終わりと邂逅、そして再びの別れ
ざんざんと木の葉を蹴散らして馬が樹海を駆ける。
行けども行けども景色が変わらないと嘆いていたナオは、濃い緑に満ちた空気がみるみるうちに薄まるのを感じて、暗い樹海の奥を振り返った。
(確かに、化け物のところから逃げ出そうと思ってたけど)
耳元を過ぎていく風の音に、うなり声を探してしまう自分に気が付いて、ナオは馬のたてがみを握る。
(あんな終わりを望んでなんか……)
最後に見たサンギの姿を思い出して、ナオは手のひらにぐっと力を込めた。
急に身体を強張らせたナオになにを思ったのか、後ろに座るオウシが機嫌よく笑い声を立てる。
陰鬱な樹海には不似合いな笑いだ。
「ははは! そう怯えるな。ぼくがお前を落とすわけがないだろう。これからはどこへ行くにもぼくが運んでやるから、馬の背にも慣れなければな!」
(あんたとなんか、どこにも行きたくない)
胸中で吐き捨てながらも、ナオは黙り込んでいた。
ナオが本心を表に出さなかったのは、斬り転がされたサンギの姿が脳裏にちらついたからだ。
傷ついて血を流すサンギを、オウシは容赦なく蹴りつけた。
あの殺意がいつ自分に向けられるかわからない以上、ナオは彼に下手なことを言う気はない。
サンギは見るからに化け物であったし、ナオを樹海に連れて来た張本人でもある。けれど、彼はワタツミのようにナオの自由を奪うことはなかったし、オウシのようにナオの話を聞かずに自分勝手に振舞うこともしなかった。
ただ『聖女、助けて。呪い解いて』とうったえながら、彼の住処でナオが暮らしていけるよう、精いっぱいあれこれと動き回ってくれていた。
サンギの元から逃げようとは思っていたけれど、彼を殺そうだなんてナオは考えたこともない。
(見るからに化け物だったサンギより、こいつらのほうがよっぽど)
思い出すのは女ののどを裂くと言いナオに枷をつけたワタツミと、笑いながらサンギを暗闇に蹴り落としたオウシの姿。
ひとの形をしていようとも、きれいな恰好をしてようとも、ひとをひととも思わない彼らの振る舞いのほうが、サンギよりもよほど化け物めいているように思えてならない、とナオは奥歯をかみしめる。
暗い目で馬の鼻先をにらみつけていたナオの目に、ふと木立ちの合間に立つひとの姿が映る。
空から差し込んだ光に照らされたそのひとの顔をとらえたナオの視線は、釘付けになった。
潮で荒れたざんばら髪。獲物を見据えるときは鋭く、自身に向けられたときにはとろける目。日に焼けた肌は変わらないけれど、すこし頬がこけただろうか。
もともと細身の身体がより鋭さを増したように、ナオには思えた。
「ロウ……?」
思わずその名をつぶやく。
馬で駆けてもまだしばらくある、それほどの距離でナオのつぶやきが届くはずがない。
けれど、相手もまた顔をあげて、真っすぐにナオを見つめている。その唇が形作るのは「ナオ」の二文字。
音を供わないその動きを、ナオの耳は確かに呼び声としてとらえる。
その瞬間、ナオはこらえきれずにその名を叫んだ。
「ロウ、ロウ、ロウ!」
ナオは馬上にいることも忘れて身を乗り出した。
風に髪をなぶられながら、転げ落ちそうになるナオの腹にオウシが慌てて腕をまわす。
「ナオ! ナオ、ナオ!!」
ロウもまた、自身に向けて駆けて来る馬など目に入らないかのように、ナオを目がけてまっすぐ走りだした。
馬の速度は落ちず、ロウのほうでも向かってくる。
見る間に縮まった距離で、久方ぶりに愛おしいそのひとを目の前にしたふたりは、互いに抱きしめ会おうと両手を広げる。
「落ちるぞ!」
「撥ねられる!」
馬の背から大きく身を乗りだしたナオをオウシが、馬の背にいるひとを抱き留めようと駆け寄るロウをアカがそれぞれ叱りつけ、首根っこを捕まえて引き戻す。
後ずさったロウの足の真横を馬の脚が力強く踏みしめ、けれどロウは腕を伸ばすことをやめない。
ナオもまた、引き戻されながらも精いっぱいに腕を伸ばし、ふたりの指先が触れたのは一瞬。
ちりっ、と肌にひりつく痛みを残して、触れた指先は引き離される。
舞いあがる木の葉にも構わず互いに瞬きも忘れて見つめあうナオとロウの間に、ぐんぐんと距離があいていく。
「ああっ」
遠ざかるロウの姿を見つめていたナオは、突然の光に目を焼かれてたまらず瞳を閉じた。
樹海を抜けたのだ。
朝の光が清廉にあたりを照らし出し、まばらな木立ちに囲まれた涼し気な山の姿が広がった。
敷き詰められた苔と木の葉が途切れ、馬の蹄が土を踏む音に変わる。
視界を遮る枝や滑りやすい苔、あちらこちらに出張った木の根がなくなった瞬間、オウシがひときわ強く馬の腹を蹴った。
ぐん、と速度を増した馬の背で、ナオは必死に後ろを振り向く。
すでにはるか後方となってしまった人影を見つめるナオの瞳に涙がにじむのは、久々の光に焼かれた目が痛むせいだけではない。
痛み、にじむ視界でナオは必死に目を開き続ける。
「ロウ、ロウ!」
伸ばした腕は届かない。
いっそ馬から転げ落ちてしまえ、と思うけれど、腹にまわったオウシの腕がそれを許さない。
「ナオ! ナオー!」
ロウもアカを振り切って全力で駆けるけれど、馬の脚にかなうはずもない。
髪を振り乱した彼の姿はすぐに見えなくなり、ナオの名を呼ぶ声もほどなく聞こえなくなった。
静かな山に響くのは、緩められた馬の足音だけ。
「ロウ……、ロウ……」
ぐすぐすと鼻をすすりながら名前を呼び続けるナオを抱え直して、オウシが口を開く。
「今日までの関わりなどすべて忘れろ。お前はもう、ぼくの聖女なのだ。その黄金の瞳に映していいのはぼくだけだ」
頭上から降って来た冷ややかな声に、ナオの目に再び涙がにじむ。
忘れたくない。忘れられるはずがない。
ナオの世界にはずっとロウだけだった。ロウだけがナオにとって大切なひとで、ロウがいればそれでナオの世界は満たされていた。
そんなひとを忘れられるわけがない。
こらえる気も起きない涙をぼろぼろとこぼし、ナオは声をあげて泣く。
静かな山のなか、悲しみに満ちた泣き声が長く長く尾を引いていた。




