女は怒りに身を任せ、少女は波に身を任せ
ワタツミは、世話女が用意した薄い粥をナオのくちにさじで押し込み、汚れた身体を拭わせる間に、新しい衣を選んでいた。
ナオの世話をかいがいしく焼くワタツミの姿を見ていられないとばかりに、ナムラは小屋を出て行く。肩を怒らせたナムラは、そのまま船に乗って島を離れたらしい。
静かになった小屋のなかに、機嫌の良いワタツミの声と、立ち働く世話女の足音が満ちる。
けれど、ナオにはどれもがどうでもよかった。
身体を抱えられていることも、服をはだけさせられていることも、押し込まれる食べ物も。
どれも、与えてくれるのがロウではないことが、ただ、悲しくて、ナオは静かにまぶたを下ろした。
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その夜、ワタツミの去った島の岩場に一隻の船がすべりこんだ。
這うようにやってきた船から降りたのは、三人の人影。
人影は、陽も暮れて月も雲をかぶりわずかな濃淡を残して闇に沈んだ島を迷いなく進む。
ひとりが衣のすそをひらひらと泳がせながら小屋に向かう後ろを、残りのふたりが足音もなくついていく。
さらり、とかすかな衣擦れを耳にした世話女が寝ていた身体を起こしたとき、三つの人影は小屋のなかに入り込んでいた。
「ナムラさま!? なにを!」
叫んで飛び起きようとした世話女に、がっちりとした小柄な男が馬乗りになり縄をかける。
もうひとり、細身の男がナオの手を後ろ手に縛った。男たちは同様に女とナオの足首にも縄を巻き付けていく。
あっという間に身体の自由を奪われ、芋虫のように転がされた女とナオを見下ろして、ナムラがせせら笑った。
「なにを、と聞くの? わからないかしら」
男に無理に引き立たせられた世話女が、髪を振り乱して抵抗しながら叫ぶ。
「このようなことをしても、島長には無意味です!」
「だまりなさいっ!」
女のことばに、ナムラの顔から作り笑顔が消えた。
目をつりあげ、眉を怒らせたナムラは、下唇をぎりぎりと噛みしめる。
「あの方がわたくしを見ないのは、お前がいるからよ! わたくしは、あの方の妻なのに!」
噛み破ったナムラの唇から、血がこぼれる。
夜闇のなかでもぬらぬらと赤く映えるその色は、苛烈な怒りにかられるナムラに良く似合っていた。
(ああ、血だ。痣は、隠れてるかな……あたし、ロウに会えるかな……)
細身の男に抱え上げられながら、ナオはぼうっと考える。
意識があやふやになってきたナオの記憶にはなかったが、その胸の痣はしっかりと隠されていた。死を引き寄せる痣を赤黒く隠すのは、ワタツミが獲って来た鳥の血だ。
身体をきれいに拭き清め、痣を鳥の血で覆い隠したナオがまとうのは、ワタツミが選んだ服。
念入りにほぐした麻を草木で色づけて、美しい模様を描くよう織り上げた華やかな品は、若々しい娘であるナオを衰弱してなお、美しく見せた。
「……その服も、その飾りも、あの方の視線もことばも心も! わたくしのものなのに!」
ナオが美しいほど、ナムラの感情はかき乱される。
少女のか細さに戸惑った男が丁寧に抱き上げていることがまた、ナムラの神経を逆なでた。
「お前、目障りなのよ!」
ぱん、と叩かれた頬がじわりと熱くなって、ナオはゆるりと視線を上げる。
「…………」
呪いの首飾りにことばを奪われ、無気力に景色を映すナオの目に、ナムラは何を見たのか。
鈍く黄金に輝くナオの瞳に映されたナムラは、思わず後ずさりながらも気丈に振舞った。
「ふん、そんな目で見ても無駄よ」
吐き捨てるように言って、ナムラは小屋を出る。男たちはそれぞれにナオと世話女を抱えて、引きずるように着いて行く。
「どこへ連れて行こうというのです。ワタツミさまが知ったら、ただでは済みませんよ!」
ワタツミの無慈悲を知っている世話女が、不自由な脚で踏ん張りながら叫ぶのに、ナムラは嗤う。
「いいえ。ワタツミさまの隣にわたくしが立って、あるべき形に落ち着くだけよ。なんの問題もないわ」
言い争ううちに、一行は岩場に着いた。
ナオと世話女はそろって小舟に乗せられ、男たちが舟をこぎ出す。人目につかないためにだろう、低く固定された松明が、頼りなく水面を照らしている。
(ああ、潮風が気持ちいい。島を出られたんだ。ロウはいま、どこにいるんだろう)
島を出られたことを喜ぶナオのとなりで、世話女が顔を青ざめさせた。
「こんな渦の巻く時間に島を出るなんて!」
暗い海の波は不規則に寄せてはうねり、動きが見えない。
ただでさえ座礁の危険のある暗さに加えて、渦潮の発生する時間に舟を出すことに、世話女は怯えて震える。
けれどナムラはその怯えを鼻で笑った。
「ええ、そうよ。お前たちを地の底に送るのだもの。渦が出ていなければ意味がないわ」
言って、ナムラは世話女に問いかける。
「あなた、聞いたところによるとワタツミさまの血縁だそうね? わたくしも、血縁を喜んで殺すほど鬼ではないわ。その娘を海に突き落としてくれたなら、あなたの命は助けてあげる」
その発言がすでに鬼のそれだと、世話女は震えた。
けれど頭のなかでナオを突き飛ばす自分を思い描いてしまったことに気が付いて、女の震えが大きくなる。
「…………」
悩む女の視線をよそに、ナオがふらりと身体を起こした。
暴れる気か、と伸ばされた細身の男の腕をすり抜け、ナオは舟のふちに立つ。
ナオの身体に染み付いた波の揺れに対する適応は、弱っていてさえも損なわれない。むしろ、陸にいるときよりもしっかりと立っているようだった。
舟は、いつしか止まっていた。
暗い流れに目を凝らせば、不気味に渦を巻く潮がかすかな月明りに照らし出される。
(あれが渦潮。血の底にある、死の国につながる場所)
多くのひとの目に恐怖を抱かせる暗い渦は、ナオには希望への入り口に見えていた。
静かに渦を巻く潮の流れを見つめる金の瞳に恐れはない。
その横顔を見た世話女は、震えながらも唇を噛み締めた。
「……縄を、ほどいてください」
ちいさな声ににじむ暗い決意に、ナムラがほくそ笑む。
黙って顔を見合わせたふたりの男だったが、視線でやりとりをして小柄なほうが女に手を伸ばした。細身の男はナオの背を見つめる。不審な動きをしないように見張っているのだろうか、けれど男の視線にあるのは、ナオへの憐れみとかすかな怯えだ。
「ナオさま……」
縄を解かれた女が立ち上がり、ナオの背後に立つ。
名を呼ばれてわずかに振り向いたナオは、笑った。
『これでロウに会える』
音にならないことばをつむぐ唇と、花開くようなナオの笑顔に胸をえぐられながら、世話女は両手を伸ばした。
背を押すために伸ばした手で、ナオを戒める首飾りをむしり取る。
そうして、女はナオの背を押した。
強く、遠くへ押し出す手に逆らわず、ナオは舟のふちから飛んだ。
みるみるうちに迫りくる水面の暗さにも、ナオの笑顔は損なわれない。
冷たい海に触れる寸前、ナオはちいさくつぶやいた。
「ロウ、今行くね」
かすかなささやきを捉えた直後、ナオの身体はどぼん、と海に沈む。
音がした瞬間に、ひときわ大きくうねった波が松明の火を消し、あたりが暗闇に包まれた。
(そういえばあの首飾り、血縁にしか取れないとか言ってたっけ……)
渦を巻く波に引きずり込まれながら、ナオはぼんやりとそんなことを思い出す。
けれど、それももはやどうでも良いこと、と力の抜けた身体を波に任せた。
海上に残された人々の胸中とは裏腹に、沈みゆく少女の心は凪いでいた。




