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31話 地区予選400m決勝

 400mの決勝は2組16人で行われ、1組目が予選タイムの上位8人だ。

 歌と陽子の走る2組目は下位8人なので、予選通りの結果になれば、2組目から都大会に行けるのは4着までとなる。


「真ん中より上の着順なら都大会に行けるから、リラックスしていこうね」


 歌は陽子と一緒にウォームアップをし、陽子が心細くないように気遣ってくれている。

 しかし歌自身が緊張しやすいタイプなので、その表情からは緊張が読み取れるものの、自分よりも陽子を心配してくれているようだ。

 陽子はあまり緊張しないタイプだが、高校デビュー戦かつ初の400m決勝は確かに心細く、歌がそばにいることは有難かった。


「ずっと気にかけてもらってありがとうございます。歌先輩は緊張とかしないんですか?」

「むしろ私は凄く緊張する方なんだけど、大きなレースのときは先輩達がいつも一緒についていてくれたから。同じようにできたらなって」

「先輩は、優しいですね。体験入部のときも、気にかけてくれましたし」

「そうかな? でも、うーん……」


 褒められ慣れていない歌は、少し照れてから自信なさげに考えてから口を開く。


「優しくしてくれた先輩に憧れたから、自分もそうなろうとしてる。って感じかな。だから、私が優しい、とはちょっと違うかも」

「切っ掛けが憧れでも、私にとっては、もう十分に優しい先輩ですよ」

「そうかな、そうだといいけど。憧れた存在って、もっと遠い気がして」

「憧れに追い付くことは、不可能じゃないって思いますよ」

 

 自信なさげな歌と、そして自分自身に、陽子は言い聞かせるように言い切る。

 歌は少し照れたように笑うと「そうだね。きっと」と答えた。


「女子400m決勝の1組目、スタートしました!」


 そうこうしているうちに1組目がスタートし、競技場は熱気に包まれる。

 やはり予選上位のメンバーが集められているだけあって、予選とは比較にならないスピードだ。

 2人だけ抜け出したが、3着以下は団子状態でゴール。

 先頭のゴールタイマーは57秒31と表示している。


「やっぱり速いですね。8着でも61秒以下っぽいですよ」

「そうだね。でも、勝つよ」

「1組目に、ですか?」

「うん。予選では負けたけど、オマケの組で都大会に進んだって言われるのは嫌だからね。2組目で1着を取るだけじゃない、全体の6位入賞を狙うよ」


 ギュッとスパイクのベルトを締め直し、珍しく強い口調で歌は言った。

 

「なんだかんだで、先輩もスプリンターの性格してるんですね」


 負けず嫌いで、プライドが高く、自分の方が速い、自分はもっと速くなれる。そう心の底では思っている人種が、スプリンターだ。

 決して悪い意味じゃない。

 速さ自慢が集まって一等賞を決めようと言うのだ、そういった気概がなければ、その他大勢に埋もれてしまう。


「陽子ちゃんも、でしょ?」


 やや気弱な普段よりも、楽しげに歌は聞く。

 

「まぁ、そうですね」


 じゃなきゃ、瑠那を追いかけなんてしない。そう思い、陽子は笑って答える。


「さぁ、だったらこっからはライバルだよ! 私に振り落とされるようじゃ、上のステージでは戦えないんだから、しっかりついておいで!」

「ハイ!!」


 レーンに入り、スターティングブロックをセットする。

 準備が終わった頃、1組目の正式タイムが電光掲示板に表示された。

 歌は、1組目の6着のタイム、60秒34という数字を目に焼き付ける。

 電光掲示板をじっと見つめる歌を見て、背中しか見えないものの、陽子はその闘志を感じ取った。

 そして今日の歌は、強いと確信する。

 

「2組目、位置について」

 

 コールされ、スターティングブロックに足をかける。

 100mほどスタート速度を重視しないため、陽子はやや後ろ目にブロックをセットした。

 強烈な勢いのスタートはその分、1歩目、2歩目で姿勢を崩しやすい。

 これから400mという長旅を走るのだ、スタート直後のスピードにはこだわらず、多少ゆっくりでもロスのないフォームで確実に加速に乗ることを優先する作戦だ。


「用意」


 ゆっくりと腰を上げ、静寂の中で静止する。

 前傾姿勢を取るために攻めた配置のスターティングブロックでは、この姿勢を支えるのにもエネルギーを使ってしまう。

 しかしこのレースで陽子は、肩幅よりも広く取った幅で手をつき、安定した姿勢で号砲を待つ。


「パァン!」


 号砲とともに、一斉にスタートを切る。

 3レーンの選手が飛び出すが、陽子は気にせず自分のペースで加速に乗ることだけに集中する。

 これまで散々、練習してきたのと同じように。

 一歩一歩、焦らずに地面を確実に捉えて蹴っていく。

 今日まで毎日のように、接地のエネルギーロスが大き過ぎるとロリ先生に怒られた。


「加速が乱暴過ぎる! 急いで足を動かすのは後でいいから、まずはもっと足裏に感覚を集中して、地面をしっかり踏んだと認識してから足を動かすんだぞー!」


 全力疾走をしながら、足裏に集中しろだなんて無茶を言うな。と最初は思った。

 しかし気持ち程度にほんの少し、加速のスピードを落として意識を足裏に向けてみると、その結果は意外だった。

 花火のように高速ピストンが如く地面を突くようなフォームでもなく、麻矢のように爪先のさらに先まで使って地面をえぐるようなフォームでもない。

 ましてや、瑠那のように、力まずとも全てのベクトルを直線に制御し、無駄なく推進力を得るようなフォームでは当然ない。

 陽子のフォームは、上手くグリップできず、ただ地面の上をなぞっているだけのものだった。

 スパイクを履けばグリップは多少はマシになるものの、今度は逆にピンが抵抗となって、加速を自ら減衰させてしまっている。


「お前はローラースケートでもやってんのか! 違うだろ、滑るんじゃない、走るなら、もっと地面を捉えろー!」


 気を抜くたび、ロリ先生に怒られる。

 そして足裏に集中しながら走り続け、陽子もようやく少し、地面を捉えるという感覚が分かってきた。

 試しにグラウンドで100mのトライアルをすると、気持ちではゆっくり走っているつもりなのに、タイムが変わらないという結果になる。


「狐に包まれたような顔してるなー? 筋肉の出力とタイムが比例しないからだろう。でも、地面に対するエネルギー伝達率とタイムという意味なら、比例してるはずだぞ。そして100mでタイムが同じでも、今までの走り方は体力のロスが大き過ぎる。100mなら基礎体力で誤魔化せても、200m、400mなら誤魔化せない差が生まれるはずだ」

 

 初期加速なんて瞬発力任せで、全身力んで走るものだと思っていた陽子にとって、この経験は、まさに青天の霹靂だった。

 ただ漠然とフォームが綺麗なら速い。というイメージを、その身と、数字によって体験したのだから。

 

「よしよし、意識してる間はだいぶマシになってきたな。とはいえ意識しないとすぐダメになる! 地区予選はゆっくり正確にスタートすることを意識して、勝負は後半だと思いなー。そうだよ、陽子ちゃんの武器の後半の伸び、それを最大限に活かすためさ」


 頭の中で、ロリ先生の怒声と、ニヤリと笑う顔がループする。


(毎日毎日言われてきたことなんだから、一番大事な決勝でこそ、ちゃんとやりますって)


 頭の中で陽子にダメ出しをしてくるロリ先生に対して、心の中で言ってみる。

 すると、頭の中のロリ先生に「もう加速に乗ってるぞ! 集中しろ!」とまた怒られる。


(やれやれ、直すところが多過ぎて頭に残っちゃってるよ)


 心の中で呆れたが、結果的にはこれがよかった。

 ゆっくりとマイペースに加速に乗り、ほぼ体力を使わない状態で100m地点を通過する。

 猛烈なスタートをした3レーンの選手も、大して離れてはいないことに気付く。

 昔の陽子であれば、慌てて力み、それでフォームを乱し、大きく体力を消耗してしまっていただろう。

 慌てず、ゆったりと中間疾走の姿勢を維持し、慣性を殺さないように接地に注意しながらバックストレートを走る。

 段差スタートの影響で元々遠くにいるが、前半から飛ばしているのか歌はかなり離れて見える。


(離れて見えるけど……離されているわけじゃない。だったら、遠くにいてもついていく、追いかけていく!)


 冷静に、歌を追って200m地点を通過する。

 コーナーに差し掛かり、徐々に段差スタートの影響がなくなってくると、外側のレーンの選手との距離がどんどんと縮まっていく。


(そろそろ段差スタートの影響がなくなって、最後のホームストレートかな……って、あれ?)

 

 300m地点に辿り着き、もうホームストレートだという頃。

 前を走っていたはずの外側の選手達が、視界から次々に消える。

 残るは先頭を走る歌のみだ。


(そうか、段差スタートの影響が消えて距離が縮まり始めたと思ったけど、相手がバテ始めたんだ。自分が同じペースで走ってるから気付かなかった!)


 自分のフォームに集中し、焦ってペースを乱すこともなく、冷静にレースを組み立てた陽子は、他の選手に比べてかなり体力を残した状態で走れていたのだ。

 頭の中のロリ先生が「ほらなー?」とドヤ顔で言ってくる。


(先生ありがとう。そしてここからは、歌先輩との……勝負の時間だ!)


 持ち前のストライドの大きい走りは、体力が残っているお陰でまだ健在だ。

 とはいえ気を抜けば乳酸で足が重くなり、ピッチが落ちかけるので、陽子は、ラストスパートをかけてピッチを上げる。

 徐々に近付く歌の背中。

 しかしまだ、歌の体力は切れていない。

 決して華のある走りではない。

 何か天性の目立つ武器があるわけでもない。

 ただただ愚直に前を目指す、言うなればその愚直さこそが武器、そんな堂々としたロングスプリンターの背中だ。


(歌先輩、流石に……ラストに強い!)


 陽子のスパートをもってしても、距離が徐々に縮まらなくなっていく。

 歌が加速しているのではない、陽子のスピードが歌と変わらなくなってきているのだ。

 いくら体力に余裕を持ってホームストレートに入っても、100mの距離はスパートを保てない。

 ロングスパート気味にスピードを上げるべきだったが、陽子はそれまで順調だったレースから、判断を誤った。

 決して、計算ミスで大幅に失速してしまうような、致命的な判断ミスではない。

 だがしかしコンマ1秒を争う中では、最善の効率性ではなかったということだ。

 そしてその小さなミスは、最後に勝負を分ける。


「1着、夏の森女子、田丸歌さん! 続いて2着、同じく夏の森女子、日向陽子さん!」


 最後は結局、陽子はいつものように、がむしゃらに背中を追うことになった。

 しかし差は縮まらず、歌に続いてのゴールとなる。

 酸欠で朦朧とする頭に実況アナウンスが響き、自分が2着だと改めて認識する。

 フラフラと歩きながら電光掲示板を見上げると、同じく息を切らせながら歌が歩み寄り、ハグをする。

 背中をポンポンと叩かれ「都大会、おめでとう」と言われる。

 本当は自分が先に言わなきゃいけないのに、と口を開くが、乾き切った喉からは上手く声が出ない。

 応援していた香織がスポーツドリンクとタオルを手に走ってきて、2人に手渡してくれる。

 喉を潤すと同時に、決勝の結果が電光掲示板に表示されつつアナウンスで発表された。

 

「女子400m決勝の結果をお伝えします。優勝は立身大付属、渋沢さん57秒31……」


 上位から順番に電光掲示板に表示され、読み上げられていく名前を、3人は静かに聞く。

 

「6位、夏の森女子、田丸歌さん60秒28」

「歌ちゃん、やったわね! 6位入賞よ!」

「や、やった……!」


 緊張が解けたのか、歌はその場にへたり込んでしまう。

 隣にしゃがんだ香織にもたれかかり、歌はぽろぽろと嬉し涙を流した。


「続いて9位、夏の森女子、日向陽子さん61秒11」

「私が、9位……!」

「陽子ちゃん、凄いわ! 1年生で61秒、そして9位なんて立派な成績よ」

「陽子ちゃん、おめでとう、ほんとに、よかった!」

 

 香織に肩を支えられながら、ゴールエリアを後にする。

 歌はなかなか泣き止まなかったが、それほどに6位入賞は大きな挑戦だったのだろう。

 そして陽子もまた、暫定14位から9位まで大きく飛躍した。

 幸福感に包まれて陣地に戻ると、みんなが暖かく迎えてくれる。


「都大会3号、4号おめでとう!」

「入賞なんて凄いじゃん、まだ2年生だよ!?」

 

 同期の綾乃と一緒に都大会に行けることが嬉しいのか、泣き止みかけた歌がまた涙をこぼすが、香織からタオルを受け取った綾乃がそれを拭いてあげている。


「陽子、いい走りだったぞ。練習の成果が出ていたな」

「ありがとう。瑠那みたいな綺麗なフォームで走る感覚が、ちょっとだけ分かった気がするよ」

「それは興味深いな。私は他の人の感覚が気になるが、どうしたら分かるんだ」


 自分のフォームが完璧だとイマイチ分かっていないのか、瑠那は変なことを言う。

 みんなが瑠那の走りを目指しているのに、下手なフォームで走る感覚を分かりたがるなんて。と陽子は少し笑う。


「瑠那は多分無理、ずっとそのままの走りでいて」

「ん? まぁいい、あとでまた話そう。私も、出番の時間だ」

「うん、みんなに見せつけてきてよ。夏の森に湖上瑠那あり。って」

「あぁ、当然だ」


 そう言うと、瑠那は麻矢とともに100mの決勝へ発った。

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