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手を差し伸べたのは、ただの気まぐれ

 その夜、ナオが筏の端にひとりきりで座り込んでいた。


「ロウ、遅いなあ」


 暗い影をゆらめかせる海を眺めて、ナオはため息をつく。 

 今夜は雲が厚くて、月が見えない。星明りさえも頼りにならない夜は、海と空の境目が無くなったかのようにナオを不安な気持ちにさせた。


 ともに暮らすロウが日々捕っては干物にしている海の幸を背負って海辺の村に向かったのは、日が暮れる前だった。灰色の雲の向こうで夕焼けが最後の力を振り絞るように燃えているさなか、陸を目指して小舟を漕ぎ出すロウの背中を見送ったのだから。


 親もなく、陸地に住まう土地を与えられていないナオとロウであるから、村人たちからは避けられている。いびられることはないけれど積極的に関わることもしないため、物々交換もひっそりと人目につかない時間帯に行うのは仕方がない。


 けれど、狭い筏の上の小屋にひとり取り残されるこの時間が、ナオは物心ついたときから嫌いだった。

 「もう十四になるっていうのに、ナオは相変わらず怖がりだ」とロウに笑われても、嫌なものは嫌だった。


「ロウ、まだかなあ」


 海の上の筏で火を焚くわけにもいかず、ナオのつぶやきは暗い海に落ちて波に呑まれて消える。

 ふるり、とナオが薄い肩を震わせたとき、筏がぐわりと揺れた。


「波、出てきたな」


 嵐が来るからと、保存の効く食料を手に入れるため出かけたロウの観察眼は正しかった。さすがはロウだと誇らしい気持ちを抱きながらも、ナオの不安は波のうねりと共に膨れる。


「帰ってくるのが間に合わなかったら意味ないのに」


 もしもロウが戻って来なかったなら、嵐が去るまでのあいだナオは筏の小屋にひとりきりだ。

 筏は湾のなかにある岩に係留しているから、そうそう流されることもない。少なくとも、ナオの物心がついたころから一度も流されたことはない。

 食料だって、ひとりぶんならばなんとかなる。嵐が去って海に潜れるようになるまでは持つだろう。

 雨水を貯めてあるから、食べるものが無くなっても死にはしないはず。


「ロウ……」


 それでも不安はナオの心をぐらぐらと揺らす。

 ずっといっしょにいたロウがいないことが、たまらなく不安だった。


 赤ん坊だったナオがロウに拾われた十四年前からずっと、ナオはロウとふたりで暮らしてきた。

 暗い海が怖くても、高くうねる波が恐ろしくても、ロウに抱きしめられて「大丈夫だ、いっしょにいる」と耳元でささやいてもらえば、怖いことなんて何もなくなった。


 それなのに、今ここにはロウがいない。


「やっぱり、いっしょに行けば良かった……」


 ため息とともにつぶやいたナオだけれど、それはロウが許してくれないことをわかっていた。

 顔を隠す長い前髪をぐ、と引っ張って、苛立ち紛れにかき乱す。

 

 揺れる海を見下ろせば、乱れた黒髪のすき間から覗いた瞳が水面に映り、金色の光を波にはじかせた。


「なんだってこんな変な目の色なんだか」


 ロウは「きれいだ」と言ってくれるけれど。

 このおかしな瞳の色のせいで親に捨てられたのだと、ナオは気が付いている。

 ことばを交わすことはなくても、浜辺で見かける村人の誰もが黒い髪に黒い瞳をしているのだから。


「いっそ、泳いで……」


 陸に向かうための小舟はひとつきり。ロウが乗って行ってしまった今、陸に行くには海を泳ぐほかない。

 ならばいっそロウを探しに泳いで行ってしまおうか、とつぶやいたナオは、胸元を握りしめてうなだれた。


「無理、だよね」


 ナオのつぶやきを肯定するかのように、波が大きくうねる。

 ぐわん、と持ち上げられた筏に慌ててしがみつく。どっぽん、というひときわ大きな音に顔をあげたナオは、息を飲んだ。


 ナオの背後、陸とは反対の湾の外からいつの間にか、大きな船が迫ってきていた。

 湾曲した船首には十字の木が組まれ、そこに帆を張っていたのだろう。破れた布の残骸が闇夜に白くはためいている。

 ナオたちの筏とはくらべものにならないほど長かったのだろう船は半ばで折れ、残った部分もほとんど海中に呑まれかけている。

 沈みかけたせいで、残った船首が空にせり出し、余計に船を大きく見せていた。

 折れ残った船に腕を引っけるようにして、浮き沈みするひとの姿がある。意識がないのか、その身体は波の動きになすがまま揺られている。


「……ぶつかる、かな」


 助けよう、という考えはナオの頭には浮かばない。

 気にかかるのは自分たちの暮らす筏にぶつかるか否かだけだ。

 

 ナオたちが困っていたところで、助けてくれるひとは誰もいなかった。食料が無く飢えて死にそうになっても、衣服が乏しく凍えて死んでしまいそうになっても、誰かが手を差し伸べてくれることはなかった。

 助けてくれたのはいつだってロウだけだ。

 飢えたナオのため、どこからか食料を手に入れてきてくれたのもロウだった。凍えるナオを抱きしめて、互いの体温で冬を乗り越えたのもロウだった。

 だから、ナオが助けるのもロウだけだと決めていたのに。


「……金目のものがあるかも」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいたナオの脳裏には、たった一度だけ、ナオとロウを助けてくれた他人の姿が浮かんでいた。

 村のはずれに住む、赤毛の男に命を救われたことを思い出して、ナオは小屋に駆けこんで縄をひっつかんだ。


 とうとう降り始めた雨に舌打ちをしながら、ナオは縄の先端に巨大な貝の殻を結びつける。いつだったか、ロウが獲って来た大物だ。


「届けっ」


 激しい風と打ち付ける雨に負けないよう、力いっぱい投げた縄は、見事に沈みかけた船に届いた。

 船体にぶつかった拍子に貝が砕け、甲高い音を立てる。

 その音のせいか、あるいは偶然か。船体にしがみつく男の手がぴくりと動いた。


「つかまれ!」


 ナオの叫びが届いたのだろうか。

 波をかぶっていた男の腕がゆるゆると持ち上がり、縄に伸ばされる。


 暗がりのなか、男の手が縄をつかんだのかどうか、ナオには判別できない。

 けれどこれ以上、雨に打たれるわけにはいかないと、ナオは縄を引っ張った。


 ぐ、と手のなかで縄がこすれ、しっかりとした重みを伝えてくる。踏ん張った足が濡れた筏の上ですべる。

 それでもナオは歯を食いしばり、じりじりと縄を引き寄せていく。波なのか雨なのか、わからないしぶきを浴びながら、必死で縄を引いた。

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