ふたりで居られれば、それでよかった
不穏な夕焼けに染まった小屋のなか、ナオはロウのひざに座っていた。明かり取りのために開け放した扉の向こうで、波が夕陽を跳ね返してらてらとうねっている。
ふたりが暮らすちっぽけな小屋の建つ筏は、凪いだ波にかすかに揺られていた。
日没とともに寝る生活をするふたりが、夕刻になっても横にならず向き合って座っているのには、訳がある。
いくらふたりの暮らす小屋が狭いからといって、小柄な少女であるナオと、細身ながらも成人男性であるロウが並んで寝られるくらいの広さはある。そうなるように、ふたりで苦労して組み上げたのだから。
にもかかわらずふたりがぴったりと寄り添っているのは、毎日の習慣になっている儀式のためだった。
「ナオ、服を」
「ん」
ロウが声をかけると、ナオは自身の服の胸元に指をかけ引き下げる。
露わになった痩せた胸にあるのは、赤黒くこびりついた血。日に焼けた肌の健全さを損なう暗い色だ。
けれどロウはそれを目にして顔をしかめるでもなく、いつも通りの感情の読めない表情のまま、鋭い犬歯を自らの唇に突き立てた。
ぷつり、と赤い血の玉が浮かぶ。
ロウは慣れた様子で平然としているが、それを見ているナオのほうが痛そうに顔をしかめた。
ナオの潮に荒れた長い髪をなだめるように撫でて、ロウはナオの胸元にくちづける。
「ん……」
くすぐったさに身をよじったナオの背を引き寄せ、ロウがますます唇を押し付けた。
ぴちゃ、と新たな赤い色がナオの胸を汚し、そのしたに刻まれた痣を隠していく。
「ロウ、もう……」
「あと少し」
痣を隠す血のあとがみぞおちに広がるころ、そろそろ良いだろうと身じろいだナオを制して、ロウは血を塗りこめた。
「……ロウ、もう十分だから」
念入りなくちづけにこらえきれなくなったナオが、そっと彼の頭を押しやった。
ゆっくりと身体を起こしたロウは口のまわりについた血をぺろりと舐める。
「ナオ、顔が真っ赤だ」
目を細めたロウが熟れた頬を愛おしげに撫でるものだから、ナオは恥ずかしさでさらに赤くなりつつも、彼の手から逃れられない。
「ロウがしつこいから!」
照れ隠しが多分に入った非難を浴びせられて、ロウはしゅんと眉を下げた。
「でも、俺がいない間ナオに何かあったらと思うと不安で……」
表情のあまり変わらないロウの悲しげな様子にナオは弱い。
加えて、自分を心配する気持ちからくる行動だとわかっているから、それ以上強く言うことはできなかった。
「うぅ……。だったら、あたしも連れてってよ。ひとりでうろうろしたりしないし。ちゃんと顔だって隠すし」
ね? と首をかしげたナオの瞳が夕陽を跳ね返して、金色に光る。
異質な金の目のせいで村人に会うのを禁じられているナオが顔を露わにするのは、ロウの前でだけ。物心がつくころから「きれいな目だから、ひとに見られたらさらわれてしまう」と言い聞かせられてきたナオは、伸ばしっぱなしの黒髪で自身を守って来た。
髪で顔を隠すだけでなく、海辺の村に上陸することもせず筏のうえで暮らしてきた。
けれど、十四になったナオはもう言いつけを守れない子どもではない。
ロウと触れ合うのにも恥らいと喜びを覚える年になった。
それゆえ、村に向かうロウと共に行きたいと告げたのだけれど。
「だめだ」
ロウの返事はそっけない。
「どうして。もう子どもじゃないのに」
むすり、とふくれたナオの頬を撫でて、ロウがうっすら微笑む。
「子どもじゃないからだ。ナオがきれいな娘だと知られたら危ない」
「顔なら髪で隠すから」
言って、ナオは潮で焼けた髪に隠れて見せた。その姿こそ幼児のようだ。
ロウはくく、と笑ってナオの髪を撫でつける。
「誰かに見られたら減ってしまう。俺だけのナオでいてくれ。お願いだ」
「むぅ……」
髪をかきわけ額を合わせるロウをちろりと上目で見たナオは、再びほほを染めながらも渋々うなずいた。
ナオはロウしか知らない。
だからロウがナオだけを見てくれるのがうれしくてたまらない。
彼の独占欲に触れるたび、ナオの心はとろけそうになるのだ。
その気持ちが親愛の情なのか、それともまた違う何かなのか、ナオにはまだわからない。
「さあ、そろそろ出ないと」
言いながらもロウはひざのうえのナオを下ろしはせず、軽々と抱き上げてそのまま立ち上がる。
ナオも慣れたもので、彼の首に腕を回して硬い胸板に寄りかかる。
寄り添い合ったまま小屋の外に出れば、小屋の建つ筏に添うようにして、荷物を載せた小舟が揺れていた。
流れ着いた丸太をくりぬいた小舟は年季が入って、海に浸かっていない部分は木が骨のように白くなっている。
ロウはナオを筏に下ろし、小舟に立った。
「行ってくる。先に寝ていて構わない」
「ううん。待ってる。ロウがいっしょじゃないと寝られないから」
幼児のようなことを恥ずかし気もなく告げるナオに、ロウは静かに笑う。
うれしげに持ち上がった唇を引き締めた彼は、櫂を握った。
「決して、海には入らないように」
「わかってる。あたしだって化け物に食われたくないもの」
胸元を押さえるナオに、ロウは頷いて小舟を漕ぎ出した。
「ロウ、待ってるから。きっと帰ってきてね!」
「ああ、必ず。ナオの元に必ず帰る」
いつものやり取りをくり返したナオは、ふと悪寒を感じて身体を震わせた。
体調を崩す前兆だろうか、と考えて、それを告げればロウは村に行くのを取りやめてくれるに違いない、とも思った。
けれどちいさく頭を振ったナオは、遠ざかるロウの背中を黙って見送ることにした。
(嵐のあいだに過ごすために食糧を手に入れるために行くんだから。邪魔しちゃだめ。それに、すぐに帰ってくるんだし)
ナオの視線を背中に受けながら小舟をこぐロウは、潮の香りにわずかな水っぽさが混じっているのを嗅ぎ取って眉を寄せた。
「……急ごう」
嫌な気配を感じ取り、ロウは櫂をこぐ手に力を込める。
彼が早い帰宅を思うほどに、ナオとロウの距離はぐんぐん離れていく。
少女を残した筏と青年の乗る小舟との間をつないでいた波紋は長く糸を引くように残っていたけれど、やがて波にかき乱され消えていった。




