猫と女の子と、餌とお金と。
猫は餌をくれる人になつく。
一番理解して一番思いやってくれる人になつくわけじゃない。
女の子はお金をくれる人になつく。
一番理解して一番思いやってくれる人になつくわけじゃない。
男たちはそれを知りながら、猫や女の子をうまく楽しんでる。
内面的な愛情と表層的な愛情のバランスを意識的に使い分けている。
猫や女の子なんてその程度のものだと自覚しながら効率を最適化している。
相手の認識を進歩させる意欲など喪失している。
それって厳密には、嘘をついて騙して相手を利用していることにならないかな。
飼い猫が大好きで、兄弟の中で進んで餌やり係を担当して、兄弟の誰よりなつかれる。
自分が好意を向ける飼い猫が、他の誰よりも自分に好意を向ける状況を作り出す。
そうして、愛し合う喜びを堪能する。
それって、望んでたことかな。
だって、自分からの愛情が理解されてるわけじゃないって、実は気づいてるわけでしょ。
餌を与えた猫が自分にすりつくのを見て、愛し合えていることにする。
お金を与えた女の子が自分に股を開くのを見て、愛し合えていることにする。
相思相愛の心地よさを捏造する。
世の中に存在する相愛のすべては実はそんな疑似的な相愛にすぎない。
嘘だと思うなら、餌を与えることなく愛する猫に愛されてごらんよ。
嘘だと思うなら、お金を与えることなく愛する女の子に愛されてごらんよ。
猫も女の子も、偽りの愛に簡単に騙されて、愛情は奪い去られる。
つまり、猫や女の子と愛し合うだなんてことは幻想にすぎない。
他者から肯定されるためには、相手の理解のレベルに合わせることが条件になる。
学校のクラスでも、先生が見ている前でだけ急にいい子ぶる子がいるよね。
内申点狙いというか。
先生も実際、いい子ぶる子を善人と見なして愛着して贔屓する。
先生が見ていないところでは、人並み以上にクズだったりする。
でも、そんな当人は悪びれない。
先生が見ている前で飾っていい子ぶるなんて、内申点のために当たり前でしょ、みたいな。
そうして、「性格がいい」ことと、「性格がいいと見なされる」ことの違いをみんな教わる。
女の子はその点、諦めが早い。
物心ついた頃には、美人とブスがいる現実を自覚させられる。
男たちにとっては、性格よりも顔、あるいは身体。
女としての価値は若い時代がピークで、それは生物学的な出産能力に根ざしていて仕方ない。
せめて愛嬌を振りまくけど、それを歯牙にもかけない相手は諦めるしかない。
身だしなみを整えて、体型や身長や肌ツヤを盛る。
化粧で擬態する嘘を覚えて、それを嘘だと自覚しなくなった時に女として適応する。
男だって、身体を鍛えて髪型を整えればイケメン扱いだし、大差ない。
化粧もオシャレも一切せずに、本当の生身の自分で戦っている人はいない。
でも、先生に好まれる子ほど性格がいいわけじゃないとは、当然気づく。
でも、男子に好まれる子ほど性格がいいわけじゃないとは、当然気づく。
そして、性格のいい子は実在する。
性格のいい子ほど、嘘をつかないし、相手のことを思いやる。
性格の悪い子は、手のひらを返した時には、相手の心がどんなに傷ついても平気。
だから、友達にするなら、性格の良さはとても大事だ。
だから、家族にするなら、性格の良さはとても大事だ。
だからみんな、本当の意味で愛し合うことに憧れつづけている。
世間の創作物には、現実離れした深い相愛があふれている。
でも、現実の人間関係で心から他者を思いやることは、むなしい。
大きな親切をすれば、たいていはすごく嫌な思いをさせられる。
他者から肯定されるためには、相手の理解のレベルに合わせることが条件になる。
まったく偽らない態度が理想なのに、偽ることを強いられる。
本当に先生を愛しているなら、見てないところでも同じ態度で生きるべきじゃないかな。
本当に男の子を愛しているなら、すっぴん丸刈りで体当たりすべきじゃないかな。
本当に女の子を愛しているなら、プレゼントなんかで機嫌をとるのは馬鹿にしてることになるんじゃないかな。
真剣に愛しているという、気持ちそのものだけで勝負すべきなんじゃないかな。
会社にとって本当にいい従業員って、自分のキャリアではなく会社全体の業績を念頭に考えてくれる人じゃないかな。
国家にとって本当にいい国民って、国家や社会からどう評価されるかではなく、見返りを度外視して人々の幸福を思ってくれる人じゃないかな。
そんな人が報われる組織であるためには、会社も従業員を思いやらねばならないし、国も国民一人一人を思いやらねばならない。
国家と国民はもちろん、会社と従業員の関係だって、ビジネスであるべきではないということになる。
女の子の多くは、化粧で盛ってお金持ちの男の子を捕まえればラッキーだと思ってる。
ビジネスと見なされたものには、必ず嘘がつきまとうということだ。
そして、ビジネスであるなら、本当の愛では決してない。
現代の会社は、人間を利用することだけ考えている。
ひいては、社会全体が、人と人の関係はそれでいいと見なしている。
みんな、人生はビジネスだという人生観に収束しつつある。
今や、見返りを度外視した親切には、ほんの少しの価値も認められない。
見返りを度外視した親切心こそが、他の何より大切なのに。
見返りのためではなく行われる親切が、本当の親切だ。
それはしばしば甚だしくリスキーで、しかし人間社会の根底の信頼関係を支えている。
転んだ人が奪われるのではなく助けられる社会は、庶民の善性が支えている。
なのに会社の経営者は、鞭打つことで従業員をコントロールしようとする。
なのに国のエリートは、鞭打つことで国民をコントロールしようとする。
自分たちのほうがずっと馬鹿な場合、それが合理的に動作しないことを忘れている。
頭の悪い先生のせいで、本当に性格がいい生徒たちがかえって淘汰されていく。
財界は労働者を騙して、勤勉で真面目な労働者から淘汰していく。
国は法によって機械化され、愛国者から淘汰していく。
猫の頭の悪さが、本当に愛する人を淘汰し、猫自身を不幸にしていく。
女の子の頭の悪さが、本当に愛する人を淘汰し、女の子自身を不幸にしていく。
他者から肯定されるためには、相手の理解のレベルに合わせることが条件になる。
試しに、相手の理解のレベルを超えて優しくしてごらんよ。
例えば、相手のためを思って相手の短所を指摘してごらんよ。
そんなことをすればしばしば、底なしに凶暴な攻撃心を向けられることになる。
心も人生も簡単にズタズタにされてしまうよ。
頭の悪い人ほど、内面的にはものすごく凶暴だ。
人は、自分に理解できないものはどんないいものでも、完全に無視する。
みんな、それぞれが理解する価値観の中で人生を生きていく。
そして、現代人は全員、備えている価値観が完全に間違ってる。
本当に親切に誠実に生きるほど、出世なんてしないものだ。
本当に親切に誠実に生きるほど、お金なんてもらえないものだ。
なのに現代では、貧しい者ほど、不健康な者ほど、早く死んでいく者ほど蔑まれる。
いい人から順に死んでくれと土下座して頼んでいるようなものだ。
ひいては、真実が見える知的な若者は居場所なく死ねと言っているようなものだ。
誰にも見られない善行ほど善行に違いない。
利益になるどころか損になる善行ほど善行に違いない。
昔の宗教ならそれが報われると説いたけど、そんなもの迷信に違いない。
ならば、見えないところにこそ価値があると思って、人は互いに敬意を持たねばならない。
なのに、人様を馬鹿にするだなんて。
人間という愚かな生き物には、どうやら凶暴な悪意しか備わっていないようだ。
人を馬鹿にする人間がいることが理解できない。
いわゆる負け組なるものが馬鹿にされる風潮が理解できない。
少しも馬鹿にせず接してきた人々になぜ山ほど馬鹿にされて生きていかねばならないのかわからない。
人間というものが嫌いになっていく。
人間なんていない世界を望むようになっていく。
だから、猫も女の子もいない世界を選んだ。
とても静かで、少し寂しい世界。
愚かな人たちの暴力的なまなざしに計られることに、疲れてしまった。
食と安全さえあれば、自分以外、人間はいらない。
他者から肯定されるためには、相手の理解のレベルに合わせることが条件になる。
飽き飽きなんだ、そんなの。
私しかいない世界が、私には一番いい。
暇さえあればそんな空想に没入していった。