大きな邸のなか、逃げ道は見つからない
オウシが馬から降りると、どこからともなく男が駆けてきて手綱を預かった。
降り方がわからないナオは難なくオウシに抱え上げられてしまい、地を蹴って逃げ出す隙を失う。
オウシの腕のなかでもがいた一瞬、ナオと目のあった男がぎょっとしたように目を見開いた。けれど男はすぐに顔をそらして、そそくさを馬を引いていく。
(これだけたくさんひとがいても、金の目は珍しいんだ)
その気づきはナオに落胆をもたらしはしない。
(やっぱりあたしの目は特別なんだね、ロウ。聖女だなんて勘違いされるのは迷惑だけど、この目があれば、どんなにたくさんのひとがいてもきっとロウにあたしを見つけてもらえる)
黄金の目を好きだと、特別だと言ってくれる彼を思い出しながら、ナオは逃げる隙がないかとあたりをうかがった。
木靴を脱ぎ捨てたオウシに抱えられて入った建物のなかは、ひやりとした空気に満ちて、静かだ。
静かだけれど、オウシの脱ぎ捨てた木靴を整える者がおり、靴を脱いだオウシの脚を拭く者がいる。長く続くうす暗い廊下を照らすためか、建物のなかにも関わらず火をつけた油の入った皿を手に控えている者がいる。
「オウシさま、お帰りなさいませ」
姿はあるのに誰もが黙りこくった空間で、オウシの前に立った年かさの女が頭を下げて静かな声を立てた。
「ぼくの部屋に湯を用意しろ」
「は。ただいま」
オウシの短い要求に頷いた女は、そばの壁際に控えていた若い娘に目くばせする。娘はこくりと頷いて、オウシが目の前を通り過ぎるなり音もなくどこかへ立ち去った。
静かな邸のなか、多くのひとびとが黙りこんで壁際に膝をついている。その前を悠々と横切るオウシの腕のなかで、ナオは油断なくあたりを伺う。
どこまでも続くように思える廊下は片側が壁、もう片側には等間隔に部屋があり出入口に布が下げられている。
今はまだ陽があり、なおかつ火を持ったものが先行しているためあたりを見通せるが、陽が落ちたならばすっかり暗くなってしまうだろう。
火を持つ者が通り過ぎたあとの部屋はずんと暗く、廊下の前後が薄闇に呑まれてしまう。
(これじゃ逃げ道が覚えられない)
オウシに抱えられた身体をできる限り彼から離しながらあたりを伺うナオの心に、焦燥がつのる。
行けども行けども同じような景色で、いっそ逃げ出すときは壁を壊して出るべきか、とナオが思い始めたころ。ようやく目的地についたらしく、先を行く火を持った女が足を止めた。
さきほどオウシに声をかけた女が、付き従ってきたオウシの後ろから出てきてそばにある部屋の入口にかかった布をめくる。
女へのねぎらいもなにもなく、オウシは部屋のなかに入った。
広い部屋のわりに窓がちいさく、そのうえ窓の外に板を立ててあるものだから外を見通すことはできない。
そのためずいぶんとうす暗い部屋のなかでは、陽が沈む前であるにもかかわらず、四隅に置かれた台座に立てられた木が燃えて、部屋を照らしている。
炎に照らされたその中央に降ろされたナオは、足元で浅く大きな器が湯気を立てているのを目にして、思わず後ずさる。
「なんだ? 逃げたところでお前の居場所はもう僕のそばだけだぞ」
胸にどん、とぶつかってきたナオを見下ろしたオウシは、さもあたり前のことを告げるように言った。
けれど、ナオの顔が蒼白になりつかんだ細い肩が震えているのに気づいて眉を寄せる。
「ちがう、だめなの。洗い流したらまたあれが、死の国の虫が……!」
「死出虫が?」
ナオのか細い声を聞いて、オウシは鼻を鳴らした。
ひょいと伸ばした手でナオの胸元をくつろげ、のぞいた赤黒い血の色を指でなぞる。
「なるほど、聖女の輝きを血でもって封じたか……この痣はお前が死の国に取り込まれないよう刻んだものだが、その肌を血で汚さねばならんのは気に食わないな」
ナオの肩から手を離し、オウシは服の裾をひるがえす。
「何かほかに方法がないか、母上に聞いてこよう。ぼくが戻るまでに、胸以外を洗っておけ」
言い捨てて立ち去るオウシを部屋のなかにいる者たちが頭を下げて見送った。
「…………では、湯が冷めないうちにお身体を」
言いながらナオに近づいたのは、オウシに声をかけた年かさの女だ。
けれど彼女の無機質な声は不意に途切れた。
「その目、黄金の瞳……! まさか、聖女さまが本当に……!?」
「あたしは聖女じゃない。ただのナオ」
驚きに見開かれた女の目を見上げて、ナオはむすりと不機嫌になる。
ナオの声の低さにはっとした女は、慌てて表情を取り繕った。
「ああ、いえ、申し訳ありません。そうですよね、聖女さまは十四年も前に……生きていらしたら、オウシさまと同じだけ年を重ねているはずなのですから」
自身に言い聞かせるようにつぶやいて寂しそうに微笑まれても、ナオには迷惑でしかない。
男たちが語る聖女も、目の前の女が語る聖女もナオには記憶にないのだ。
誰もがナオを聖女と言うけれど、ナオはただのナオでしかない。
「さあ、ナオさま。身体をきれいにしましょう。オウシさまが戻ってらっしゃる前に済ませなければ」
年かさの女が無理に明るい声をあげれば、部屋のすみに控えていた娘たちがナオの周りに寄ってきた。
それぞれがナオの腕や足に手をかけて服を脱がせようとするのを、ナオが振り払う。
「自分で脱ぐし、身体だって洗えるから。あたしのことは放っておいて!」
強い調子で言えば聞き入れてもらえるかもしれない、と考えたナオだったが、予想を裏切り女たちは止まらない。
「なりません。これは我々に与えられた仕事。こなせなければオウシさまより叱責を受けます」
叱責、と年かさの女は言ったけれど、あの男がそんな生やさしいことで済ますわけがない、とナオは黙って暴れるのをやめた。
おとなしくなったナオの服を手早く脱がせ、湯にひたした布で身体をぬぐった女たちは、美しい衣装を着せつけてそっと離れていく。
なかでも若いふたりが汚れた湯の入った器を抱えて退室すると、残りの女たちは部屋のすみに控えた。
大勢に囲まれながら、ナオはひとりきり沈黙に包まれる。
女たちが部屋のすみの暗がりに潜むなか、部屋の中央に取り残されたナオはつぶやいた。
「やっぱり、ひとなんてロウだけで十分だよ」




