死さえも、ふたりを分かつことは許さない
「い、や……いや! 来るな、来るな! あんたたちには渡さない、渡さないんだから!」
ロウの身体を抱えたまま、ナオは必死に手を振りまわす。むせ返るほどの死臭に抗おうと、血相を変えて叫んだ。
けれど、ちいさな手が振り払える虫の数などたかが知れている。
ぞわぞわと這い寄る死出虫は、見る間にロウの身体を覆い隠し不吉な黒に沈めていく。
「やだ、やだぁ……ロウ! 起きて、起きてよロウ! 逃げよう、ふたりでいっしょに逃げようよぅ……」
ナオの泣き声に答える者はいない。
もはや血を流すことさえやめてしまったロウの身体は重く、必死で未来を見ようとするナオの心にのしかかる。
そこへ、風を裂いて飛来するものがあった。
どす、と鈍い音を立てて松明のそばに突き立ったのは、一本の矢。
そこにいた死出虫を一瞬だけ蹴散らした矢は、遠い暗がりから飛ばされたもの。
「……心臓を寄こせって言うの」
その矢は、池のほとりに残った男たちが射たものだった。
心臓を入れた袋をくくりつけて射返せというのだろう。
無言の催促に、ナオは呆然と闇を見つめた。
「あたしに、ロウの心臓を抉り出せって言うの……?」
ロウは死んでしまった。
ナオを生かすために自身の胸を貫いて、息絶えた。
ナオの腕のなかで、血の気の失せた身体からゆっくりと熱が失われている。まるで死出虫がわずかに残る命の名残を喰っているかのように、ロウのぬくもりは抱きかかえるナオの腕をすり抜けて消えていく。
愛おしいこの亡骸を抱えてふたりきりになることさえ、ナオには許されない。
心臓を射返すまで男たちは去らないだろう。そもそも、ナオの力ではロウの身体を抱えて舟に引き上げることさえできない。
黄金の瞳にあふれた雫が、ナオの頬を伝って静かに落ちる。
「どうして、ふたりでいることさえ許されないの」
誰に向けるでもない問いかけが、静かに闇に吸い込まれる。
「どうして、あたしたちを放っておいてくれないの」
涙をこぼすナオの脳裏に浮かぶのは、ふたりで暮らした筏のうえの暮らし。
豊かではなかった。ひもじさなど数えきれないほどで、つらく苦しいことも多かった。
それでも、隣を見ればロウがいた。
振り向けばロウの笑顔があった。
だから、生きて来られた。
だから、ナオも笑っていられた。
陸地で暮らすことを許されなくとも、豊かな暮らしを手に入れられなくとも、ふたりで静かに暮らしていられたらそれで幸せだったのに。
「それさえも、許されないの……? ふたりで生きていくだけでいいのに……」
逃げ場のない絶望にナオの瞳から光が失われ、昏く、硬い感情に覆われた瞳が中空をさまよう。
そうしている間にも、死出虫がロウの身体に群がっていく。ぞろぞろとした足の感触がナオの身体を這いあがり、その腕のなかの大切なものを奪おうと数を増やしていく。
「……だったら」
もはや死出虫を払うことをやめたナオは、ロウの身体をいっそうきつく抱きしめた。
よろけながら立ち上がり、血に濡れてぬめる地面に足を取られながらも、彼女はずるずると這い進む。
ちゃぷ、と池に浸した足は、水の冷たさなど気にも留めず一歩、もう一歩と踏み出していく。
死出虫は水を嫌うのか、水のなかに引きずられていくロウの身体から散って、小島に残る。
ず、ず、と池の底の泥を踏みしめてナオが進むほどに、行き場を失った死出虫がロウの身体のうえを右往左往しては水に落ちた。
慌てたように水面を泳ぐ虫の姿にも、だんだんと薄まっていく死臭にも興味を示さずナオは進んで行く。
小柄な少女がずぶずぶと胸までつかるころには、水のなかにいるのはナオとロウのふたりきりになっていた。
「ロウ、これでふたりきりだよ」
抱えたロウの頭を愛おし気に覗き込み、ナオは自身の胸元に片手を伸ばす。
無造作に引き下ろされた服の胸元に現れたのは、肌を染める血。
オウシが塗りつけていった乾いた赤黒い血に、ロウから流れ出た暗くぬらつく血。
手のひらで池の水をすくい、自身の胸元にかけたナオは笑う。
「来なさいよ、死の国の生き物」
ひとすくいかければ、少女の足元の水がひたりと冷たくなった。
「この痣が、あんたたちを引き寄せるんでしょう?」
ひとすくいかければ、水を嫌がっていたはずの死出虫がナオの足元に湧いて裸足の指を這う。
「ほら、あたしはここにいるんだから」
痣を覆う血が洗い流されるほどに、水が冷たさを増して昏く渦を巻く。
ぴちゃり、ぴちゃりとすくい上げられた水が赤く流れて落ちるのは、島に突き立てられた松明の明かりに照らされているせいか。暗くぬめった水がナオとロウの周囲に腐臭を引き寄せる。
「ロウが死者の国に行くんなら、あたしも行く。あたしたちはもう、ぜったいに離れ離れになんかならないんだから」
ナオがそう言ったときには、ふたりの周囲を旋回する巨大なひれがひとつ、ふたつと水面に突き出していた。
時折、暗い水の静けさを突いて現れる異形の頭を見ても、ナオの心は恐怖を抱くことはない。
訃渦の姿を見て思い出すのは、樹海の奥で息絶えたであろう異形の男。
ナオを樹海に連れ去りはしたけれど、痛いことも酷いこともせず「いまはまだ呪いを解いてあげられない」という嘘を信じた愚かで優しい化け物の姿。
(どうせなら、あの異形の男も……サンギも連れて行ってあげられたら良かったのに)
自身の腕を、腕のなかのロウの身体を這いまわる死出虫が、あの化け物も死の国に連れて行ってくれただろうか、とナオは想いを馳せる。
「ロウ、ずっといっしょだから。ね」
静かにつぶやいたナオは、そっと瞳を閉じた。
黄金の瞳が閉ざされるのを待っていたかのように、大口を開けた訃渦がふたりに迫る。
押し寄せる波でその接近を感じながら、ナオはぎゅうと強くロウの身体を抱きしめた。
強く、強く。
死んでもなお、ふたりが引き裂かれることがないように。
(ずっと、ふたりでいよう)
身じろぎもせずその時を待つナオの身体に、訃渦の牙が迫る。
大きく開けられた口のその深い暗がりに少女の願いも祈りも、抱きしめた愛おしいひとのその身体さえもすべて吞み込んで、死の国の異形たちは姿を消した。
静けさを取り戻した池の小島では、静かに揺らめいていた松明が燃え落ちて、あたりは闇に包まれた。
~樹海の章 終~




