風の鳴く森、少女と異形
おおぉん……おおぉぉん……。
(風の、鳴く音……?)
物悲しく尾を引く音に鼓膜を揺すられて、ナオの意識が浮上する。
湿っぽい匂いにひくつかせた鼻が、馴染みのない香りをとらえて警戒心を揺り起した。ぼんやりとしていたナオの意識がはっきりと目覚める。
まぶたが潮でひりつくのを感じながら、ナオはまばたきを繰り返した。
仰向けに寝ていることは、体感でわかる。けれど、あたりを見通すことのできない暗さに戸惑う。
「暗い……けど、息ができる……海のなかじゃ、ない?」
つぶやいた自分の声を耳で拾い、ナオの手が胸元をさぐる。びちゃり、と濡れた感触に目を向ければ、生乾きの血が胸元を汚している。
けれどその手に硬い物は触れず、もうあの首飾りはないのだ、と確かめたナオはゆっくり身体を起こした。
がさがさと音を立てて、身体にかかっていた木の葉が落ちる。
ナオの身動ぎに合わせて落ちた木の葉は、地面を覆う葉にまじって見分けがつかなくなる。
身体を起こそうと手をつけば、地面に敷き詰められた木の葉が、じっとりと手のひらに貼りついた。
「……なにこれ」
ナオは持ち上げた手のひらを見つめて、茶色く朽ちかけた木の葉に首をかしげた。
海しか知らずに育った彼女は、葉が朽ちてやがて土へと変わることを知らない。ワタツミの島を存分に見てまわれば知ることができたかもしれないが、あの島でのナオは身動きも喋ることも許されない人形であった。
「葉っぱ。木がいっぱい。夜……じゃないのに暗いな」
見上げた先には枝葉がうっそうと生い茂り、明るい空を覆い隠している。
わずかなすき間からうかがえる光の粒が、辛うじていまが日中であると伝えていた。
日が出ていようとも、射しこまなければ恩恵にはあずかれない。
木々に覆われた地面に座り込むナオは、ぶるりと身体を震わせた。
「さむ」
濡れたままの衣が冷えて、身体の熱を奪っていく。
訃渦に襲われた夜からどれだけの時間が経ったのか、冷え切ったナオの指先は血の気を失って青白く、腕と言わず脚と言わず全身がぶるぶると震えていた。
「葉っぱ、着てれば寒くないのかな」
先ほどまで自分の身体を覆っていた木の葉をかき集めて、脚に腹にかけていく。背中を丸めてちいさくなり、肩まで葉っぱに埋もれたところでようやくナオは息をついた。
「ここ、どこだろ」
海で意識を失ってから今まで、何があったのかナオの記憶にない。
けれど意識を失う寸前に見たものをナオは覚えていた。
「何か、化け物がきて、あたしのこと聖女、って……」
聖女。耳慣れないそのことばをワタツミも言っていたと、ナオは思い出す。
金の瞳が聖女のそれだと、ワタツミは告げた。
そしてナオを見た化け物もまた『聖女』と言っていた。
「迷惑。人違いなのに」
二度も面倒に巻き込まれたせいで、ナオのなかで『聖女』ということばが嫌いなものに分類される。
(聖女と間違われたせいでロウと引き離された。聖女なんて知らないのに、ほんと迷惑)
むすりとしたナオは、ふと、目覚めるときに聞いた音が近づいているのを感じた。
「おぉん……おおおぉぉん……」
「風の音、じゃない……?」
遠く、梢に反響していたときにはわからなかったけれど、よく聞けばそれは何かの鳴き声だ。
けれど、鹿の鳴き声ではない。鳥にしては野太い。
「なに……」
耳を傾けているうちにもどんどんと近づいてくる鳴き声に、ナオは逃げようと脚に力を入れた。
(でも、どっちに? どっちから声がする? 響いてわからない。どっちが海に近い? どこに行けばロウに会える?)
焦る気持ちで暗い森の四方に目をやるナオは、行くべき先を決められない。
(ロウ、ロウ、ロウ……)
常人が神仏に祈るように、ナオは愛おしいそのひとの名を心で唱える。
「ロウ、あたしどうしたら……!」
いよいよ近づいた鳴き声につぶやいたとき。
ガサガサ、と木の葉がざわめき、ナオの背中が総毛だった。
「っ誰!」
「おおおぉぉぉ!」
勢いよく振り向いたナオの鼻先に、飛び降りてきたのは鳴き声の主。
ひとの四肢に訃渦めいた頭を持った異形が、黒々とした左右の瞳にナオを映してにたりと笑った。
ひとであれば、耳の位置まで裂けるような大口。耳があるべき場所にはかすかな穴があるだけで、耳朶はおろか、頭髪も眉もない。
開かれた口のなかで鈍くぬらつく鋸のような歯の向こうから、生臭い息が漏れてナオの頬をかすめる。
「……あたしを食べるの」
『食べない』
ナオのつぶやきに返ったのは「うおぉ」といううめき声。異形ののどから発されたそれは、けれどナオの頭のなかでことばを形作る。
慣れない感覚に眉を寄せるナオに、異形が触れるほど顔を近づけた。
『聖女、呪いを解いて。聖女の力で呪いを解いて』
ナオの頭のなかに入り込んでことばになる音は、風が鳴くように寂し気で、どこか怖気を誘う。
間近で聞かされたナオはたまらない生臭さに顔をそむけながらも、必死に頭を働かせた。
「……今は、無理。あたしは弱ってるの。まだ、待ってほしい」
時間が必要だった。
逃げるにしても、体力を回復しなければならない。
向かう先を決めるために、周囲を探らなければならない。
そのためにナオは嘘をついた。
異形の要求を飲むように見せかけて、時間を稼ぐ。
(聖女の力って、なに。そんなの知らない)
焦りを胸の底に押し込めて、ナオは横目で異形の瞳を見つめ返す。
顔の左右についた真っ黒な瞳が、黄金の視線を受けてぐりぐりと動いた。
考えているようにも、戸惑っているようにも見える。ひとの顔をしていないせいで、そこにある感情をナオが読むことはできない。
『聖女、約束。サンギと約束。呪い、解く』
「……わかった」
サンギ、と自身を呼んだ異形のことばに、ナオはかすかにうなずいた。
呪いとは何なのか。聖女の力とはいったい。
何ひとつわからないなかで、ナオの心にはっきりと浮かんでいたのは愛おしいそのひとの姿だけ。
愛おしい声に名を呼ばれたい。
やさしいその手で触れられたい。
落ち着く腕に包まれて眠りたい。
そのためにはロウを探し出すか、ロウに見つけてもらうしかない。
島に囚われていたときであれば、ゆるやかな死を以て死の国での再会しか選べなかった。
けれど今のナオを戒めるものは無い。
ならば、ナオが求めるのは『ロウに会う』それだけだ。
目的のためならば、死の国のものであろうと異形であろうと利用してやろうと、少女は決意をしていた。




