穴の底にあったもの、少女の耳が捉えたもの
死者の国のように冷え切った穴の底で、その中央に横たわっていたのはひとりの少女。
いや、少女だったものだ。
氷でできた台座に寝かされた少女はすでに息絶えていた。ナオが松明の頼りない明かりでも、そう判断できたのは、少女の肌が冬の寒い朝に筏を染める雪よりも青白かったからだ。
触れればきっと氷のように硬く冷たいだろう肌に、長い黒髪がよく映える。
少女の髪は死後に誰かが丁寧に梳いて、整えたのだろう。横たわった頭部から周囲にきれいに広げられていた。死してなお艶を持った髪が、太陽の光のように少女の顔を囲っている。
「……この、顔」
ひとの死を見るのがはじめてのナオは、恐る恐る近づいて覗き込んだ少女の顔に、驚いた。
取り落としそうになった松明を強く握り、こくりと唾を飲み込んで額にかかる髪を払いのける。
「あたしと、同じ顔……」
氷の台座に眠る少女の顔に、ナオは見覚えがあった。
筏からのぞき込んだ凪いだ海の水面に、冬の日に凍った桶の水のうえに、ワタツミの島の泉の水面に、映し出された自分の顔に、そっくりだ。
ナオの髪は潮に焼けてうねり、手入れなど知らない肌も厳しい暮らしに荒れた手足も少女のものとは違うけれど、顔立ちはそっくりだった。
「この子が『聖女』?」
そうであるなら男たちの勘違いも理解できる、とナオはつぶやく。理解はできても迷惑なことに変わりはないが。
「誰がこんなところに置いたんだろ。ここにいるって教えたら、あの化け物あたしのこと忘れてくれないかな……」
少女の髪が美しく手入れされていることといい、その身にまとう衣の豪奢さといい、きっと金持ちの仕業に違いないと思いながらナオはぼやく。
化け物の元に少女の死体を運ぶ術はあるだろうか、と考えていたナオは、はっとして少女の胸元に手を伸ばした。
松明を持たない片手で、少女の胸元を暴く。
たっぷりと着せつけられた衣が邪魔でいけない。一枚ずつ胸元をくつろげるなどやっていられなくて、ナオは焦りと苛立ち紛れに少女の衣を一気に引き下げた。
「ああ……」
露わになった白い胸元の、双丘の間。
そこに見覚えのある痣を見つけて、ナオはうめいた。
同じものがナオの胸にもある。
ナオの痣は引き攣れた傷跡のように赤黒く、少女の痣は刻み付けた血が変色して黒くなっているけれど、その形も痣の位置もまるっきり同じだ。
「こんな偶然……」
驚きと不気味さを感じながら、ナオの手が少女の胸元の痣へと伸びる。
無意識に伸ばした指がその痣に触れた瞬間、ナオの目の前が真っ暗になった。
なに、と驚きの声をあげる間もなく、暗がりに慟哭が響き渡る。
『ああ、ああ、ああ! どうして目覚めない、どうして起きない、聖女よ!』
耳が捕えるのではない、頭のなかに投げ込まれたような声に、ナオは覚えがあった。
化け物だ。サンギの声が、深い嘆きを持って響いている。
『私はあなたのために身体を張った! あなたの死が穢されないように、訃渦を切った! そのためにこの身は呪われ、ひとの世に暮らせなくなったのだ』
ナオが知るよりもずいぶんと流暢なサンギの声は続ける。
『目覚めてくれ、聖女よ。あなたの力で呪われたこの身を癒やしてくれ。女王にも王子にも、女王の薬師にも手の施しようがないと言われてしまったこの身を癒やせるのは、もはやあなただけなのだ!』
悲痛な叫びはいくつも続き、訴える内容はどれも呪いを解いてくれ、というものだった。
けれどそれを伝えることばは段々と拙くなる。
『聖女、目覚めて。わたしを、サンギを助けて。呪いを解いて』
『聖女、サンギ、助けて』
『サンギ、聖女、待つ……ずっと、待つ……』
『う、うおぉお……おおぅぅうう……』
それは、死した少女の耳が捕えた過去なのだろうか。
やがて獣のすすり泣くような声を残して声は途切れた。
聞き慣れてきたサンギの唸り声の余韻にナオが自身の感情を持て余したとき。
知らない声がナオの耳をざらりと撫でた。
「はやく生まれてこい」
それはささやきだった。
愛おしさを込めて、好いた相手の耳元に吹き込むようなささやき。
「さあ、もう一度この手のなかに生まれてこい」
それはまるで獲物を前にした獣が舌なめずりをするように、確定した未来を愛でるような響きのこもった声。
あまりにも混じりけのない濃い思いが、ナオの肌を粟立たせる。
「もう一度、生まれてこい。この腕でお前を抱きしめてやろう」
暗がりのなか、粘つくような絡めとるような声が頭のなかに吹き込まれ、ナオは身動きが取れない。身じろげば飛びかかられる、と身体を固まらせる被食者のように、息を詰める。
聞こえないはずの自分の心臓がどくんどくんと耳元で鳴っているようで、声の主に聞き咎められるのではないかと恐ろしくなって、ナオの心臓はますます暴れる。
(どうか、どうか……!)
去ってくれ、気づかずに消えてくれと祈りながら、ナオは息を殺した。
どれほどの時間が経ったのか。
ふと、自らのまぶたが動くことに気が付いて、ナオは目を開けた。
ひどく暗い。
瞬きをくり返しても何も見えない視界に、自分が未だあの恐ろしい声のする暗がりにいるのかと、ナオが震えた。
そのとき。
ずきり、と胸の痣が疼く。
はっとしたナオは自分の脚の裏が地面を踏みしめていることに気が付いた。
身体は氷のように冷え切ってはいるけれど、自分の意志で動かせる。
気が付いた途端、ナオは暗がりのなか闇雲に手を伸ばし駆け出していた。
(なにあれなにあれ、なにあれ!)
ずきずきと疼く痣に手のひらを押し付けて、ナオは逃げ出す。冷えて軋む身体を無理に動かして、真っ暗な穴を這い登る。
(寒い。寒い。寒いのに、汗が止まらない)
焦燥で詰まってしまいそうな呼吸を必死に繰り返し、息を乱し穴の出口に明かりを見たナオは、ほっとした。
松明はとうに燃え尽き、どこかに落としてしまったのだろう。
そんなことにようやく気が付く余裕を持てたとき、ナオの耳が木の葉を踏み鳴らす足音を捉えた。
(サンギが戻ってきた?)
ぎくり、と足を止めたナオは、穴から出した顔を空に向けた。けれど樹海の空は鬱蒼としげる木の葉に覆い隠されてうす暗いばかりで、時間の経過がわからない。
(隠れていれば見つからないかも)
もしも足音の主が化け物であったなら、穴のなかでやり過ごしてそのまま逃げよう。そう決めたナオが見通しの悪い視界に見たのは、木の葉を蹴る四つ脚。
(ああ、サンギじゃない)
あの異形の化け物はひとの手足を持っていた、とナオは肩の力を抜いた。
けれど、近づいてくる四つ脚のうえに跨る人影を見つけて、ナオの細い肩は再び緊張する。
ナオが動けずにいる間にも四つ脚の獣、馬に乗った人物はずんずんと迫り、そして相手もナオを見つけたのだろう。
大きく見開いた目をうっとりと細め、馬上のそのひとはナオを見つめて言った。
「……ああ、待ち侘びたぞ。ぼくの聖女」




