甘ずっぱい果実、しょっぱくない海
女はワタツミに言われた通り、ナオのそばに居座った。
布でくるんだナオの腕をつかみ、来た道を戻る。
その手に込められた力が行きよりも弱いように感じるのは、ナオの気のせいだろうか。
小屋に着くと女は濡れた布を奪い取り、代わりの衣服を身につけさせた。頭と腕を出すための穴がある、筒のような服だ。腰を紐で縛るのはナオの着ていたものと変わらないけれど、布の頑丈さはまるで違っていた。
濡れた布とぼろきれのようになった衣服を抱えて女が部屋を空けたのは、ほんの短い時間。
ナオが今のうちに逃げ出そうか、と思案をはじめるころに戻ってきた女の手には、植物の乗ったかごがある。
「これ、なに?」
床に座ったナオは、目の前にどんと置かれたかごを眺めて首をかしげた。
逃げ出そうという気持ちよりも好奇心が勝ったらしい。あるいは、空腹に耐えかねたのか。
かごを置くなり部屋のすみに下がり黙り込んでいた女は、向けられた好奇の視線に渋々というように顔をあげた。
「……なに、とは」
「野菜? なんか、すごくちっちゃい」
かごのうえの植物のひとつ、赤黒い粒を手に取ったナオは、光に透かしてその粒を眺める。
幼児が拾った小石を眺めるようなその動作に、女は呆れたような顔をしながらくちを開いた。
「桑の実です」
「へえ、きれいだね。食べられるの?」
「食べ物ですから」
何を言っているのか、と言いたげな女の視線に気づかないのか、ナオは「へえ、へー」と楽し気に眺めた桑の実をぽいとくちに放り込む。
むぎゅ、と噛んだ瞬間、ナオの目が大きく開かれて金の瞳がきらきらと輝いた。
「甘い! 酸っぱい! 水がいっぱい出る! すごい、なにこれ! ロウにも食べさせたい!」
「ですから、桑の実だと……」
ため息交じりに言いかけた女は、ことばを飲み込んだ。
島のどこでも採れる木の実に大げさに驚く少女の無邪気さと、その身体の細さに目をやってわずかに眉を寄せた。
島長が連れてきたどこの誰とも知れない少女の出自を女が知るすべはない。けれど、その暮らしが決して豊かなものではなかったと察する程度には、ナオの身体は貧相で伸ばし放題の髪の傷み具合といい、身に着けていたぼろ布の朽ち具合といい、ひどいものであった。
「ね、ね。これ、これは? 緑の棒、これも食べ物? それとも竹? これから何か作るの?」
「それはイタドリです。そろそろ季節も終わりですが、皮を剥いてそのまま食べることもできますし煮てもおいしいです」
「へえー!」
女が密やかに抱いた同情など気づきもしないのだろう。
言われるまま、手にしたイタドリの皮を剥いたナオは現れた瑞々しい茎にかぶりつく。
しゃき、と軽やかな音を立てて採れたてのイタドリの茎をかじる。
「すっぱ!」
くちではそう言いながらも、その顔に浮かんでいるのは笑顔だ。
「緑で、でも赤っぽい点々もあって、変な草! 覚えた。帰ったらロウに採ってあげよう! あ、でも陸にあがるの許してくれるかなあ」
「……帰れないとは、思わないのですか」
つい、そんなことを聞いてしまったのは女にも子どもを産み、育てた過去があったからか。
容姿からうかがえるナオの暮らしの貧しさと、ナオ自身の明るさが釣り合わないせいか。
女自身にもわからない問いに、ナオはきょとんと眼を丸くした。金色の目がぽかんと女を映す。
「帰るよ」
ナオがあまりにも簡単にくちにするものだから、女は「ああ、この子は愚かなのか」と思ってしまう。
けれど、女を映す金の瞳は、理知の輝きに満たされている。
「あたしはロウの腕のなかで生まれたんだから、死ぬときもロウの腕のなかでなきゃいけないの」
昇った太陽はやがて沈むのだ、とでも言うかのようにさらりとくちにするナオの姿は、神々しくすらあった。
思わず声を失う女の見ている前で、ナオはぽうっと頬を染める。
「それで、生きている間もロウのそばがいい。これはあたしの望みなんだけど。ロウもナオとふたりきりで生きていきたい、って言ってくれてるんだ」
うれしそうに告げられたことばの意味は、女にはわからない。
ただ、あの島長が気に入った娘を手放すわけがないと、少女を憐れんだ。
憐れまれているとも知らず、ナオは顔をあげて女を見上げる。
「それよりさ。さっきのちっちゃい海、しょっぱくないんだね。いろんな海があるんだね!」
「海ではなく、泉です。湧き水がしょっぱいわけがないでしょう」
「泉? 湧き水ってなに? 雨水とはちがうの?」
尽きることがないナオの疑問に、女は憐れみも忘れてそっと壁際に戻った。
あまりの無邪気さについ話をしていた女だったが、少女は生きながらにして死者の国の虫を呼び起こす不気味な存在なのだ。加えて、冷酷な島長のお気に入りでもあることを思いだし、女は与えられた職務に集中することにした。
すなわち、ナオの監視である。
床に無造作に座り込んだナオは「泉って冷たいんだね。海に手をつけたときはもっと温かかったのに。雨と海と泉。他にも水の呼び方ってあるのかなあ」などとぼやきながら桑の実をつまんでいる。
存外、おとなしいナオに女が気を抜きかけたとき、不意にナオが立ち上がった。
自然な動作で歩きだした少女は、何気ない様子で入り口の布をめくって外を眺めている。
かと思えば、突然外に駆け出した。
裸足のまま土を蹴る身の軽さは、山を飛び駆ける若鹿のようだ。
「……え?」
あまりにも滑らかな脱走に、女は理解が追いつかずナオの差を見送ってしまう。
けれどすぐにはっとして、慌てて駆け出した。
小屋を飛び出すなり周囲を見回し、かすかな足音をたよりに丘をくだる。先ほどの泉に背を向けて走れば、ほどなくして波の音が聞こえてくる。
波の寄せる岩場にナオの姿を見つけて、女は息を吐いた。
「この島からは、逃げられませんよ! 船が無ければ、どこへも」
「潮の香りが、ちがうんだ」
追いついた女が息を切らして叫ぶのに、ナオは振り向きもせずぽつりとこぼす。
その声のあまりの静けさに、女はことばをかけられなかった。
岩のうえに立ってはるか遠くを見つめるナオは、まばたきもせずに水平線を目に映している。
「目が覚めたとき、香りがちがうって思ってた。明るくて、暖かくて良いところだけど、この海にロウはいない。あたしのいるべき場所はここじゃない」
誰に語るでもなく、ひとりごとのようにつぶやく声に含まれた響きは、闇夜にかすれる鵺の鳴き声のように悲しげだった。
これほどまでに焦がれる誰かの元へ帰れない少女を哀れに思い、女が唇を噛んだとき。
くるりと振り向いたナオが、身軽に岩を飛び降りて女の横をすり抜けた。
「あたし、岩ってはじめて登った! これ、岩でしょ? 見たことはあるんだ。でも滑って海に落ちたらいけないからって、ロウが登らせてくれなかったの。ねえねえ、あなたにも名前あるの? あたしはナオ。ロウにつけてもらった名前なんだよ」
それから歩いて小屋まで戻り、日暮れになってナオが寝るまで、女は延々とのろけを聞かされることになるのだった。