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聖女の生まれ変わりだと言われても、自覚も能力もない少女には迷惑でしかない  作者: exa(疋田あたる)
海原の章

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少女は去り、女の願いは叶えられる

 ナオの背を押した女の指は、がたがたと震えていた。

 少女の心を思ってやったこととはいえ、ひとの命を奪う行為は女にとって重すぎた。


 背を押すために伸ばされた腕がおろされるよりはやく、少女の姿は波に呑まれて消える。


 あまりにもあっけない命の終わり。

 抵抗も、もがくこともせず沈んだ少女の最期の静けさを打ち壊すように、ナムラの笑い声がはじけた。


「あはっ! あははははははは! これでワタツミさまはわたくしを見てくれる! ワタツミさまがわたくしだけを見てくれるわ!」


 常軌を逸した哄笑に、ナムラに連れられてきた男たちが居心地悪げに視線を交わす。

 ナムラの里から供として来ていた男たちは、里のためになるならばと言われるまま行動したことを悔いていた。


 けれどすべてはもう遅い。

 

 ナオは沈み、ひとの手の届かないところへ行ってしまった。

 ロウに会えずに生きるくらいなら、死者の国でロウを待とうと心に決め、もがきもせず沈んでいった。


 そうしてすべてが終わるかに思われた、そのとき。

 海がぬらりと粘度を増し、骨の髄まで凍らせんばかりに冷たくなった。

 舟のうえのひとびとには感じられない変化は、ナオの消えた海を見つめていた世話女の肌を粟立たせる。


「海が……?」


 その瞬間に、濡れたナオの身体から血の覆いが落ちたのだ、と気が付いた者はいただろうか。

 暗さを増した海に渦潮以外の動きが起き、小舟が揺すられる。


「なによ、あれ……!」


 悲鳴のように叫んだナムラの視線の先には、渦潮に添うように、小舟をも取り囲んで回遊する巨大なひれがあった。

 月明りにぬらつく暗い色のひれは、渦を助長するようにぐるぐると泳ぎながら、弄ぶように小舟にぶつかってくる。


 ごつ、ごつと鈍い音がするたび大きく揺れる小舟のふちにしがみついた男のひとりが、呆然とつぶやく。


訃渦(フカ)だ……」


 死者の国の生き物が現れたと知って、舟のうえの人々が血の気を失ったとき、海のなかでも動きがあった。


 身体をなぶる波がぐっと冷え、フカが来たのだ、と気づいたナオはぼんやりと目を開ける。


(渦、渦、お願い。あいつらに食われないように、あたしを海の底まで連れて行って)


 願いとともに肺のなかの空気をこぽりと漏らしたナオだったが、開いた視界にとらえた異形に驚き、目を見開いた。


 回遊する訃渦に混じって泳ぐのは、訃渦とよく似た鋭い牙を持つ異形。頭部は訃渦のそれでありながら、首から下はひとのように手足を持ち、特徴的な背びれが見当たらないそれは、まさしく異形だった。


 海底から湧くように増える訃渦の群れをかいくぐって、異形がナオに近寄ってくる。

 渦を巻く潮の流れに逆らい泳ぐ異形は、異様な頭部についた真っ黒な瞳にナオを映して牙がずらりと並ぶくちを動かした。


『聖女。聖女だ。これで呪いが……』


 海中であるにも関わらず、ナオは異形のことばを脳裏に聞き取りながら意識が遠のくのを感じていた。

 ぐったりと力を失った身体を抱きしめて、異形が水を蹴る。


 その背を追うのは数頭の訃渦だ。

 はるばる地の底からやってきて獲物を奪われたことに怒る訃渦が、矢のように水を裂いて異形に肉薄する。 


 振り返りもせずそれを察知したのか、異形は潮の流れを読み、小柄な体躯を生かして流れに乗った。

 一頭の訃渦が怒りに任せて振りたくった牙が、異形の腹をかすめる。

 ぱっと海中を赤く染めた血で視界が乱れたその瞬間を逃さず、ひとよりも達者な泳ぎに海流を味方につけた異形は、ぐんぐん速度を増して遠ざかる。

 暗い海のなかの静かな攻防は、異形が逃げ切ることで決着がついた。


 大部分の訃渦はナオを見失うと同時に暗い海の底へ帰って行ったが、苛立ちの収まらない数頭は別の獲物に目をつける。


 渦潮のそば、波間に揺れる小舟の影だ。


 長年、求めてきた獲物を手に入れ損ねた腹いせにか、一匹の訃渦がナムラたちの乗る舟を襲った。


「きゃあああ!」

「うわ、やめてくれ! うわあ!」


 ナムラや男たちが叫び声をあげる余裕があったのは、舟から放り出されるまでだ。

 訃渦の大口に食らいつかれた舟はいとも容易く砕け、すがるひとびとをあっさりと大海に放り出す。


 落ちた先でひとりの男が渦潮に呑まれて、姿を消した。かと思えば、訃渦に突き上げられて男の身体が海中から夜空へ舞う。

 大型の獣に突き上げられた細身の男の腰は、おかしな方向へ折れ曲がっている。折れた骨に内側から破られた皮膚が血をこぼし、暗い海をなお暗く染める。


「ひっ、ひいぃぃぃ! いやだ、死にたくねえ!」


 叫び、海上でもがくように陸を目指した小柄な男が不意に目を見開いて黙り込む。

 一瞬の間をおいて男の周囲が暗さを増したのは、食いちぎられた両脚から噴き出たものが海を染めたからだった。


「ああ……」


 世話女は男たちのうめきを聞きながら、目を閉じる。

 これもナオを突き落としたせいだ、と受け入れた彼女は、せめて少女の望みが叶いますように、と願いながら静かに波間にたゆたった。


 そのそばで、ナムラは必死にもがいていた。


「助けなさい! はやく、わたくしを陸に! 誰か、助け、助けて……!」


 恐怖に身体を固くしなかば溺れかけながらもがく彼女は、何枚も重ねた衣が水を吸い、重たくて満足に泳ぐこともできずにいた。


 助けろと叫ぶ相手はすでに意識を無くし、そうでなかったとしてもこの状況で彼女の命を救おうと動く者を持たないことを、ナムラはまだ理解していない。


「助け、ひっ、ひいぃっ!」


 水に落ちた羽虫のように無様にもがく彼女の脚を、訃渦の鼻面がなぶる。

 訃渦にしてみればわずかにかすめた程度の接触は、けれど大きさの違う生き物に対しては脅威となり得た。


「いやあ、いやああ!」


 重たい衝撃にナムラの脚がいよいよ思うように動かなくなる。

 そこへ、男の脚を食った訃渦が戯れに海面に顔を出し、大口を開けて近づいた。


「あ……あ……」


 大きく開いた口の中、肉を裂き食いちぎるための鋭い牙の群れがびっしりと並んでいる。徐々に近づいてくる歯の先端がぎざぎざと歪な鋭さを持っていることなど、ナムラは知りたくなかった。

 開かれた口の黒々とした闇をナムラの目に焼き付けんとするかのように、訃渦がことさらゆっくりと彼女に迫る。


 その顎がナムラに覆いかぶさり、彼女の身体に暗い影を落としたとき。


「おい! お前ら大丈夫か!」


 夜闇を裂く声とともに、かざされた松明が水面を照らした。

 赤々と燃える火に目を焼かれ、ナムラを食らわんとしていた訃渦が慌てて深くもぐる。


 そこへ滑るようにやってきたのは、近くの島で暮らす男たちの船だった。


「渦の巻くあたりに火が見えるってんで来てみりゃあ……何があった!」

「あ……舟が、転覆してしまって……」


 漕ぎ手のひとりの呼びかけに、答えられたのは世話女ひとりきり。

 茫然自失のナムラは血の気の失せた顔で波にたゆたい、血を流す男たちの意識はない。


「話を聞くのは後だ、後! とにかく引きあげるぞ!」

「おう!」


 男たちの威勢の良い声とともに、ナムラ、女、そして男たちが船の上に引きあげられる。


 異様な不穏さに満ちていた海はいつの間にか波が凪ぎ、雲間から抜けた月の明かりをゆらゆらとあやすような、穏やかな様相を取り戻していた。


 命からがら逃げ出した一行は、死者こそ出なかったものの無事と言えるのは世話女だけであった。


 男たちは訃渦に負わされた傷のために寝たきりになり、虫の息。ナムラはあまりの恐怖にか抜け殻のようになり、手を引かれれば歩き、さじを押し当てられれば物を食べるという有様。


 唯一、無事だった世話女はナオの髪の毛の絡まった首飾りを抱きしめて、ワタツミに報告をした。


「金の瞳の方は、死者の国へと連れ去られました」


 それを聞いたワタツミが、なにを思ったか。それは彼にしかわからない。


 ただ、ワタツミは抜け殻となったナムラを着飾り、己の横に据えて妻とした。

 喋らず、逆らわず、美しい妻を彼はそれはそれは大切に扱ったという。


〜海原の章 終〜

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