44話 地区予選マイル・1走
「昭穂ちゃん、いい走りだったわよぉ。ベスト8、そして25秒台おめでとう」
スタンドに戻ると、凌が出迎えた。
「監督! ありがとうございます。でも、夏の森の日向さんに負けてしまったので、それは悔しいです」
「確かに私達は勝利にこだわっているわぁ。でも、どんな相手にも勝ち続けるというのは、世界王者でもない限りは無理な話。そのレースごとに現実的な目標を設定すべき、そしてあなたは、その目標をクリアした。それは誇っていいのよぉ」
「ありがとうございます!」
凌は決して無理難題を押し付ける監督ではない。
あと一歩の努力で実現可能な目標、そうした絶妙な目標を設定してくれる。
「他人に勝つのは大切。でも、自分に勝つことの方が、長期的に見ればずっと大切なのよぉ。もちろん、限られた枠を争う競技だから、どこかで他人に勝たなければいけない。でも、自分に勝てる選手は、いずれ他人にも勝てるように成長できるわぁ」
学年は1つ下といえど、中学時代の実績から言えば、陽子は昭穂より格上の選手だ。
そして今回のレースでも、僅差とはいえ1年生にも関わらず昭穂に勝利している。
そんな相手に食らいつき、結果を出したのだ。
今の持てる力を最大限に発揮した。
凌は昭穂を評価していた。
「あなたの”強さ”を見込んで相談よ。急だけれど、マイルリレーの決勝、走れるかしらぁ?」
「えっ!?」
突然のことに、昭穂は驚く。
昭穂は100mで13秒台のタイムしか持っておらず、四継のメンバーには選ばれなかった。
驚異的なトップスピードを誇る宗や幸、スピードに加えて部内最強のスタミナを誇る栄子。
彼女達と比べれば、スタートも、加速も、トップスピードも目立つものはない。
200mの出場枠を獲得できたのは、最初から全力で飛ばす度胸と、最後まで諦めない勝利への想いの強さ。
マイルにおいて最も大切なのは、その勝利への想いの強さだ。
予選を走ったメンバーは走力はあれど、勝利への想いの強さが弱かった。
決勝という大舞台、凌が選んだのは昭穂だ。
「光栄です。私を選んでいただけたなら……走らせてください!」
「栄子ちゃん、幸ちゃん、宗ちゃん。4人目は昭穂ちゃんでいくわぁ。準備なさい」
「「はい!」」
ライバルに、自分自身に、勝ち続けていればチャンスを与えられる。
昭穂もまた、一つ上のステージへ足を踏み入れた。
「みんな、ここまでよくやってくれたな。マイルの予選、個人種目、どれも立派な走りだった! 今大会、これが最終種目だ。全員の想いを繋いで……出し切ってこい! マイルの決勝は祭だぞ、楽しもう!」
同時刻、夏の森の陣地でもミーティングがされていた。
運営の仕事を終え、あとは生徒を見守るだけとなったロリ先生が現れ、チームの士気を上げる。
「予定通りのオーダーで提出してきたからな、あとは槍が降ろうが隕石が降ろうが、このメンバーで走るしかないぞ。選ばれし4人ってやつだな! さぁ、アップ行ってこい!」
「了解!!」
リレーメンバーと付き添いの香織がサブトラックに向かうと、ロリ先生は綾乃を呼んだ。
「綾乃ちゃん。ありがとう。私は美咲ちゃんの温存だけ頼んだが、自分の判断で800m、歌ちゃんのサポートもしてくれたんだな」
「いやー、リザーバーとして、できることを最大限にやったまでですって! マイルの決勝、観戦する側として自分も楽しみですし」
「いいや。並みのリザーバーなら、そこまでの働きはできない。私はお前を誇りに思うよ」
「もー、そんな照れますってー」
ロリ先生は精一杯背伸びすると、まんざらでもないといった表情で照れる綾乃の頭を撫でてあげる。
「ちょっと、子供じゃないんですから」
綾乃は少し赤面するが、大人しく頭を撫でられていた。
「夏の森のマイルチームは4人じゃない、みんなが繋がってるんだってこと、だから強いんだってこと、きっとあいつらが証明してくれるよ」
「はい……!」
マイルリレーの決勝は、どの大会でも基本的に最終種目に設定される。
これは女子高生の地区予選でも、世界選手権でも同じだ。
最も華やかで、最速のチームを決める戦いが四継だとすれば、マイルは最強のチームを決める戦いだ。
それぞれが最高のパフォーマンスを積み重ねていく四継に対して、マイルは泥臭い、気合と根性、そして純粋な走力の世界だ。
強い選手ほど、個人種目や四継で多くのレースをこなしてきているため、どの選手もダメージを負った状態で出場する。
仮にノーダメージの選手でオーダーを組んだなら、逆にそれは個人種目でラウンドをこなせなかった、実力不足のメンバーしか揃っていないとも言える。
そしてトラック4周という距離は、バトンパスなどのテクニックでカバーできるものでもない。
ベストコンディションでない身体を引きずり、純粋な走力で勝負をする。
個人種目なら、ベストコンディションならしないようなペースミスも、マイルではありえる。
オープンレーンで抜きつ抜かれつの勝負をするため、ただ速いだけではポジション争いで負けてしまう。
求められるのは戦局に合わせて柔軟に対応する地力の強さ、そして最後までクールな頭脳とホットな心で戦い抜く精神力だ。
「最終種目、女子4×400mR決勝です」
アナウンスが入ると、スタンド中から地鳴りのような歓声が上がる。
四継の決勝とはまた少し違う、独特の雰囲気だ。
ロリ先生が言う通り、まさに祭という表現が正しいだろう。
「4レーン、夏の森女子!」
1走:文月麻矢 2走:葉山美咲 3走:田丸歌 4走:皆川蒼
学校名がコールされると同時に、電光掲示板にオーダーが表示される。
「5レーン、立身大付属!」
1走:本田宗 2走:松下幸 3走:渋沢栄子 4走:盛田昭穂
「香織からオーダーへ。これが今大会最後の戦いよ。みんな、準備はいいかしら?」
「1走、麻矢。もう後先考えなくていいからな……飛ばすぜ!」
「2走、美咲。また松下さん相手って、今日2回目よ? でも、大丈夫。いけるわ」
「3走、歌。立身大付属のエースに当たりましたが……食らいついて、部長まで繋ぎます!」
「4走、蒼。四継のリベンジには最高の舞台ですね。やりますよ」
「OK、オーダー。最後まで、楽しいレースを」
スタート地点に立つ麻矢が振り向き、Vサインをしてみせる。
2~4走はゴールライン横に並んでおり、麻矢に向かって頷いた。
この並んで出番を待っているときが一番緊張する時間だ。
四継続以上に出番までが長いため、気を抜けば集中が途切れ、緊張し過ぎれば筋肉が強張ってしまいそうになる。
「それでは4×400mR決勝。位置について」
先ほどまでの地鳴りのような歓声は一瞬で消え、静寂が訪れる。
他のトラック種目と違うのは、フィールド競技など含めて本当に全てが終わっており、文字通り最終種目であるという点。
競技場中の視線が、1走の背中に注がれる。
「用意」
静かに腰を上げ、最後の戦いの合図を待つ。
「パァン!」
号砲とともに、競技場中を揺るがすような歓声が戻る。
まるで止まっていた時間が動き出したかのように、熱気に包まれた。
「麻矢先輩、ほんとに飛ばしてる……! あれ、200mのペースじゃないの!?」
陽子は驚いた声を上げるが、それは他の観客も同じだった。
「あの1走……100mで2位の文月麻矢だ!」
「嘘だろ、無謀過ぎる!」
100mの選手が、スピードを期待されてマイルを走ることはないわけではない。
世界レベルのレースでも、決勝にだけショートスプリンターが投入されることは珍しいがありえることだ。
しかし、それでも麻矢のペースは速過ぎた。
他の選手はもちろんのこと、宗すらも遥か後方に置き去りにしている。
段差スタートなんてなかったかのように、圧倒的な先頭、もはやどの選手も麻矢の視界には入らない。
「いや……これが、これこそが麻矢先輩の本領。私が去年の新人戦でも見たときよりも、さらに速いけど……!」
「その通り。どんなペースで走っても、100mの選手が後半でバテるのなんて分かり切ってる。だからこそ、前半で稼ぐだけ稼ぐ、あわよくば他のチームの戦意を削ぐって戦法……もちろん、めちゃくちゃキツいし苦しいよ。でも、麻矢先輩の精神力はパないからね……」
伊緒と綾乃は知っているようだが、陽子や花火には信じられない光景だった。
「200m通過……26秒9! 麻矢、頑張って!」
香織からタイムが伝えられると、聞いていたメンバーから悲鳴のような声が上がる。
「100mあたり……13秒5ペース!? 並みのスプリンターの全力より速い!」
「言ったでしょ……麻矢先輩の精神力はパないって」
まるで減速する素振りなど見せずに、300m地点まで一人旅だ。
しかしそこで、ついに麻矢は限界を迎える。
ホームストレートに入った麻矢の脚は、もはやまともに上がっていない。
走り切れるのか不安になるくらいにフラフラになりながら、それでも麻矢は脚を止めない。
「どうして……どうして、そこまで自分を追い込めるんだよ……」
「きっと、麻矢先輩にとっては、あれが楽しいんだろう。先輩が得意とする100mでは、足がもつれて倒れそうになるほど、エネルギーを出し切れない。マイルという舞台だからこそ、バトンを繋ぐという使命があるからこそ、自分の全てをぶつけられるんじゃないか」
乳酸の溜まった脚は動かすだけで精一杯で、いつ転んでもおかしくない。
その表情は苦しそうで、つらそうで、それでも、瑠那が言う通り、少しだけ楽しそうにも見えた。
随分と後ろから迫ってきた宗が、麻矢の横を走り抜ける。
他の選手は戦意を削がれてしまったのか、まだ後方にいるが、宗だけは自分のペースを守って、冷静に追ってきたようだ。
「あぁっ抜かれた……!」
「大丈夫、2走のバトンゾーンまで段差だから! 5レーンは4レーンよりも奥まで走らないとバトンを渡せない、まだ負けてない!」
伊緒が必死に叫ぶ。
最後の力を振り絞り、麻矢は倒れこむように美咲にバトンを渡した。
ほぼ同時に、立身大付属も宗から幸にバトンが渡る。
「同時っ! 引き分けだ、100m専門の麻矢先輩が、引き分けたよ!」
3年生と1年生という差こそあれ、100mを専門とする麻矢が、200mを専門とする宗を相手に引き分けるのは、誰も予想できていなかった。
100m決勝に続き、マイルでも、麻矢は宗の猛追を凌ぎ切った。




