湧き出る腐臭、引き寄せる好奇
※虫が出ます。わさわさ出ます。甲虫です。
苦手な方はご注意ください。
黒い虫は硬い羽に守られた身体をぬらぬらと光らせながら、土をかき分け這い出てくる。
次から次へと虫が湧き出るたびに耐えがたい腐臭があたりに満ちて、降り注いでいるはずの陽光のぬくもりを打ち消していく。
「これは……死出虫!? 死者の国の生き物が、なぜ今……」
驚くワタツミは、死肉を食むはずのその虫がナオの周囲を囲うように湧き出ていることに気が付いて眉をしかめた。
不気味な虫に囲まれたナオは怯え、青ざめて震えてはいるが、その肌には生きているものの艶がある。昨日触れた彼女の身体は、確かに暖かかったことをワタツミの手はまだ覚えていた。
「いや、いや……! あたし、死にたくないよ、ロウ……!」
「ああっ、島長さま! お助けを!」
ナオが悲鳴をあげるのと、女がワタツミにすがりつくのは同時だった。
腰を抜かしたらしい女は地に這いつくばり、腕だけでワタツミの腰にしがみつく。
「邪魔です」
存外強く、煩わしいその腕を払いのけざま、ワタツミは腰の小刀を抜いた。
「それは私の拾いものです!」
ワタツミが苛立ちに任せて振るった刀に切られて、数匹の死出虫がばらばらと地に落ちる。途端に、死出虫たちが押し寄せて仲間を死骸を貪り、また元通り無数の虫たちがナオを取り囲んだ。
「くそっ、くそっ、散れぇっ」
切っても切っても減っているようには見えない虫を相手に、ワタツミは闇雲に刀を振るう。
「あっ」
その拍子に、抜き身の刃が女の腕に触れたらしい。ぱっと地面を染めた赤い血に、死出虫がざわりと群がる。
けれど血に気を取られるのは一瞬で、死出虫はすぐにナオのそばへと戻る。
「ちぃっ」
「血! そのひとの血を、あたしにちょうだい!」
変わらない状況にワタツミが舌打ちをしたとき、座り込んでいたナオが叫んだ。
「何を……」
おかしなことを言いだした、と眉をしかめたワタツミは、視線を向けた先でまっすぐに見返してくるナオの瞳とぶつかって声を途切れさせた。
黄金色に燃える瞳に宿る意思の強さに、息を飲んだのだ。若くして荒々しい海の男たちを支配し、周囲の島々を治めるワタツミが息を飲まされた。
「…………」
「ひぃっ!」
黙り込んだままワタツミは座り込む女の腕を取り、ナオに向けて乱暴に押した。
死出虫の群れに投げ込まれる形になった女は悲鳴を上げ、水際に倒れ込む。死出虫の群れは敏感にざわりと引いた。
「血、もらうから」
倒れた女の腕に手を伸ばしたナオは、こぼれる赤色に躊躇なく指を這わし、その手で自身の胸元に触れた。
ぬちゃり、と粘つく赤色がナオの胸元を汚す。同時に、その胸に刻まれた痣も覆い隠していく。
細く、けれど荒れた指が血を塗り広げるたびに、黒くぬらつく死出虫がざわざわと動く。
ナオが痣を塗り隠すほどに、死出虫は太陽を見失った旅人のようにふらふらとよろめいて群れを崩し、一匹、また一匹と土に帰っていく。
そうしてナオの痣がすっかり血で覆われたときには、あれほどいた死出虫の姿は無くなっていた。
残った腐臭も、さあっと吹いた風にさらわれて消えてしまう。気づけば、温かな陽射しが戻りあたりは穏やかな静寂に包まれていた。
「……今のは、一体……」
呆然とつぶやいたワタツミの声をきっかけに、座り込んでいた女が飛び起きる。女はワタツミに向かって地に両手と両ひざをつき頭を下げた。
「長さま、どうかこの娘の世話から外してください! そのほかのことでしたらなんでもいたしますから……!」
女は腕から流れる血にも構わず、深く深く頭を下げている。
ぶるぶる震える腕とさらされた後頭部を見下ろして、ワタツミはひとつ息を吐いた。
「いいでしょう」
ほっと息をついた女に、ワタツミは続ける。
「でしたら、舌を切り落とすか喉を裂くか。選んでください」
「……は?」
思わず顔をあげた女に向けて、ワタツミはにこりと微笑んだ。
笑顔の横には、いつの間に抜いたのか小刀が光っている。
「あなたはその子猿の秘密を見てしまった。そのうえでもう世話は嫌だと言う。ならば、一生喋れないようにするか、一生をここで終わらせるしかないでしょう」
「そっ……そんな!」
這いつくばったまま後ずさる女に、ワタツミが一歩近寄った。
大柄な男の一歩で両者の距離が縮まり、見上げるようにして首を反らす女をワタツミが覗き込む。
「どうします?」
「しゃ、喋りません! ぜったい、誰にも喋りませんから! どうか、どうかお助けを……!」
「くち約束は信じない主義なのです」
ひゅん、と抜き身の刀が空気を裂いて女の首に迫る。
恐怖に見開かれた女の目が絶望に染まる一瞬前、飛び出したナオが刀の腹をはじいた。
「……なんのつもりです」
ワタツミに睨みつけられても、ナオはひるまず彼の目を見返す。
「いまここで死人を出せば、またさっきの虫が戻ってくるかもしれない。あたしはそんなの嫌」
強く言い切る少女の瞳に怯えはないが、その手はちいさく震えている。握りしめた石で男の刀をはじいたせいで痺れているのか、それとも震える身体こそナオの怯えを表しているのか。
探ろうと目を細めかけたワタツミは、馬鹿らしいというように首を振ってナオと女に背を向けた。
「あなたはその子猿の部屋付きにします。家族との接触は禁止。次に私が来るまで、せいぜいその子猿に逃げられないよう、努めなさい」
「はっ、はい!」
去って行く背中に向けて女が「ありがとうございます!」と額を土にこすりつける。
それを振り返りもせず、立ち去るワタツミは手にしたままだった小刀に視線をやって目を細めた。
「抜き身の刃の前に飛び出すのは、度胸があるのか愚かなのか。気まぐれで拾ったにしては、磨けば見られるようになりそうですし。悪くないですね」
くすくすと笑う男の顔はナオには見えなかったけれど、その笑いに込められた不穏さに、彼女はぶるりと身体を震わせる。
「……これを」
ナオの震えを濡れているせいだと思ったのか、それとも身に着けていた衣服がほとんど用を成さない姿を哀れに思ったのか。女が差し出した布に身を包み、ナオは男の背中をにらみつけていた。