25話 バトン合わせ
アップとストレッチを終え、スパイクに履き替えた陽子と伊緒はバックストレートで流しをしようとしていた。
久々に履いたスパイクの感触を確かめるように、陽子はタータンの上をぽーん、ぽーんと跳ねてみる。
最近張り直されたばかりのタータンは、スパイクが触れるとすぐに反発を返してくる。
グラウンドでは味わえない、競技場独特の感触だ。
「この感じ、ちょっとなんというか……帰ってきた。って感じがするなあ」
「なんだかんだ言って、陽子も走るの諦めきれてなかったってことじゃない?」
久々の感触が楽しかったからか、思わず子供のような笑顔になっていたことに気付いて、陽子は少し恥ずかしくなる。
隣では、同じくスパイクを履いた伊緒が初めての感触を確かめている。
「あのときは完全に、もう陸上やめたー。って思ったんだけどな」
「陽子、さっきから凄い楽しそうだよ。それにそのスパイク、捨ててなかったことが何よりの証拠でしょ?」
伊緒が履いている新品のスパイクに対して、陽子のスパイクは少し使用感がある。
初心者用から少しランクアップした程度のグレードなので高いものではないが、中学時代を共に戦った戦友だ。
陸上をやめると決めたときも、これまでの努力や勝利、敗北の記憶が一緒に消えてしまうような気がして、どうにも捨てられなかったのだ。
「まぁ……そうかも。うん」
「やっと素直になった」
伊緒は楽しそうに笑うと、軽くダッシュをしてから戻ってくる。
「私、ずっと観戦はしてたけど、スパイクを履いて競技場で走ったの初めて。なんだか、土と違って不思議な感じ」
伊緒はまだスパイクの感触に慣れないのか、その場で足踏みをしては難しそうな顔をしている。
「土の上をランシュー(ランニングシューズ)で走るのとは、グリップも反発も全然違うからねー。伊緒のスパイクは初心者用だから、それでもまだ違和感は少ない方だよ」
陸上のスパイクといえば、つま先に並んだ鋭いピンが印象的だろう。
しかし走り心地に一番大きく影響するのは実は、靴の裏を縦断する屈曲部にある、プレートと呼ばれるパーツだ。
100mに特化した上級者向けスパイクともなると、もはや本当に曲げられる設計? と思ってしまうほどに分厚く、硬いプレートが搭載されている。
このプレートが硬いほど屈曲から戻る力(定規を曲げて消しゴムを弾く遊びと同じ原理)と、接地時の反発も大きくなる。
当然、身体へのダメージも相応に大きくなるため、十分な筋力や体力がなければ使いこなせないのだが。
伊緒のスパイクはつま先部分のみプレートが硬い素材で、他は柔らかい素材になっている。
クッション性に優れ怪我はしづらいが、いずれ筋力がつけば、プレートがもう少し長く、硬いモデルに履き替える必要がある。
「スパイクも見たり説明を見るのは好きだったけど、履いてみると全然違うね。最新技術で開発された軽量高反発プレートを搭載! なんて説明を見て凄いなーって思ってたけど、今なら分かる。あれはスパイク以上に、履きこなす側が凄いよ」
走るだけで足の裏を攣りそう。と言う伊緒に同意しつつ、陽子はトラックを指さす。
「あ、ほら。噂をすれば、そんなスパイクを使いこなしてる人だ」
スパイクに履き替えた麻矢が、バトン練習のためにテイクオーバーゾーンでマーカーを設置していた。
Tシャツにロングタイツと、身体を冷まさないためにまだ本気モードではない格好だが、足元でギラつく真っ赤なスパイクが、黙っていてもその実力を感じさせる。
「あのスパイク、男子だと地区予選でもたまに見るけど、女子だとそうそう見ないんだよなー」
「麻矢先輩、本当に地面をえぐるみたいなパワータイプだもんねー」
その場で様子を見ていると「4レーンお願いしまーす!」と宣言をしてコースを空けてから、バトンを持った瑠那がコーナーを駆けてきた。
中学時代は直線の100mにしか出場していなかったものの、全く不安を感じさせないコーナーワークだ。
地面に置いたマーカーを瑠那が通過すると同時に、つい先ほどまで静止していたことが信じられないほどの勢いで麻矢が走り出す。
まるで獲物を見つけた猛獣のようなスタートに、周囲で練習をしていた他校の選手達も「おぉっ」と声を上げて注目した。
「ハーイ! ……ハイッ!」
「ハーイ!」と声がかかったところで麻矢が左手を後ろに上げ、瑠那が「ハイッ!」と声を出しながらバトンを渡す。
バトンを受け取ると、麻矢は20mほど初期加速のシミュレーションをしてから減速して振り返る。
「すげーよ! ピッタリだ!」
腕でマルのサインを出しながら歩いて戻ってくるが、途中で陽子と伊緒に気付くとニヤニヤと笑いながら駆け寄ってきた。
「どうよどうよ、競技場でのバトンパスは。カッコイイだろ?」
「はい! 瑠那さんと麻矢先輩のバトンパスをこの距離で見れるなんて眼福過ぎます!」
「めちゃくちゃカッコイイっす!」
興奮する伊緒と陽子に麻矢が「本番はもっと速いぞー!」と言うが、合流した瑠那に「いや、急に速さ変わったらバトン繋がらなくなります」と冷静にツッコまれる。
「しっかし、走りの天才とはいえバトンパスまで上手くやってくれたのは嬉しい誤算だったよ。1か月ない中で、ちょっと不安だったからさ」
麻矢が言う横では他のチームがバトン合わせをしているが、追いつけずに「待って!」と言っていた。
逆に、2人の距離が詰まり過ぎて上手くバトンを掴めず、まごついているペアもいる。
「麻矢先輩の出るタイミングが正確なお陰ですよ。私は全力で走って渡すだけなのでまだ楽です」
「いやー照れるね! 実際あれ、速過ぎてよく見えないから当て勘なんだけど」
「……えぇ!?」
「ダイジョブダイジョブ! 本番はインカムで香織がサポートしてくれるし」
「もう1回だけバトン合わせやっておきましょうか……」
普段はクールな瑠那も、麻矢といるときは振り回されがちだ。
天性の感覚を持つという点では2人に共通点があるが、瑠那のそれは全てを把握してコントロールできるというものなのに対して、麻矢のそれは本人に説明できない野生の勘と言えるものだ。
しかしこの組み合わせ、勘が良すぎるが故に、スタートダッシュの出力を相手の速さによって、無意識にセーブしてしまう麻矢に対して、トップクラスの最高速を誇り、かつムラの少ない瑠那は意外にも好相性だった。
「んじゃー、今やってる子達が終わったら、またあの4レーン使わせてもらおっか」
「陽子、伊緒、横から最終チェックを頼む。こればかりは私も自分では距離感が分からないからな」
「オッケー! と言っても、さっきの感じなら本当にジャストだけどね」
まぁ念のため。と思いつつ陽子はぼんやりと前のチームを見る。
麻矢と瑠那も、そのチームが走り終わったら同じレーンを使うため、じっと様子を見ている。
「4レーンお願いしまーっす!」
100mほど離れた場所にいる陽子達ですら大声だな、と分かるほどに元気な声が響いた。
手を振って2走にサインを出してから駆け出した彼女は、弾むようにコーナーを駆ける。
瑠那や美咲のレベルと比較するのは酷だとしても、大きく外側に振られながら、なんとかコースアウトせずに走っているという感じだ。
腕をブンブンと振って、なんとか遠心力とバランスを取っている。
腕振りは大きいが前後ではなく横に流れてしまっており、いわゆる女の子走りといったフォームだ。
しかし素の身体能力が高いのか、全身を上下左右に揺らすムダだらけのフォームながらなかなかに速い。
「あの子、高校から始めたのかなー。フォームめちゃくちゃな割に結構速いじゃん」
「私の経験から見て、あのスピードは100m13秒後半くらい。直線なら、おそらく13秒半ばは出せそうね」
「いや何そのスキル、見ただけでタイム分かるとか普通に凄いんだけど」
「へへ、伊達に観戦歴長くないから。ま、多少はね」
伊緒の隠れスキルが明らかになりつつ、陽子達の目の前でバトンパスが行われる。
2走が腕を後ろに伸ばすも、渡そうとするバトンがブレているからか、なかなか掴めずに苦戦していた。
2人ともやや減速しながらようやくバトンが渡り、見ている陽子達まで「ふぅ」と安心してしまう。
バトンを受け取った2走はそのまま再加速し、本番のシミュレーションを……。
「なんだあれ!? はっえぇぇぇ!」
ぶわっ。
まるで、彼女が駆け抜けたことによる風圧が押し寄せたかのような風が吹く。
一瞬で再加速した彼女の走りは、まるで猫が走るかのようにリズミカルで、追い風に乗ってぐんぐんとスピードを上げる。
2走区間の終点まで走り切る頃には、先に隣を走っていた他のチームの選手などを全て抜き去ってしまった。
「何者だよあれ、あんなヤツいたか?」
「新入生? どこのチームだよあれ」
本人はざわつく周囲をまるで気にしていないようで、ピョーン、ピョーンとリズミカルにスキップしながら帰ってくる。
「いやー、バトンって難しいのにゃー!」
「ごめんねっ! 私が不器用だから全然渡んなくて!」
「まぁ、渡ればなんとかなるにゃー」
繋がった中では、今日イチ悲惨なバトンパスだったにも関わらず、本人達はさほど危機感を抱いていないようだ。
「あ、次の人達だ。あの人達さっき上手かったし参考にしようよ!」
「それ名案だにゃー」
2人は麻矢と瑠那のバトンパスを見学しようと、陽子達のいるトラックの内側と反対側、外側から麻矢を挟むようにして陣取った。
瑠那と麻矢のバトンパスは先ほどと変わらず完璧に繋がり、そのまま麻矢は気持ちよさそうに加速練習をする。
「やっぱり上手かったねー!」
「参考になるにゃー」
感心している2人の後ろからパーカーを着てフードを被った少女が現れ、2人の頭を叩く。
「一体、具体的に、どこを参考にするんスか。今まで散々お手本のバトンパス見せてきたッスけど、全然マシにならないまま今日まで来ちまいやがって……」
気だるげな口調で説教をする少女に、2人は「ごめんなさーい!」「言い訳の余地なしにゃー」と謝っている。
「まったく、バトンさえ繋がれば優勝も見えてんスけどねぇ」
やれやれ。と首を振ってから、少女はフードを外した。
現れたのは眠たげな瞳に整った顔立ち。
「待って陽子、あのパーカーの子知ってる! 関東6強の『眠れる森の美女』……木下昼寝だよ!」
「なんだって!? 立身大付属やめて、もうこの地区にはいないんじゃなかったのかよ!」
「分かんない、分かんないけど、あの顔は絶対間違いないよ!」
伊緒と陽子がわたわたと慌てていると、バトンパスを終えた瑠那が昼寝に向かって歩いて行った。
「おい、昼寝。久し振りだな」




