待ちわびる相手は来ず、少女はか細く息をする
細い指先に傷口を抉られて、女の身体が跳ねる。
「ぎゃあ!」
悲鳴がすぐそばであがっているというのに、ナオは視線のひとつも向けずに指についた女の血を自身の胸に塗りつける。
(隠さなきゃ。痣を隠さなきゃ。死ぬ前に地の底のものに食われたら、死者の国にも行けないかもしれない!)
一心不乱に胸の痣を隠すナオから這って逃げた女は、部屋の壁に背中を貼り付けて、再び血を流しだした腕を抱きしめて震えていた。
顔を青ざめさせた女の見開かれた目は、肉食獣におびえる小動物のようにナオを映している。その目に宿る感情は、嫌悪、怨恨、恐怖。
そこに、生まれつつあった親しみは、かけらも残っていなかった。
けれどナオは一向に気にすることなく、胸の痣を隠す。
(ロウ、ロウ、あたし、ちゃんと死ぬから。死んで、そうして死者の国へ向かうから)
声にならない声でロウの名を呼びながら、やがてすっかり隠れた痣に満足したナオは、床にうずくまり丸まって眠りについた。
服もまとわず、手近にあった布でわずかに身体を隠して眠るナオを月明りが照らす。
女の心中とは裏腹に、静かな夜は過ぎていく。
翌朝、ほとんど眠れずに過ごした女はナオに声をかけることなく小屋を出た。
いつもどおりに食事を作り、ナオの前に置く。
けれどいつもであればナオの髪を梳く手はナオに触れることをしなかった。用意した服をナオに着せつけることもなく、ただナオのそばに置くばかり。
食事と服の用意が済むと、女は仕事は終わったとばかりに小屋の隅に控えて黙り込む。
「…………」
「…………」
声を奪われたナオと、声をかけることをやめた女だけの小屋は、ひどく静かだ。
波の音が遠くにさざめき、海鳥の声が風に乗って響き渡る。
小屋に射しこむ陽の光はやわらかく、島ののどかさをうかがわせた。
だというのに、小屋のなかを占めるのは寒々しい空気。
けれどロウを渇望するナオには、ひとかけらの影響すら与えない。
「…………」
「…………」
ナオと女の間に空いた距離は、埋まることなく、日々は過ぎた。
眠れぬ夜と、ナムラの罵りを浴びるばかりの昼を何度か過ごすうち、ナオの身体は弱って行った。
女がナオの世話を焼くのをやめたことも、ナオの衰弱を加速させた。
それでもナオは食事を摂らず、わずかな水を舐めるだけで昼も夜もぼうっと過ごす。
(ロウのいない夜は長すぎる)
そんなことを考えながら島にやってきて七日もすれば、ナオは海を眺めに出歩くことさえできなくなった。
着たきりの豪奢な服は薄汚れ、女が獲って来た生の魚の血をなすりつけた胸元はひどく生臭い。
ナオ自身、ひどい有様だと思う姿を見下ろし、ナムラが鼻をつまむ。
「おお、臭い! さすがは獣ね。はやく野生にお帰りなさい!」
言いながら、ナムラは愉快そうに笑ってナオの様子をうかがう。
壁に寄りかかり、どうにか倒れずに済んでいるナオはナムラの声こそ聞こえていたけれど、その内容に反応する気はなかった。
(このまま弱って息絶えられたら、ロウを待つんだ。待ってたよ、って言ったら、ロウはどうするかな。怒るかな。笑ってくれるかな。……抱きしめてくれると、いいなあ)
「あら、もう反論する元気もないようね? 結構なことだわ!」
すでに意識がロウの元へ向かっているナオの様子に、ナムラが満足そうにうなずいたとき。
小屋の外に控えていたひとびとが、一斉に地にひざをついた。
「何事―――」
「ナオ、ただいま戻りました」
顔をしかめるナムラをよそに、悠々と小屋に入ってきたのはワタツミだ。
壁にもたれて明らかに弱っているナオの姿を目にして、ワタツミはわずかに眉をあげた。
そこへ飛び出したのは、ナムラだ。
「まあ、ワタツミさま! ナムラは寂しゅうございました」
甲高い声で言ったナムラは、ワタツミにしなだれかかろうと身体を寄せる。肉付きの良い身体を見せつけるように、いつの間にかその胸元は開かれている。
くちでは寂しかったと言いながら、その顔に浮かぶのは満面の喜色だ。
けれどワタツミは足を止めることもなく、ナムラのことばに耳を貸すこともなく、一直線にナオに向かい話しかける。
「あなたが逃げ出そうとして海で死んでいるのでは、と心配していたのですが」
にこにこと笑うワタツミは、ナオを抱き上げた。
その軽さとひどい臭いにわずかに顔をしかめたワタツミだったが、暴れもせず腕のなかに収まるナオに機嫌を良くする。
「私の帰りを待って、やせ細ってしまったのですね。先日の嵐で遺された者の家を決めるのに、手間取ってしまいました」
「…………」
うつろな目にワタツミを映すナオは、弱って抵抗する力も残っていない。反論をするくらいの気力はあったけれど、首にかけられた呪いの飾りがナオからことばを奪っていた。
そうとわかっているのか、いないのか。
ワタツミは部屋のすみで頭を下げる世話女に「身体を拭いてやりなさい」と声をかけ、投げ出されたナオの髪を手で梳く。
「主人に会えず弱るなど、かわいらしい生き物ですね。けれどそうやせ細ってはかわいらしさが損なわれます。何ならくちにできるでしょうね」
機嫌よく独り言ちるワタツミの後ろで、ナムラが拳を握りしめていた。
向けられない視線。自信に向けられない関心。ワタツミの伸ばした腕の先に自身がいないことに、ナムラの拳には、手のひらに爪が刺さるほど力がこもる。
愛おし気な響きに満ちた声。身を案じることば。ワタツミの労わりを含んだ指が触れるのがナオであることに、ナムラは唇を噛み締める。
「どうして、どうして……っ」
どうして自分ではないのか。
どうして小汚い獣のような小娘に構うのか。
ことばにならないほどに膨れ上がる「どうして」に、ワタツミがとどめをさす。
「しおらしさはそのままで、はやく肉をつけなさい。美しく着飾ったあなたは、きっと私の横に映えるでしょう、ナオ」
声だけを聞けば愛おし気な、けれどことばの内容を考えればナオをただ「自分を飾るのにふさわしい人形」と告げるワタツミに、ナムラの瞳が嫉妬の炎に燃えた。
「どうして、それの名はくちにするの……!」
未だ自分の名を呼ばないワタツミが、ナオの名を呼んだ。
それが、ナムラの逆鱗に触れた。