女王の思い、王子の思い
タハルが去って静まり返った邸に、その日オウシは戻って来なかった。
ナオは早々に警戒するのが馬鹿らしくなって、寝床にもぐる。部屋の四隅で黙り込む女たちは、海鳥でもいるのだと思うことにした。
ひとのいる筏にも平気で居座る海鳥は、構ったところでなんの得にもならないとナオは知っている。
夜明け前、湿った匂いに鼻をひくつかせたナオは、ふうっとはっきりした意識のなかで薄目を明けて窓を見る。
木の板のすき間に細く見える暗い空を、糸のような雨が音もなく落ちていく。
身体を起こさないまま、ナオはぼうっと空を見上げる。
(タハルの言ったとおりだ。雨の匂いなんてしなかったのに、どうしてわかったんだろ)
夜色の空を眺めていれば、だんだんと白んできて灰色になる。
雨は勢いこそないものの耐えることなく降り続き、じわじわと大気を冷やしていく。
昨日はうっとおしいと感じた部屋を照らす炎の熱を心地よく感じながら、ナオは起き上がった。
見計らったように、部屋のすみにいた女のひとりが動いて水を張った器を差し出す。
きょとん、としたナオが首をかしげれば「お顔をお清めください」と目線を合わせないままささやいた。
「……あの男は?」
水面をつつきながら訪ねても、女たちは答えない。
そこへ、入口の布をくぐって昨日オウシの名を呼んでいた年かさの女が現れた。
「あの方、とお呼びください。聖女さま」
「あたしはただのナオ。聖女なんていうのは、あの男が勝手に言ってるだけ」
むっとして言えば、女はナオの目をじっと見つめてふるりと首を横にふる。
「いいえ、太陽の輝きを宿したその瞳。そのような瞳を持つ方は先にもあとにも聖女さまただひとり。その瞳と癒しの御力があれば……」
こみあげる気持ちを抑えるようにうつむいた女に、ナオはきょとんと目を丸くした。きらりと光る金の瞳は神秘的だけれど、それを宿した少女の顔はひどく幼い。
「癒しの力ってなに?」
「お前、無能なの?」
言いながら、入口の布をばさりと鳴らして入ってきたのは色の白い女。長く伸ばした黒い髪にいくつもの飾りを挿し、毒々しいほどに赤く色づけられた唇が目を引く女だ。白い粉で塗り固められた顔からは、年齢がわからない。
豪奢な服を引きずる女の後ろには、オウシの姿もあった。
「女王! オウシさま!」
ふたりの姿を見て、部屋にいた女たちがすぐにひざまずいて頭を下げる。
ずかずかと入って来た女王と言われた女は、ナオのほほをつかんで乱暴に顔をあげさせた。
「いたっ」
「ふん、瞳はあの小娘そっくりね。顔かたちも気味が悪いほどよく似ていること。けれど肝心の力がないようでは、この小娘を娶ったところでお前に利は少ないわね」
ナオの全身をじろじろと見下ろした女王が吐き捨てると、オウシが慌てたように割って入る。
「母上、いまはまだ力に目覚めていないだけだ! ぼくと過ごし、落ち着いてくればかつてのように力を取り戻すに違いないんだ!」
(力ってなに。そんなのあたし知らないし、いらない。あんたと過ごしたくなんてないし)
今言うべきではないとわかっていて、ナオが胸のうちでぼやいたとき。
しゃん、と音を響かせて抜き取られたのは女王の髪飾り。女王の手に握られたそれが、オウシの肩越しにナオに迫る。
「いっ!」
「母上、なにを!」
切り裂かれたナオの頬から血が飛び散る。
驚いた表情のオウシが声を荒らげるのに、女王は涼しい顔を崩さない。
「あら、傷つけば力が発揮できるかと思ったのだけれど。遠慮しなくていいのよ? お前に癒しの力があるのなら、見せてごらんなさい」
「…………」
見せろと言われてもないものは無い。ナオの頬は血を流し、ぴりぴりと痛むけれど、それをどうすることもできない。
「母上! 彼女はまだ昨日、ぼくと再会したばかりなのです。いましばらくお待ちください。必ずや、あの奇跡の力を思い出させてみせますから」
ナオを背にかばい言い募るオウシに、女王は背を向けた。何枚も重ねられた衣の裾がひるがえり、部屋のすみの炎を揺らす。
「次の満月の日までに力が戻らなかったなら、お前は山向こうの国の姫と縁を結びなさい。まったく、お前のほうがタハルよりも見込みがあると思って異国の秘術を教えたというのに。半端な反魂など無為な時間でしかないわ」
ぼやいた女王が去るのを待って、オウシがナオに向き直る。
乾き始めた頬の血に口付けたオウシはナオに微笑みかける。
「案ずるな。母上はご自分が年を重ねたことで、焦っているのだ。次の王にふさわしいのが誰か、悩むことではないというのに」
笑ったオウシは、そばにいた女の腕をつかんで引き寄せた。
「きゃあ!」
「聖女の癒しの力は、本人には発揮されないと忘れてしまわれたのだ。さあ、今からこの娘を刻むから、癒やしてごらん」
「なに、を……」
軽い調子で言われたことばが理解できず、ナオは目を見開いた。
黄金の瞳をうっとりと見つめたオウシは、無造作に抜いた腰の剣を娘の腕に添える。
「ぼくと過ごしたころ、お前はそこいらの取るに足りない民たちを癒やして、癒やして、癒やして、そして死んだ。だからやり直すんだ」
すう、と肌を撫でた剣の形に、娘の肌に赤いものが浮かび上がる。
暴れれば切り刻まれるとわかっているのだろう。がたがたと震えながら涙を流す娘は、自由な片手で自分のくちを覆い隠して悲鳴を殺している。
「さあ、やってごらん。傷口に手を添えて、祈るんだ」
笑顔のオウシに促されて、ナオは首を横に振りながら後ずさる。
「無理、できない。あたし、そんな力なんて」
「大丈夫、失敗しても民はいくらでもいる。うまくいくまで付き合おう。はやく力を取り戻して、ぼくらのことを母上に認めてもらうんだ」
オウシの真っ黒な瞳が、ナオを映して昏く光る。
そこに宿るのは混じりけのない感情。かつてともにあった聖女が戻ってくると信じて疑わない純粋な瞳だ。
「ちがう……ちがう、だってあたしは聖女なんかじゃない」
「そんなことはない。お前はぼくの聖女だ」
ナオの胸の痣がちり、とうずく。
「ちがうの、だってあたしはあんたのことなんか知らない」
「いいや、知っているはずだ。今はただ思い出せないだけ」
痣がちりちりと痛んで、たまらず身体を丸めるナオをオウシが抱きしめる。
「ちがう、ちがうの……」
「怖がることはない、ぼくの聖女。お前はちゃんと僕の元へ帰ってきたじゃないか。その胸に刻んだ名前が何よりの証」
抱き込んだナオの耳元でささやいて、オウシは少女の薄い胸に指を這わせる。
「お前の名前をぼくの血で刻んだんだ。死の国になど奪われないようにその胸に刻んだんだ、チユ、と」
粘つく声が吹き込んだその名に、ナオは体を強張らせた。
聞いたこともない名前だ。それなのにナオの体は勝手に強張り、その名を拒絶しようとする。
「あたし、そんな名前じゃない! あたしはナオ、ナオなの。そう名付けられて、あたしはあたしになったんだから……!」
叫んで、ナオの意識は暗転した。




