42話 地区予選200m決勝・1組目
「遅いわよ。ついに雌雄を決する時が来たわね、湖上瑠那!」
スタート地点に着くと、立身大付属の1年生、本田宗がツインテールを鞭のようにと振り回して瑠那の方へ振り向く。
その横には2年生の松下幸が立っており、静かな威圧感を放っている。
「昨日の100mで雌雄は決しただろ」
「くっ……私の本職は200mなの! せっかく声掛けたんだから、乗りなさいよ! それに四継ではうちが勝ったでしょ!」
「宗ちゃん、あんまりムキになると小物に見えちゃうから……」
「瑠那ちゃん、相変わらずドライね~」
それが? といった表情で宗に構う気のない瑠那と、チワワのように吠える宗。
後ろから見守る幸と美咲はまるで保護者のようだ。
しかし目が合うと、意識しているのかすぐに逸らす。
互いに、自分が競うべき相手をよく分かっていたからだ。
200m決勝の1組目。
内側3レーンから美咲、幸、瑠那、宗の並びで配置されている。
観衆の興味は、この4人の内、誰が表彰台の頂点に立ち、誰が表彰台から漏れるのか。
それぞれ実力十分な選手なだけに、競技場全体の気温が少し上がったかのような熱気だ。
コールがかかり、アイコンタクトでそれぞれ仲間の健闘を祈る。
「用意」の声から、少しの間。
100m決勝のときよりも少し長く待ってから、号砲が鳴る。
「美咲先輩、反応速いっ! 先頭の瑠那さんと2人でトップ!」
スタンドで、まばたきすら我慢するように目を見開いていた伊緒が叫ぶ。
「瑠那さんも含めて、他の選手が全員少し出遅れたような? 美咲先輩だけ凄い速く出ましたね!」
「多分、号砲が鳴るまでの間が少し慣れない間隔だったからだな。一番内側だから他の選手からは見えなかっただろうが、1レーンの選手が完全に静止するまで、ほんの少し時間がかかったからだと思う。それでいつものタイミングで号砲が鳴らないから、おかしいな? となって集中が乱れた瞬間に、不意打ちで号砲が鳴ったんだ。実際には本当に僅かな間なんだが、スタートに集中しているほど、その微妙な違和感で集中を乱しちまう」
スタートの反応速度には人一倍興味のある花火が疑問を口にすると、すぐに麻矢が解説をする。
スターターは「用意」のコールでスタート姿勢を取ってから、全員が完全に静止したのを確認してから号砲を鳴らす。
あまりに時間がかかったり、何か問題があるときは「立って」と声をかけ仕切り直すこともある。
今回の間は、意図したものではないが故に偶然が重なり、絶妙だった。
まずスタンドからは気付かないレベルだったが、スタートのタイミングでわずかな横風が吹いた。
そしてスターターから一番近い1レーンの選手が、横風に耐えようと少し力を入れたため、肩が微妙に揺れたのだ。
もしこれが1レーンの選手でなければ気付かなかったかもしれないが、スターターはその選手が静止するのを待つことにした。
その間、僅かに2秒足らず。
しかし極限まで集中した選手にとっては、いつもより2秒長くなっただけでも、何倍にも長く感じるのだ。
結果的に、美咲以外の全ての選手は集中が乱れ、少しばかり出遅れた。
仕切り直しか? という疑念を抱いた瞬間、本人達にしてみれば突然、号砲が鳴ったのだから。
しかし、美咲だけは完璧なタイミングでスタートを切った。
あらゆるレース展開をシミュレーションしてきた美咲にとって、この程度はアクシデントの内に入らない。
その差は、レースのリアクションタイムとして現れた。
美咲が0.112秒のリアクションタイムだったのに対して、次点は瑠那の0.187秒。
それ以降の選手は全員、0.2秒台というスロースタートになったのだ。
リアクションタイムは、号砲が鳴ってから、スターティングブロックの圧力センサーが作動するまでの時間で計測される。
0.100秒未満で反応した場合はフライングになってしまうため、実質の最速スタートは0.100秒だ。
(医学的な神経伝達速度の限界値を基準にしているが、近年はより速い反応速度を見せる選手もおり、フライングで1発退場という厳しい処置がなされてしまうことから、基準の見直しが求められている)
もっともそこまでの反応速度でスタートできる選手は稀で、実際には0.125秒以下ならば十分に高速反応だ。
一般的には100mのリアクションタイムで0.150秒で普通、0.175秒あたりでやや遅い、0.200秒を超えると出遅れといった評価をされる。
そして100mに対して200m、400mと距離が長くなるにつれてリアクションタイムは遅くなる傾向がある。
早速先頭に躍り出た瑠那と美咲は、コーナーということを感じさせないような快調な加速を見せる。
他の選手はスタートの反応で出遅れた影響で焦ってしまい、その後も加速に乗れていない選手が目立った。
元々スタートと加速を得意としない立身大付属の2人はすぐに立て直していつもの走りをできているが、それ以外の選手はどんどんと置き去りにされる。
(段差スタートなのに、早速内側から視界に入ってきて……その程度、プレッシャーになんかならないんだから! アンタなんてホームストレートでぶち抜いてやるわよ!)
内側を走る瑠那に並ばれるが、宗は焦らずに加速を続ける。
美咲はすでに幸を内側から抜き去り、早くもトップスピードに達していた。
この200mでの夏の森vs立身大付属のレース、言い換えれば『テクニック』vs『パワー』の勝負と言えるだろう。
スタート、加速、維持といった走りの基本動作全てを完璧なフォームでこなし、最小のエネルギーで最大の結果を取り出す瑠那。
走りの基本動作だけで見れば瑠那に劣るものの、心構えからコーナリングまで含めた総合的な技術力では非常に高レベルな美咲。
この2人が序盤から終盤までをキレイにまとめ上げる、バランスの取れたテクニカルタイプだとするなら、立身大付属の2人は中盤から終盤にかけて基礎的な身体能力の高さで追い上げていくパワータイプだ。
どちらもスタートは遅めで、陽子に似た、じわじわと加速に乗っていく走りを得意としている。
特徴的なのは、どこまでも加速していくようなトップスピードの高さ、そしてそれを維持する体力だ。
「ここからだ、来るぞ……! 立身大付属の2人は、加速に乗り切ったところからが強い!」
「麻矢は、あれに負けたんですよね……」
「部長、うるさいぞ!」
ホームストレートに入り、段差スタートの影響がなくなり順位が分かりやすくなる。
先頭は頭一つ抜けて瑠那、そして2番手に美咲、すぐ後ろに宗、そして幸だ。
瑠那と美咲はフォームが崩れる様子もなく、あとはスピードをどれだけ維持できるかが勝負になる。
テクニックでスタミナ消費を抑えている分、フォームを維持できるスタミナが尽きれば、その先には急激な失速が待っている。
ゴールまでに必要なスタミナを計算し、正確にパワーに変換する、繊細なコントロールが求められる走りだ。
対して宗と幸は、有り余っていると言わんばかりにスタミナをパワーに変換し続けている。
120m地点で宗が美咲を抜き去り、瑠那を猛追した。
「うそっ、あの距離を詰めるの!?」
「おいおいマジかよ……松下幸どころじゃないぞありゃ!」
ホームストレートに入った時点で大幅にあった差は、急激な早さで縮んでいっている。
残り30m、瑠那のピッチが明らかに低下し始める。
美咲はまだ大丈夫だ、スタミナのコントロールもシミュレーション済だが、幸はすぐ後ろにまで迫っていた。
「あぁっ! 瑠那さんが失速してる!」
「いくら瑠那ちゃんが天才でも、あのラストはスピードやテクニックだけじゃ乗り越えられない……。中学時代にまともに走り込みできてねーんだ、立身大付属で中学からやってた奴らとの差がここで出たか……! しかしあと少し、粘れーっ!」
いつものまるで風そのもののような、軽やかな瑠那の走りとは程遠い。
重心は下がり、地を這うように必死に地面を蹴って進む瑠那は、才能ではなく、もはや根性で走っていた。
(抜ける、私なら勝てる! 『磁器人形』を超えて、並ぶんだ、もう一度……隣に!)
宗はラストスパートと言わんばかりにピッチを上げ、力いっぱいに地面を蹴る。
(もう手が届く! もう並べる! 『関東6強』に勝って、南地区で1位になって、対等なチャンピオンとして……昼寝に会うんだ!)
宗の脳裏に、かつてのチームメイト、『眠れる森の美女』木下昼寝の顔が浮かぶ。
あと1歩、この1歩で抜ける! そう誰もが思うが、その1歩前、2人はほぼ同時にゴールラインを超えた。
僅かに、ほんの僅かに、宗は瑠那に及ばなかった。
(このスピードで行けば抜かれる! けど、ゴールで使い切る調整で走ってる……私に、スパートするスタミナはない。フィニッシュアクションでも無理。だったら……!)
瑠那と宗がゴールした直後、横並びで競り合っていた美咲と幸もゴールへ飛び込む。
ゴールのほんの少し手前、幸は美咲を抜いたように見えた。
ギリギリだった、流石に強かったな。そう思いながら、幸は、一瞬安堵する。
しかし、その一瞬の安堵が、幸の命取りになった。
(麻矢……四継で負けたあなたの仇、取るって言ったわよね。だから……あの技、貸しなさい!)
「いけよ美咲、隠れて練習してたことくらい知ってるんだぜ……だから、ここが使いどころだろ!」
目を合わせたわけでもない。
ましてや会話など、トラックでレース中の美咲とスタンドで応援している麻矢、ありえるはずもない。
しかし確実に、この瞬間、2人は心で、言葉を交わしていた。
「「贋作・トドメの跳躍!!」」
残る全ての力を使い、美咲はゴールに向かって跳んだ。
麻矢の技の模倣だが、それは完璧に決まった。
ゴールの瞬間、一瞬の安堵により、フィニッシュアクションを取らずにゴールした幸。
対して、多大なリスクを背負いながらも必殺の一撃を振るった美咲。
スタートの反応速度で、0.1秒程度リードしたことも大きく寄与した。
前を走る瑠那の背中を追い、いつも以上に速い流れの中で走れたのも良かった。
そもそも、3年生と2年生、1年分の経験、そして積み重ねた練習の差もあった。
その他さまざまな要素が重なり、美咲はようやく幸と対等に競り合えた。
それでも最後、敗北は目前だった。
だから最後に、もう一押しが必要だった。
「上手くいってよかったわ……薄氷を履むが如し勝利、ね」
「お互い、なんとか勝った。いや、逃げ切ったと言った方が正確でしょうか。それでも、やりましたね」
1着は瑠那で24秒75、2着が宗、24秒78。
100m専門の選手が200mを走る場合、おおよそ100mのタイムの2倍から0.3秒程度、スタミナのない選手であれば0.5秒程度遅くなるのだ。
しかし200m専門の選手は100mの2倍丁度、あるいは特に抜きん出た選手であれば、2倍よりも速いタイムで走ることができる。
僅かな差で敗れたものの、100mのタイム差(12秒15と12秒40)を考えれば宗の200mの強さは抜きんでている。
3着は美咲で25秒35、4着に幸が25秒36で入った。
ともに200mを専門にするだけあって、宗と同様に100mのタイムの2倍とほぼ変わらない。
「負けた……あと少しで届くのに、また届かなかった……」
「いい走りだった。まさかここまで速いとはな、タイムを見て驚いた」
意気消沈する宗に、瑠那が声をかける。
自分が100mに比べて200mでタイムを落としているのに対して、逆にタイムを上げていること、瑠那は純粋に驚き、称賛しているようだった。
「ふんっ、いい走り……ね。0.03秒差、スタートを考えれば勝てる勝負だった。けど、それに負けたの。……敗者に慰めは不要よ」
宗はそう告げると、足早にトラックを去った。
「瑠那ちゃん、1着を喜びましょ。それに次はほら、陽子ちゃんが走るんだから。応援しなきゃ!」
「え、えぇ」
少し寂しそうに宗を見送った瑠那に、気遣ったのか美咲が声を掛ける。
自分達が今走ってきた走路を、次は陽子が走る。
200m先には、スターティングブロックに足をかけ、じっとスタートを待つ陽子が見えた。
「陽子、私達は目標を達成したぞ。次は、お前の番だ」




