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一般向けのエッセイ

テラスハウスとテンプレ

 テンプレは良いのか良くないのか、という議論を頻繁に見かけたが、私の観点からすればそんなものは良くないに決まっている。しかし、良かろうが良くなかろうが、こうした流行はまだ続くだろう。言い換えれば、時代を越えてテンプレ的なものはいつまでも続いていく。

 

 ツイッターでも若干書いたが、認識レベルの低い場所では、それぞれの人は「キャラクター」を演じる羽目になる。「キャラクター」というのは、人間の個性の類型化であり、要するに、レベルが低いと、そういう類型化された人間理解しか通用しない。

 

 そこで私達はそういう場では、それぞれにそういうキャラクターを振る舞う。ハンサムキャラ、清楚キャラ、金持ちキャラ、読書キャラ、陰気、陽気、男らしい、女らしい、など。色々な役割を負う。

 

 「テンプレ」作品というのは言うまでもなく、こうした類型化されたキャラクター、類型化された物語が流通する世界である。人は世界を見る時、最初に物差しを作ってしまっているので、その物差しからはみ出たものは認識できない。東大を出ていない偉い学者は理解できない。芥川賞を取っていない純文学作家は想像できない。そのように、類型化された目で眺められた世界が、実際にそうであると要請されるのが今の世界だ。これを仮にテンプレ世界と呼ぶ事ができるだろう。

 

 ※

 

 テンプレ的なものは、いくらでも名前を挙げられる。最近、テレビを見ていたら流行っている芸人が出てきたが、彼らはいずれもわかりやすい「キャラクター」を演じていた。その「キャラクター」が受けているわけだが、芸人の方でもキャラクターを作った方が売れやすいのがわかっているので、キャラづくりを努力している。キャラ付けが必要なのは当然、テレビを見ている視聴者層のレベルに合わせての事だ。

 

 今まで述べてきた事でも、もうはっきりしていると思うが、こうしたテンプレ的な認識においては、フィクションと現実を分ける必要はない。世界は認識によってできている、とはカント哲学と仏教哲学の一致した結論であるが、拙い作品を喜んでいる人の目は同時に、世界を拙い目で見ているものだ。私はそれをもう断言してもいいと思っている。また、最も優れた作品を書く人は、世界を最も深く眺めた人だ。その事も断言できると考えている。

 

 さて、それはいいとしても、テンプレの何が問題かと言うと、類型化されたものしか認めない為に、それ以外のものは漏れてしまうという事にある。いわば世界の豊かさ(醜さも含む)が減衰するという事で、その為に非常に貧しい世界が我々の前に広がっている。大衆の固定的な目に反応するものだけが市場原理に従って展開される。この井戸の底の狭さを、「いいね」の数で糊塗し続けるのも限界があるだろう。

 

 ※

 

 一つ、最近起こった事件で特徴的だと思うものに言及しておく。「テラスハウス」という番組があって、wikiをコピペすると、「『台本がない』という台本のもと、一つ屋根の下で複数の男女がシェアハウスする様子を記録したリアリティ番組」だそうだ。

 

 この番組では恋愛を含めた、若い男女のいざこざがカメラの前で展開されて、それが人気だったそうだ。それで、先日、そこでヒール役というか、波乱を巻き起こす悪役を担当していた木村花という、女子プロレスラーが自殺した。自殺の原因は、はっきりしていないが、ネットでの誹謗中傷と言われている。ヒール役を演じていたので、誹謗中傷が集中したそうだ。

 

 この事件のわかりやすい特徴は、実際にはフィクションであるにも関わらず、ノンフィクションという見せかけでやっていた事にある。この特徴が今の時代と合っていたから、番組は人気になったのだろう。私は今の時代そのものが病んでいる、腐っているとしか思っていないので、人気だからいいという価値観自体御免こうむるわけだが、ネットの配信者などが人気になるのも、フィクションとノンフィクションの重ね合わせに原因があると考えられる。

 

 ※

 

 さて、こうした言い方で何が言いたいかというと、現在、大衆、あるいは視聴者、聴衆でもいいが、彼らはメディアを通じて人間の存在そのものを消費して楽しむようになったという事である。

 

 だから、ここで起こっているのは以前のように、タレントとか役者が演じている、そうした幻像を楽しむというスタンスではもはや物足りなくなり、他人の人生、その存在そのものを、自分達の楽しみの元に消費したい、そういう欲求が聴衆の方にあり、そういう時代が本格的に到来したという事なのだろう。

 

 その場合、メディアが大きな役割を果たすのは言うまでもないが、「テラスハウス」がリアリティ番組を謳っていたという事も関わりがある。

 

 例えば、木村花という人を叩く場合、ドラマの中の悪役を叩く場合は、叩く方にもどこかで抑制がある。というのは、叩く方もそれがフィクションだと感じているからであり、また、本気でドラマの悪役を叩き続けている人は、他人の目にも愚かに見えるだろう。

 

 しかし人は愚かになりたい、なりたくて仕方ないという欲求もある。「テラスハウス」の場合にはどうだろう。悪役を演じている人物ではなく、「実際にそうである」とされている木村花という人物を、視聴者がネットを通じて叩く。この時、本気で叩いてもおかしい事は何もない。なぜなら番組は「リアリティ番組」だからであり、「台本はない」からだ。

 

 この時、叩いている側には抑制はない。相手は「本当に」最低な人間だから、最低さを告発し、非難する場合、そこには底抜けの心地よさ、気持ちよさがあるだろう。なにせこれは「本当」だから、相手を好きになるにせよ嫌いになるにせよ、それはフィクションではないというお墨付きがあって、自分を抑制する必要はない。フィクションの覆いは取っ払われている。社会生活を送る事によって、無意識的に様々に抑制を促され、ストレスを感じている人々にはこうした機会というのはむしろ心地よく感じられるのではないか。

 

 もちろん、ある程度、常識のある人は番組を疑うだろう。台本はないと言っているが、台本はある、あるいはそれに類するものがなければおかしい、と普通の感性は思うだろう。しかし、そういう普通の感性はむしろ少数派になっているのかもしれない。人は他人の存在そのものを消費したいのであり、それによって自分の中の忸怩たるものを払拭したいのだろう。するとその無意識を「クリエイター」なる人種が感じ取って、人々に提供する事はありうる。私はこれからも「テラスハウス」のような番組は作られ続けるだろうと予測している。

 

 ※

 

 少し戻って考えてみたい。今、「フィクションの覆いは取っ払われている」と言ったが、しかし、どう考えても「テラスハウス」はフィクションであろう。つまり、番組は、類型化、テンプレ化された人間像や、類型化された出来事が進行する、そういう意味におけるフィクションだろう。

 

 この微妙さが今、番組が流行る理由であるし、ヒール役を演じて誹謗中傷が集中すると逃げ場がなくなって自殺するしかなくなる原因なのだろう。番組はリアリティを謳っている為に、つまりそれは演じているにも関わらず「素の自分」という事になっているので、誹謗中傷は彼女の存在そのものを断罪する。だから、非難されると、相談する事も、非難した人間を笑う事もできず死ぬしかない。なぜなら、矢が突き刺さるのは過たず彼女そのもの(という風になっている)だからである。

 

 さて、このようなヒール役、というのはさきほどから言っているように、テンプレ的なものだ。「テラスハウス」はリアリティ番組を謳っている、つまり「現実」を描いているように見せているが、実際には、視聴者が「見たがっている現実」を描いているフィクションにすぎない。この微妙なズレが重要であろう。

 

 要するに、何が言いたいかと言えば、現代においては、現実とは、このように、大衆が見たいと思ったもの、あるいは認識しやすい、わかりやすいものだけが、「現実」として流布される。そういう事が一般化している。政治家がタレント的になり、学者もタレント的になっているのは偶然ではない。現実そのものがフィクション化している。

 

 しかし、現実はフィクションではない。だから、そこに断絶がある。私はこの断絶が、この世界そのものに必ずや降り掛かってくるだろうと思っている。

 

 フローベールの「ボヴァリー夫人」は、女主人公のエンマが、恋愛に対する幻想を抱いて恋し続け、実際の現実との相違に破れて死んでいく物語であるが、これを人はただのフィクションととる。ただのお話、物語ととる。しかしそのように受け取る人々は、世界をフィクション化した目で見ていないだろうか?

 

 木村花という亡くなった方には申し訳ないが、彼女が一人で自殺した、その遺体は、彼女がいたキラキラ光る舞台の上とは全く違う、生身の、本物の死体であったろう。それは冗談でもなく、人々がSNSで気軽に話題にできるようなものでもなく、生身な、グロテスクな遺体そのものであっただろう。

 

 もちろん私はそう言って、木村花という人を誹謗したいわけではない。私としては、例えば死体の臭気のようなリアルさから人が顔を背けたとしても、現実は必ずどこかに顔を表すという事を言いたいだけだ。思えば、人が「テラスハウス」について今あれこれ言っているのも、フィクション=現実を浮ついた態度で楽しんでいた、そういう聴衆的態度に、いきなり自殺という生な現実を見せられたからかもしれない。

 

 しかし、人はまたそこに花輪を作り、綺麗事の追悼の言葉を並べて、またそこにも別種のフィクションを作ろうとするだろう。私としては、現実というものの存在を証明する為にもむしろフィクションは必要だと考えている。例えば、ミヒャエル・ハネケの反抗心には、そういう意志を感じる。

 

 人は死ぬのである。現実はフィクションではない。この当たり前の事をいくら言っても人は世界をフィクションで、テンプレで覆おうとする。それでも現実は現実として頑強にその存在を発揮し続けるだろう。この大衆世界、テンプレ世界は、世界を類型化された現実として、綺麗に整備しようとしているが事はそうはいかないだろう。

 

 アスファルトの下から雑草は萌え出てくるだろう。テンプレ世界は、必ずや現実とフィクションの断絶、その深淵に落ち込み、どうしようもない苦悶を、彼らが見ているものだけでなく、自分達自身のドラマとしていずれ体験する事になるだろう。私には「テラスハウス」の事件はその前触れのような気がしてならない。いずれ、現実化したフィクションと、しかしフィクション化しきれない現実の断層が我々を飲み込むだろう。

 

 その深淵が我々を飲み込み、我々はいずれ当事者となるだろう。その時には傍観者ではなく当事者となり、悲劇の演者となるだろう。その時は近づいている。深淵に飲み込まれた時、我々はもう笑わないだろう。他人の無様を笑っていた存在ではなく、自分自身の無様を演じる存在となる。その時の我々には、視聴者はいない。我々は舞台の上で死ぬ役者よりも悲しく、現実という舞台の上を生きている。


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― 新着の感想 ―
[一言] 木村花さんは私と同世代です。苦しみながら亡くなられた木村さんのご冥福をお祈りします。 やっぱり「ただ悪役を演じているだけ」であっても、誹謗中傷はつらいですね。まあ鈍い視聴者の人たちは、「木村…
2020/07/13 15:53 退会済み
管理
[良い点] 最近は、認識内外で世界の軋轢が大きくなってしまって、社会問題として表れてきましたわね。 己の主観をはっきりと認識して生きていきたいですわね。 [気になる点] ※での区切り方に違和感を感じま…
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