける。
「先輩、今日は楽しかったですか?」
昭穂は少し考えてから、それでも自信を持って答えた。
「楽しかったし、幸せだった! スプリンターとしての自分を、ようやく認められた気がする」
「また、走りましょうね」
「うん」
この敗北は、立身大付属のメンバーにとって大きな糧になった。
そして後の夏の森にとって強大なライバルになる、そんな物語のスタート地点だ。




