鴉をたべる
怠い体を感じ、腫れぼったい目を擦りながら、布団がはだけないようにして上半身を起こした。少しの間ぼーっと呆けたのち、枕の先の白いカーテンが朝の空色に染まっているのを見て、とんとひとつあくびをかいた。何本か列からあぶれた悪い歯並びを上下にして、その間を吐息がすり抜けて行った。
服の隙間から入ってくる寒さに身を震わせながらリビングへ降りると、丁度母が仕事へ向かうところだった。母は行ってくるねと一言言うと、ぱたぱたと足早に玄関を出て行った。僕は少しとがった目で母を見送りつつ、既に小綺麗に包まれた弁当箱を尻目に、またひとつ大きなあくびをたらした。と同時に、あくびの吐息に取り残された感情が胸の内でどんどん動きを増しているのを感じた。僕の地味な外見とは裏腹に、なかなか大胆に動く感情だ。
喉がつっかえそうであまり気は乗らないけど、とりあえず朝ごはんを食べよう。僕は朝はいつもトーストを焼いて食べる。あの小麦の香ばしい香りと素朴な味が、何となく僕の好みと合っているような気がするからだ。それに、存外忙しない朝には、食パンを焼くだけという手軽さが楽でいい。
買ったばかりの食パンを袋から取り出し、トースターにかけ、すっと扉を閉めた。焼き時間は大体3分。その間は何をするでもないけど、今日の数学の小テストのこととか、学校の購買のこととか、置き傘を失くして濡れて帰った昨日のこととかをぼんやり考えていたら、いつの間にやらあの跳ねるような音が鳴った。僕の腹の内には合わないほど鋭く速く響く音だ。
あけると、食パンの香ばしい香りが一気に現れ、僕の傍をゆっくりとすり抜けていった。陽も出始めのまだ仄暗い冬の部屋の中、その香りの立ち込める場所だけが、暖かい雰囲気とともに鮮明な色合いをもっていた。
多少の焦げ目と一緒に焼きあがった食パンの、一面にバターを塗って食べていたら、意外ともう時間がない。やっぱり朝は存外に忙しい。味に関しては特に感想は出てこなかった。飽きるほど舌に馴染んだ味だ。最後の一欠けを口に放り込むと、鏡の前で寝ぐせだけ確認し、教科書と弁当を鞄に携え、急いで玄関へ駆けた。ドアを開けると、いつも通りの顔があった。
そのままいつもの通学路を、いつもの友達と一緒に、いつも通りの話題で盛り上がりながら歩いた。ときどき可笑しさに腹を抱えて足を緩めたり、無意識にふたりの歩いてる側が入れ替わったりしたりしながら。今日の数学の小テストのこととか、たまに一緒にやるゲームのこととか、今まで何度も言ってきたくだらない冗談のこととかを、いつものようにありったけ声に出して話した。そうやって学校に近づいていくにつれ、やっぱりこれもいつも通りに、起き抜けからずっと胸の内に居座っている感情が嫌に気になってくるようになる。あくびにも声にも溶け出してくれないソレは、ごく自然に僕の歩幅を狭めたりしてくるけど、それを友達に悟られないように、いや、もうとっくにバレてるかもしれないけれど、僕自身がその事実を認めなくするように、僕は強引におしゃべりを続け歩いた。
学校についた。
『ダハハハ……』
『寒っ…今日風強すぎでしょ……』
『昨日イベント来てたけどお前ガチャ引いたー?……』
『まーた増えたらしいよー4000人だって……』
『あたし昨日秋川くんに話しかけられちゃって……』
『え、マジで!?やばー……』
『ちょっと待って……』
『眠……』
『……そうそう、だからここはⅹに2を代入して……』
『おっは~……』
『おーっす……』
『そうだよなあやっぱタケノコのが美味いよなあ……』
『数学の小テスト勉強してないんだけどー……』
『今日部活終わったらラーメン食い行こーぜ……』
『っへっくしょんっ……』
『えっアメンボって溺れるの?……』
『なんかF組の宮井くん別れたらし……』
『やばい英語ワーク今日ま……』
『最近オリンピック……』
『これって結局……』
『あー……』
『……』
『』
いつもの友達は、既に昇降口のあたりで別の友達につられていった。僕は軽く手を振って、そこからはひとりで歩いて来た。教室に着いて、ごろごろとドアを開けた。
と、瞬間、目前を小汚い鴉が横切り、紙芝居の紙をめくるようにさっきまでの光景を搔っ攫って行った。
起き抜けの感情の元凶だ。そいつが、そこにいる。
僕はとっさに瞳をくっと閉じて視線を拒んだものの、すぐに観念して、小さく溜め息をついた。食いしばった歯の隙間から吐息が這い出て、そいつの手に降った。
まぶたを開けると、いつも通りの顔があった。
どうも、瑪瑙です。
満足していただけたら嬉しいです。