となりに居てほしいのは、ただひとりだけ
(どんな柔らかな寝床だって、ロウの腕枕が無いなら最低の場所だ)
寝て起きて、ナオが一番に思ったのはそんなことだった。
半身を起こしたナオが、寝るときにも外してもらえなかった首飾りを忌々しげに払った音で、同じ部屋に眠る世話女が目を覚ます。
慌てて起きた女は、同じ部屋に居るナオの姿を捉えて明らかにほっとしたようだった。
寝乱れた服を直しナオの髪を結いあげた女は、髪飾りを手に取る前にナオに声をかける。
「今日は島長が参りません」
「…………」
だから何だって言うんだ、という気持ちのこもったナオの視線に、女は動じることなく「飾りはどうしましょう」と続ける。
途端に、ナオの眉間にちいさくしわが寄った。昨日、飾り立てられたときの重みを思い出してナオは不機嫌になる。
頷きもせず、首を横に振りもしないのにナオのその顔で女には伝わったらしい。
「お好きに過ごしなさいませ」
一言言って、女は水を汲みに出て行った。
(あたしの好きなのはロウのひざに乗って抱きしめてもらうこと。海からあがってくるロウから滴る雫を眺めていること。ロウの腕枕で眠って、こっそりロウの寝顔を眺めること)
ナオの好きなことはどれも、ロウがいなくては成り立たない。
だというのにロウはこの島にいない。
どうがんばったところで、ナオの好きには過ごせない。だから、ナオは起き上がった体勢のまま動きを止めた。
女は物静かなナオを置いて、食事の支度にかかる。
しばらくして、出された粥にナオは手をつけなかった。女が魚を焼いてほぐしても、イタドリや桑の実を採ってきて目の前に置いても、ナオはぼんやりと座るばかり。
「お気に召しませんか。けれど今はこれしかありません」
(要らない。お腹すいてない)
目の前に並べられた豪華な食事から目をそらし、ナオはふるふると首を横に振る。
促しても食事を摂らないナオに業を煮やした女に食べ物を口元に押し付けられて、ようやくいくらか口にする様は、すっかり弱った獣のようだ。
とうとう諦めたのか、とかすかな憐憫を抱きながら、世話女はめっきりおとなしくなったナオを置いて、洗い物や部屋の掃除に精を出す。
ワタツミが来ない日にナオはひとりきりで退屈を持て余す、かと思いきや。
暇なひとがもうひとりいた。
「お前、獣のくせにどうして服を着ているのかしら」
昼前にやってきたナムラが、付き人をぞろぞろと従えてナオを見下ろす。
ナムラの装いは昨日より一層、華やかで、結い上げた髪を彩る飾りがしゃらしゃらと主張をしている。
それは、ナオに張り合うための衣装だった。
島長であるワタツミの羽織っていた服は当然、島で一番上等なものだ。それをまとうナオは、幼さが勝つとは言えじゅうぶんに美しい。ほっそりした四肢に神秘的な黄金の瞳がいまだ不安定な女の色気を漂わせている。
万に一つもナオにワタツミの妻の座を奪われることがあっては、とナムラは考えているのだろう。
世話女に理解できるナムラの考えは、けれどナオにはわからない。
「……?」
ぼんやりと座ったままこてんと首をかしげたナオは、豪奢な装束にゆったりとした動作も相まって、優雅さを感じさせた。
(そう言われても、あたしの服はもうないのに)
と首をかしげたナオを見て、ナムラは「あなたが何を言っているかわからないわ」と馬鹿にされたのだと受け取める。
そうして、激情のままに声を荒らげる。
そんな日が、三日続いた。
三日目にもナムラはやってきて、散々にナオを罵って帰って行った。
その夜。
月が波間にてらてらと明かりをこぼすころ、ナオはふらりと立ち上がった。
「用足しですか」
明かりが要るだろうか、と小屋の外をのぞいた世話女は、月の光で青白く染まる島の景色を目にして顔を引っ込める。
「月がよく照っておりますから、おひとりで行きますか?」
「…………」
問いかけに、ナオは振り向きもせず小屋を出た。
用を足す場所は小屋からそう離れていない。ナオも何度も利用しているからと、女は小屋に残る。
けれど、小屋を出たナオが向かったのは海だった。
波が打ち寄せる岩場までふらふらと歩き、岩に登ろうとしては衣を踏みつけて滑り落ちる。
(ロウ、ロウ……)
何度も岩に登ろうとしては失敗しながら、ナオの唇は愛しいその名を形作っていた。
滑り落ちても、長い衣の裾を踏みつけて転んでも、ナオはただ前だけを向いて進もうとする。
(ロウ、ロウ、あたしはここだよ)
「何をしてるんですか!」
悲鳴のような声で、ナオはきょとんと振り返った。
月に照らされた薄暗闇のなか、濃い影を踏みながら世話女が駆けて来る。
「波にさらわれたらどうします! この時間は渦潮も出るというのに……」
やってきた女に腕をつかまれて、ようやくナオは自分が腰まで海に浸かっていることに気が付いた。
暗い海にゆらゆらと踊る衣の裾を眺めて、不思議そうに首をかしげる。
「……死んだほうがましだと、考えているのですか。島長の元で生きるくらいなら、死んだほうがまだ良いと」
深刻な顔をして問いかける女に、ナオは首を横に振った。
ほっ、と息をついた世話女は、けれどその表情を再び硬くする。
(ロウに会えないなら、どうだっていい)
音にならないナオの答えに、世話女が目を伏せた。
唇の動きをすべて拾えたわけではなかったけれど、首飾りを付けられる前のナオを知っている女の耳には「ロウ」と寂し気にささやく声が聞こえていた。
「……戻りましょう。濡れたままでは、身体が冷えます」
背中を押す手にナオは逆らわず、ふたりは黙ったままゆるゆると小屋を目指して海から遠ざかる。
ちいさくなる波の音にふと振り返ったナオは、暗い海の果てまで照らす月明りのしたにロウの姿が無いだろうかと、目を凝らす。
「さあ、着替えを」
小屋のなかで、女がナオの濡れた服を脱がし始めた。
最後の一枚を腕から抜き取った女は、真水で濡らした布でナオの身体を拭いていく。
「水浴びができないと、不便ですね」
女のことばにナオは首をかしげた。
ナオは生まれてこのかた、水浴びをした記憶がない。
ロウと暮らした筏のうえでは、いつも濡らした布で身体を拭いていた。長い髪は海に浸して、ロウがやさしく洗ってくれた。
(だってあたしは胸の痣を隠さなければいけないから……)
されるがままになっていたナオの目に、薄れてきた胸の血の色が飛び込んでくる。
乾いた血は水浴びをしなくても、服にこすれ汗をかくことで肌から剥がれ落ちる。
今まさに、隠すもののないナオの胸元で剥がれた血の間から、醜い痣がうっすらと見えていた。
「!!」
気づいたナオは目の前でしゃがんでいた女に飛びかかる。
「きゃあ! なにを!?」
驚きしりもちをついた女の腕をつかんだナオは、そこに巻かれた布を剥ぎ取り、目当ての傷口を剥き出しにした。
数日前、ワタツミの刀に切られた傷口だ。
ナオは、すでに血が止まり塞がりはじめている傷口に爪を立てた。