~莊亟のマテリアル編~
§プロローグ§
これはわたしこと誠嚶沙月が、詩伝鳥森高魔学園に入学したときから始まった物語です。
けれど、その発端はわたしがまだ小学六年生だったころに遡ります。
四年前の冬。
わたしは家族旅行でスキーに行きました。
わたしは誤って指定されたエリアから外れてしまいました。戻る方向さえ分からず、ただただ彷徨い続けました。
今思えば、誰かに……いや、あの人に導かれたのかもしれません。
わたしが彷徨っていると吹き付ける吹雪が強まり、数メートル先の視界も確保できず一面が白銀世界。
――――その時です。
偶然か必然か。小さな洞窟を見つけることが出来たのです。
わたしはそこで、吹雪が弱まるのを待つことにしました。束の間の休息……そんな気持ちで洞窟に足を向けました。
しかし、それは間違いだった。
その洞窟は、吹雪の中に現れた微かな安全地帯などではなかったのです。
洞窟の中はとても暗くて、天井からチャポン……チャポンっと不規則に水滴が落ちる音だけが響きます。それがさらにわたしの不安を煽り、怖くて洞窟の隅に蹲って、震えながら泣いてしまいました。
そして、洞窟の中でわたしの泣き声が反響を繰り返し、しばらくすると洞窟の更に奥からドッシン……ドッシンっと鈍く重厚な音が一定の間隔で聞こえてきました。……けれど、泣いていたわたしには、聞こえていても気のせいだと思うことしかできませんでした。
ですが、その音は気のせいでは済ませてくれなかった。
段々と大きくなる音は、今や足音だと分かるまでに近くなっていた。
足音が近づくにつれて、わたしの意識は現実から目を背け、その正体を確かめることを拒みました。
わたしには、勇気がなかった……。
程なくすると、近づいていた足音が聞こえなくなったのです。
わたしは助かった……などという安ど感を抱くはずもなく、恐怖で震えが止まらない身体を、どうにか言うことをきかせ、恐る恐る膝の中に隠れた顔を上げた……。
小さな洞窟といっても高さは優に二メートルはある。しかし、わたしが目にしたものは、それに勝るとも劣らない焦げ茶色の体毛で覆われた生き物。
幼い少女の肉など易々と骨まで切り裂いてしまい兼ねない鋭利な鉤爪。こちらを射抜かんとする獰猛な眼光。
今の時期は冬眠しているはずの生き物。
わたしの視界の先に立っていたのは――――熊だった。
荒くなる呼吸を抑えることはできず、喉が凍てつく白い煙を出し続けた。
熊と目が合った瞬間、吹雪が積もって凍り付いた大地のように、わたしの時間の流れが固まった。
鋭い眼光を一層強める熊に、わたしは一刻も早くこの場から逃げようと足に力を入れます。
けれど、身体のどこにも力は入らず、言うことを利いてはくれませんでした。
あまりの恐怖で、足も手も……。
一方の熊は、一歩また一歩と、わたしに向かってさらに近づいてきます。
熊が一歩を踏み出すごとに、わたしの鼓動は高鳴るのに反比例して、身体は硬直を強くします。
この時わたしは、幼いながらも初めて死というものを実感しました。
そして遂に熊が、わたしの目前で立ち止まり、獲物を見つけた狩人のごとく、その豪腕を天高くに振り上げた。
わたしに許されたことは……ほとんど何もありません。
唯一許されたことといえば、奇跡を信じて小さな瞼を閉じることだけ。
……いや、現実から目を背けることだけだった。
「グガァァァァァァアアアアア!!!!!!!!」
熊の怒号と腕が振るわれ、風を切る音が迫る。
――――――――――。
しかし、その腕がわたしを切り裂くことは、いつまで経ってもやってきません。
突然、風が熊の腕の動きに逆らい、その豪腕の根元から切り落としていた。
それは鋭利な刃物で切ったような切れ方をしていた。
わたしは恐る恐る閉じていた瞼を開けると、さらに首の中ほどまで裂かれ熊は大きな音を立てて倒れた。
「――大丈夫か。怪我はないか?」
いきなり野太い声が聞こえて、身体をビクつかせながらわたしは、声のした方に目を向けた。
洞窟の中はお世辞にも明るいとは言えないため、何とか人の影。シルエットだけは見ることが出来るくらいだった。
野太い声の人物は、わたしを怯えさせない様にゆっくりと歩いてきました。
このとき、何故かはわからないけれど、わたしから恐怖感がなくなり、どこか親近感に似た感覚が芽生えていました。
それから、先ほど何をしたのかという好奇心が沸々と沸いてきていました。
野太い声の人物は目の前まで来ても、フードを目深に被っていてその顔までは見えませんでした。
未だに身体に力が入らないわたしの両肩を支えてゆっくりと立たせた後、わたしの全身を無言で見ている様子で――。
「怪我はなさそうだな」
野太い声――フードの男性はどうやら、先ほどの質問に答えなかったわたしに対して、自らの目で確認していたようだった。……突然のことで答えられなかったのだ。
わたしは少し戸惑いながらも小さく「大丈夫です」と答えを返した。
けれど、わたしの返答を聞いたフードの男性は、顔は見えなかったが驚いて硬直しているように見えた。
わたしは不思議に思い、首を傾げているとフードの男性は……
「……そうか。それならよかった」
何かを誤魔化し取り繕うかのように淡々と気の抜けた声が返ってきた。
ただ、当時のわたしはその一言だけで、一人で不安で寂しかった思いから解放されて、気持ちが安らいでいくのを感じていました。