隠していたものが、白日のもとにさらされる
ナオは嗅ぎなれない潮の香りに鼻をひくつかせ、ゆるゆると持ち上げかけたまぶたをもう一度下ろした。
「まぶし……」
朝。嵐が過ぎたのか。いつの間に寝たのだろう。
寝ぼけた頭でぼんやりと考えていたナオは、ハッと飛び起きた。
「ロウっ!」
叫んであたりを見回すけれど、周囲には誰もいない。愛おしいその姿も耳をくすぐる低い声も見つけられない。
代わりにナオの目に飛び込んできたのは、きれいに整えられた部屋とすき間のない壁、そして水の染みていない床だ。開け放たれた窓の外では、まぶしいほどの光に包まれた緑の草木が風にそよいでいる。
「ここ、どこ……」
ぼうぜんとつぶやいたナオは床が揺れていないことに気が付いて、下ろしかけた足をそろそろと戻す。戻した先で身体に触れるやわらかな寝床に驚き、困惑した。
「なに、これ。やわらかい……布のしたに、藁……?」
貧しい筏のうえでの暮らしで長年、板のうえに直接横になって寝ていたナオには、驚きの贅沢な寝床だった。
「お目覚めですか」
ぱさ、と入口に下げられた布をくぐって入ってきたのは、年のいった女だ。
がっちりとした身体にしわの目立ちはじめた顔立ちは目つきが鋭く、下がった口角は親しみを抱かせない。長い髪をきつく結い上げているせいか、余計に厳めしい印象を与える。
「誰? ここ、どこ?」
「身体を清めます」
女はナオの質問など聞こえていないかのように一方的に言って、ナオの腕を引く。
縄は寝ている間に解かれたらしい。自由になった身体でナオは精いっぱいに抵抗をする。
「いや。答えて! 答えるまで行かないから!」
「身体を清めよ、と長のことばです」
女のほうも素直に答える気はないらしい。
肉付きの良い身体で踏ん張り、抵抗するナオの腕を引く。
ナオも顔を赤くし全力で抗うけれど、身体の重さがちがう。
ずるずると引きずって部屋から出されただけでなく、その先の道のうえをさらに引きずられていく。
小屋の外に出て、ナオは自分の感覚が正しかったと知った。
先ほど目を覚ました小屋は、陸のうえに建っていたのだ。
小屋を出ると踏み固められた土の道があり、それはどこまでも続いている。
「陸だ……!」
生まれてはじめて陸に降り立ったナオは、引きずられているのも忘れそうになるくらい驚いた。
ぐしゃぐしゃに乱れた長い髪のすき間で大きく見開いた瞳がきらきらと金色の光を放つ。
それを目にしたのか、しないのか。
女が不意にナオの背を押した。
「え」
引っ張られるのに抵抗していたナオの身体は、無遠慮に押されて均衡を崩す。
大きく後ろに倒れ、どぼん、と水に沈んだ。
ごぼぼ、と大きな気泡が目の前を通っていくのを見送り、ナオは両手をばたつかせる。
(水! 息、できない! くるしぃ、くる、しっ……)
きっと泳げる、とロウに大口を叩いては「ナオは待ってて」と筏で過ごしていたせいか、ナオは泳げなかった。
浮かぶ方法も知らず、濡れた身体の重さと鼻に入り込んだ水の痛みに混乱してますます水の底に沈んでいく。
どん、と音のような衝撃のようなものを感じたころには意識がもうろうとして、気づけばナオは陸に転がっていた。
「げほっ、げほっ、うえぇぇ……」
何が起きたかもわからないまま水を吐き出すナオのうえから、冷ややかな声が降ってくる。
「海で暮らしていたくせに、泳げもしないんですか」
明らかに馬鹿にする響きのそれにのろのろと顔をあげたナオは、そこに見た顔に目を見開いた。
「あんた……! 人さらい!」
「おやおや。嵐に呑まれそうな筏を安全な島まで移動させたうえ、寝床まで提供した恩人にひどい言いざまだ。ワタツミさま、と呼んで良いのですよ」
肩をすくめるワタツミの向こうでは、女が額を地面につけてうずくまっている。「島長さま」とつぶやく声には、畏敬の念がにじんでいた。
「泳げなくとも洗うだけならば問題ないでしょう。隈なくきれいにしてしまいなさい」
「はい」
ワタツミに言われてすばやく身を起こした女は、ナオを捕まえて再び水に落とした。
水を吐いたばかりでぐったりしていたナオが暴れる間もない早業だった。
「ちょ、やめて、嫌だ、やだ!」
「洗うだけです。暴れるならまた突き落としますよ」
なんでもないことのように告げるワタツミにぞっとしたのは、ナオだけではないらしい。ナオの腕を掴む女の手にも力が入り、頭といい体といい、遠慮もなにもなくがしがしと洗われる。
洗うのに使っているのは、草の束だろうか。ひどくごわごわした塊だ。
「いたっ。痛い! やめてよ!」
「なんて汚いの……」
ナオが叫んでも暴れても、女はむしろこする力を強くした。
草の束を水につけては、こすりつける。
女の手は剥き出しの脚や腕だけでは留まらず、ナオの身につけているぼろ切れ同然の服を破いて背中も腹も洗っていく。
「あなた、一度も身体を洗った事がないだなんて、言いませんよね……?」
信じられない、と言いたげな声があがって、ナオはハッと自身の身体を見下ろした。
破れた服はほとんど用を成さず、申し訳程度に腰のあたりにわだかまっている。
剥き出しになった胸もとは無遠慮に洗われ、長年の汚れが取り払われたことで意外に白い肌をさらしていた。
そして、血の覆いを失くした肌に刻まれた赤黒い痣が大気にさらされる。
「あぁっ!」
悲鳴のような声をあげて剥き出しの胸を搔き抱いたナオを、ワタツミが笑う。
「一人前に羞恥心があるのですか? そのような貧相ななりで……」
相手の神経を逆なでるよう選んで発されたことばに、けれどナオは赤くなるどころか血の気の失せた顔で震えだす。女の手からというよりも、水から逃れようと四肢をついて地を這う姿は滑稽よりも異様さが際立っている。
異変を感じたワタツミが眉をひそめたとき、ナオがちいさくつぶやいた。
「ああ……地の底のものに気づかれる……」
何のことだ、と問うよりもはやく、ワタツミは異臭を嗅ぎ取って鼻を押さえる。
「なんです、この臭い……?」
「ひいっ!」
悲鳴をあげた女がしりもちをついた、そのすぐそば。
ナオの周囲の土がぼこぼこと湧くように盛り上がり、むわりと腐臭が濃くなった。
そして姿を見せたのは、無数の黒い虫だった。