第一章 人生最後の始まり
▼十七年心肺急停止障害(通称・十七病)
障害とも病とも言われるこの症状は生まれたときに判断される。左胸にバツ印のような痣をもって生まれた子供はこの十七病に蝕まれているとされている。この曖昧な物言いはこれ以外に診断基準が無いためである。他はいたって健康体で、変わったところもない。そのため多くの親がこれを信じない。しかし十七歳を迎えた我が子は何の前触れもなく死ぬ。もがき苦しむこともなくまるで電池が切れたかのようにその生命活動を停止させるのである。これが十七病の症状である。患者は十七年のタイムリミットを与えられるのである。この病は大変珍しく症例が少ない。治療法は勿論のこと原因も何もかも分かっていない。分かっていることはただ一つ、患者は十七歳になったその瞬間に息絶える、というこの一点のみである。ごく一部の限られた人間しかこの病を知っているものはいない。しかし、これは生まれ持っての障害でもあるので産婦人科に努める医者はこれを把握している。
またこの病に侵された患者は国から義務教育の免除を許されている。たった十七年しか持たない命、その限られた時間を本人やその家族が大切に過ごせるように配慮されている。
0
3月31日。12時。
私はたったいま、十六歳を迎えた。
つまり私のタイムリミットはあと一年、ということになる。
私はぼんやりと窓の外に目をやる。寒かった冬が過ぎ、季節は春。まだ少し肌寒いものの柔らかな日差しは春のそれだ。
16回目の春。私の人生において最後の春だ。これから過ごす1年にはすべて枕に“人生最後の”が付くわけである。人生最後の夏まつり。人生最後のハロウィーン。人生最後の正月。人生最後の、高校二年生。ああ、高校二年生はどの人も人生に1回だけだよね。
私は机の上に広げた『高校一年生まるっと復習ワーク』に目を落とす。とんとんとシャープペンシルのお尻を額に当てる。それから私は黙々とペンを走らせた。
私は下柏木しもかしわぎ高等学校に通っている。普通の女子高生として。これまで小中学校もそうやって過ごしてきた。流石に無遅刻無欠席とはいかなかったが無事卒業している。これが私の選んだ人生だった。
“普通の人として普通に生きたい”というのが私の願いだった。まあ幼い頃はそういう確固たる理由を持っていた訳ではないだろうけれど。私はただこの狭い家おりの中から出たかっただけなのだと思う。
私の両親は過保護だった。それはただ私がこの病に侵されてる故の愛の重さなんだろうけれど私はそれに耐えられなかった。母は毎日のように泣いた。父もそんな母の背中を摩りながら涙を堪えて過ごしていた。私に気づかれないように隠れるようにしていたのだろうけれど私は何度となくその二人の姿を目にした。最初こそ見て見ぬふりをしてきたけれど6歳になるころにはもう既に限界だった。
だから私は学校に行くことを選んだ。最初の理由はそれだった。まあそれがまた家族との時間を奪うことになるわけだから母は結局泣くことが多くなっていった。とんでもない悪循環だった。
家から逃げるように学校に行ったものの正直馴染めなかった。6年間家で大事に育てられてしまった結果、他人とどういう風に接すればいいのか私には分からなかった。そうして私は一人ぼっちになっていた。
それは高校生になっても変わらない。私は結局無意識に当たり前に生きている彼らを羨望の目で見ていたのだと思う。楽しそうに笑っている同級生たちが眩しくて、羨ましくて、妬ましかった。普通になりたいと願って学校に行った私だったけれど結局“私は人とは違う”ということを自覚するしかなかった。
時間が勿体ないと、歳を重ねるたびに思った。何かしなければと焦燥感にかられた。けれど結局何の目的も見つけられないまま私は16歳を迎えた。振り返れば振り返るほど何もしていない人生だった。私はそんな嫌悪感を断ち切るようにペンを走らせる。
母の啜り泣きが聞こえる。とても小さく微かなものできっと本当は聞こえる音じゃないほどなのに私にははっきりと聞こえる。私は一層問題集に集中する。ペンが紙の上を走る。その擦れる音すら啜り泣きに聞こえた。
「はっぴーばーすでー、とぅーみー」
ワザと囁いたその言葉はひどく残酷で笑えた。
何が“ハッピー”なんだか。
1
4月。始業式。
学校が始まった。人生最後の通学の始まり。終わりの始まり。
私は何というかひどく冷静だった。というか諦めに近い感情が私の中を満たしていた。この1年何を始めたってもがいたってたった1年なのだ。1年で何が出来るというのだろう。笑わせないで欲しい。
だから私は後は死ぬだけなんだと思った。妥協の一年。いつも通りに流れるように生きて、見過ごすように毎日を見逃して、そうして何もかもに目を瞑ってしまえば私はもう次の人生に行けるのだ。
そうだ。諦めてしまえばいいんだ。そうしたらゲームオーバーで、別のゲームを始められる。
私は人の後ろに並び、人の流れに付いていき、人の話を聞いて、人に促されるままに席に着く。文系理系に分けられたクラスは顔ぶれが少し変わっている。とはいっても私は友達なんていないのでさほど関係ない。ちなみに私は理系だった。理由はこっちの方がまだ静かな人が多そうだったから。
クラスメンバー紹介やら担任の紹介やら提出物のチェックなどお決まりの流れを終えて下校となった。皆足早に教室を出ていく中私は一人教室に取り残された。残されたなんて言い方は押しつけがましいそれで単に私は立ち上がらずぼんやりと外を見ているからに過ぎない。しかし本当に置いて行かれたようなそんな気持ちにさせられた。
皆にとっての高校二年生と私にとっての高校二年生はあまりに違う。皆なんだか浮足立っていて楽しそうだ。それもそうだろう。入学して一年中を深め合った友人ができ、進路のこともさて置けるこの高校二年生は世間的にも楽しい時間と認識されている。なのに私にとってはただの余命一年でしかない。
開け放たれた窓から一匹の蝶々が入り込んできた。その蝶はどこか弱々しく頼りなさげだった。鱗粉を散らしながら羽ばたき、廊下の方へと消えていった。
私は徐に立ち上がる。カバンを置いたまま階段の方に向かった。
――――もういっそ、死んでしまえば。
目の前には屋上への扉があった。立ち入り禁止の張り紙は思ったよりもまだ真新しそうだった。それでも構わずドアノブに手をかけた。錠のかかったその扉は私を拒む――ーはずだった。
しかしその扉はガチャリと音を立て、キィーという音を立てた。開くはずはないと思い込んでいたため私は勢いよく半ば駆け込むような形でその屋上に足を踏み入れた。
2
目が合った。私は驚いた。恐らく彼も相当驚いたはずだろう。しかし反応は薄かった。緊張した身体はすぐにフェンスへと委ねられた。そうして吐き出された白い煙はため息を可視化させたもののように思えた。そこに一陣の風が吹いて私は思わず目を瞑る。バサバサァと彼の白衣が音を立てた。
「……悪いけど黙っといてもらえる?」
風が取り過ぎた後、その“先生”はそう静かに言った。
「もちろん俺も君がここに来たことは言わないから」
ふぅ、とまた白い煙を吐いた。そうしてしゃがみ込んで地面でその煙草の火種を消した。
「……先生、ここ喫煙所なんですか」
「違うから黙っといて欲しいんだよ」
見覚えはあったが名前が思い出せなかった。確かこれから化学を担当する教師だったはずだ。
「先生がここの鍵持ってるんですか」
「何しに来たの。新入生でもないのに」
先生は私の言葉をことごとく無視する。私はむっとしながらも質問に答える。
「別に。意味なんかないです」
「……このフェンス高過ぎだよな。流石にやりすぎ」
「……」
確かに先生が寄りかかっているフェンスはとんでもない高さだった。この屋上はその高すぎるフェンスに取り囲まれ一種の檻のように感じられた。
ーーーとても、よじ登ってその外へと飛び立てそうにはない。
「……私、そんなひどい顔してましたか」
「ん、何の話」
先生はフェンスに背中を預けたままズリズリと腰を下ろした。そうしてぼおっと空を見上げた。その惚けた、余裕の態度がどこか私をざわざわさせた。
「先生、」
「なに、慰めてもらえるとでも思ったの」
カッと顔が熱くなるのを感じた。
「何の話、ですか」
「別に。そうじゃないなら、良かった」
ざわざわする。頭の中がぐるぐるする。何にも知らないくせに。
「何も知らないくせに」
思っていることが口から漏れた。こんなこと滅多にないのに。自制が利かない。
先生はため息をついた。今度は煙はなくて目には見えないけれど、分かる。
「知るわけないだろ。俺はお前がどこのクラスの誰かも知らないんだから」
「いちいち突っかかって来ないでください」
「突っかかってるのはどっちだ。早く出てけ」
「言いますよ、煙草のこと」
「お前、子供か」
「子ども扱いしないで!!」
私は反射的にそう叫んでいた。
だってその言葉は、許せなかった。
私はこれが精いっぱい。これが私の人生の最後のーーー
「なんっにもしらないくせに……!」
「じゃあお前に俺の何が分かる」
「揚げ足をとらないで!」
「分かるのか」
「だから!」
「俺が!」
ピリッと発された強い声に私は一瞬怯む。
「俺が……糞みたいな家庭で育って毎日のように殴られて、独り立ちできたと思ったらとんでもねえ額の借金背負わされて、それから交通事故にあって後遺症で片目が失明してる、とか」
私はすうと息を飲んだ。ぐるぐるした頭が一気に冷めた。
先生はチラリと私を一瞥し、煙草を取り出す。それをトントンッと箱に当て、咥えて火をつけると、ふわりと白い煙が上がった。
私はその動作を静かに見つめていた。先生はまた私を一瞥すると空に向かって煙を吐いた。風によって運ばれていく煙を私は目で追っていた。
「死にたいよなぁ人生」
俺の人生ずっとそんなだ、という先生も同じように煙を見送っているのかもしれない。上を見上げたままもう一度煙を吐いた。
「…ま、嘘だけどな」
私は弾かれたように先生を振り返る。先生も私に視線を投げた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
この人は……!!
そう思って吸い込んだ息をしかし私は吐き出した。力が抜けペタリと座り込んだ。
「……ごめんなさい」
なんだかひどく恥ずかしい。何をそんなに熱くなっていたのだろう。一方的に噛みついてハッとして落胆して。
「黙っといてくれるか?」
これ、と手に持った煙草をプラプラ揺らしながらそばにしゃがみ込む先生。結局それかと私は半ば呆れた。
「……言いません」
「おー。よかったよかった」
「言いませんから、煙草一本ください」
「……」
煙草を消し、立ち上がった先生は呆れた顔で振り返った。このままやられっぱなしで先生を帰すのは癪だったという、くだらない対抗心から出た言葉だったがどうやらそれは成功したようだった。ここにきて初めて先生は表情を多少ながらも崩した。私はそれを見て内心小さくガッツポーズをした。
「いいでしょ、それぐらい。吸ってみたいんです」
「ダメだ」
「どうせ先生も私ぐらいの時から吸ってるんじゃないですか?」
「正解だがダメだ」
「やっぱり。ほら、ください」
「ダーメーだ」
先生は私を無視するようにそそくさと扉の方へ歩いて行った。白衣が風に靡いて煙みたいにとんでいきそうだった。
「先生っ」
ヒラヒラと手を振りながら先生は扉の向こうへ消えていった。
3
私は次の日の放課後、またあの屋上に向かった。自然と私の足がそこに向いたのだ。
屋上のドアノブは昨日とは違い私の侵入を拒んだ。しかしそれは想定の上だった。
私は一本の針金を取り出す。それを鍵穴に突っ込み、ガチャガチャと弄った。ピッキングってやつだ。昨日ネットで調べ、見よう見まねで真似してみた。自分の家の鍵穴かどこかで本当は試そうと思ったのだけど壊したときの言い訳が思い付かなかった。だから実践で結果を出すしかなかった。
……もっともこの方法でドアが開けられなくてもいいと思っていた。
ドアは開いた。私の思惑通り。ドアの方から。
開いたドアの向こうにはあの名前も知らぬ白衣の先生がいた。呆れ顔、というかうんざりとした面持ちだった。
「先生、こんにちは」
「…こんにちは」
「いれてもらえますか」
「嫌だっていったら?」
「無理矢理入ります。別に私、吸血鬼でもないので」
そう言って私は屋上へと滑りで出た。
吸血鬼は中の人の許可がないと建物の中に入れないという。私と吸血鬼は全く持って正反対の生き物だよなと思う。長生きの化け物、なんて。私は短命の下等生物だ。
「何の用だ」
「煙草吸わせてください」
「………」
先生は無言で私を見返した。そうしてもう短くなったタバコを吸う。
「吸ったことあるの」
「無いです」
「じゃあなんで吸いたいの」
「意味なんか無いです。意味が無いから吸いたいんです」
「……」
先生はしばらく私を無視して煙草を吸った。短くなった煙草を吸える限界まで吸ってそうして携帯灰皿の中へと納めた。この地面の黒焦げの跡は先生の煙草を吸った印なのだろう。
先生は黙って一本の煙草を私に差し出した。私はそれに面食らう。それは意外な行動だった。私はしばらくその先生が差し出した煙草と、先生の顔を見比べてからそれを受け取った。
「悪いんですね」
「今さら」
ハッと自嘲気味に笑う先生はもう一本タバコを取り出した。そうして慣れた手つきで火をつける。私はその様子をじっと見つめた。
「吸い方、教えてください」
「注文が多いな」
先生は酷くめんどくさそうだった。
私のタバコに無事火が灯る。思った以上に罪悪感を感じた。しかし吸ったタバコはなんというか苦いとか苦しいとかそういうことが全くなく、拍子抜けだった。
悪いことってこんなもんなのか。こんなあっさりとその壁を越えてしまえるものなんだ。というか壁なんて感じない。まるで煙に巻かれた気分だ。
しばらく無言で煙草を吸っていたが、思い付いて先生に尋ねる。
「先生って名前なんですか」
「お前色々と順番間違えてるよな。知らないおっさんから煙草をせびるんじゃねえよ」
しかも脅しながらな、と先生は今日会ったときと同じようなうんざり顔を浮かべる。
言われてみればそうだった。知らない人と言えば知らない人に間違いない。学校という空間にいる人間を当たり前みたいに受け入れる自分がおかしかった。とはいえ同じクラスメイトの名前さえ私は覚えちゃいないけど。先生のその理屈で言ったら私の知り合いはこの学校にいない。ああ、強いてあげるなら私の事情を知っている保健室の緑ヶ丘先生ぐらいだろうな。
「科学の担当ですよね」
「それは知ってんのな」
というか分かりやすいキャラクター設定として白衣を着ているので少なくとも理科の先生ではあるだろうと推測は可能だ。
「確かにこの白衣はキャラ付けの意味が強いかもな」
そうなのか。先生の口からキャラ付けとか出るのは以外だった。
「橋下」
先生はさらりと自己紹介をした。聞き逃すところだった。
言われてみればそれは聞いたことある名前だった。確か誰かが”はしもっちゃん”とかそんなあだ名で呼ばれている先生がいたけどこの人のことなのか。
……なんて似合わないあだ名だろう。
「私は宇多野です」
私もあえて名字だけで名乗った。どうせクラス名簿でばれるだろうけど自分でわざわざあの名前を名乗りたくなかった。嫌いなのだ、自分の名前。
私の自己紹介にたいして先生は何の反応も返さなかった。その無反応の反応に不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ心地よかったというか、なんというか。
それから私たちはその立入禁止であり禁煙区域である屋上で、一人成人一人未成年という画で煙草を吸った。その間会話は全くなかった。それがひどく心地よかった。
短い時間であったが、この空間だけゆったりと時間が流れているような気がした。私の限られた時間でさえも。
4
あれから私は毎日のように屋上へ行った。橋下先生は最初こそ小言を漏らしていたけれど次第に何も言わずに私の滞在を受け入れてくれた。
先生は私に何も聞かなかった。いつも一人で煙草をせびって下校時間ギリギリまで屋上で過ごす生徒に普通だったら教師という役割を演じるために、或いは自分の善意を示すために、何かアクションを起こすものだろう。しかし先生は何も、本当に何もしない。屋上に現れた私に視線を投げるだけ。煙草を欲しがると当たり前みたいに差し出す。
流石に最初の頃はめんどくさそうに、というか迷惑そうな顔をしていた。迷惑だけはかけてくれるなよ、と釘も刺された。しかし今やもうライターで火さえもつけてくれるのだ。
ちなみに先生の授業はありふれたものだった。教科書をなぞるだけの言ってしまえば誰でもできる享受の授業だ。寝ている生徒は一応起こすそぶりは見せるが粗雑で、スマホいじりや他の教科の課題などの所謂内職行為に関しては注意すらしない。気づいてないことないだろうに。
先生は、なんというか、ぼーっと生きていた。
アクシデントを避さけて、問題を避よけて。面倒事から避難して。
平穏で平凡な日々を。欠伸の出るような日々を。
のらりくらりと過ごしている。
「先生、そんな感じで大丈夫なんですか?」
いつものように屋上に集った私たちは煙草を吸う。そこで私は煙草を片手に先生に尋ねた。
煙草を吸うのには大分慣れた。いまだにこれの良さがいまいち分かっていないけれど。
「何の話?」
先生は眠そうに眼を擦りながら聞き返した。
「先生って先生らしくないから」
「んー?」
「誰かに起こられたりとかさ、ありそうだなって」
「んー」
先生は惚けた返事を返す。いつだって眠たげではある先生だが今日は極まって眠そうだ。
「仕事はしてるよ」
「そうかもしれないけど、してない仕事も多くない?」
「それは俺の仕事じゃねーんじゃねーの」
知らねーけど、と言って先生は煙を吐く。ふわりと浮かぶ煙はすぐに視認できなくなって消えていった。
「……先生はなんで先生になったの」
「公務員は安定してるから」
「それだけ?」
「うん」
「その選択は、正しかったって思う?」
「選択?」
「選択、でしょ?公務員って言っても一つじゃないし他の安定してる仕事だってあっただろうし。でもその中で教師を選んだんでしょ?」
「選んだ、ねぇ……」
「先生が選んだわけじゃないの?」
「……」
先生は黙り混む。だけれどそれは考え込んでいる風には見えなくて、ただ答える気がないようだった。
きっと、正しいとかよかったとか先生の中にそういう意味の正解はないのだろう。そこに安定があるか平穏があるか、それだけが全てなんだ。そうして今この人はどんな形であれ静かな波打ち際にたっている。その海は静かで先生にとってはそれだけが全てだ。
「宇多野は夢とかあるの」
初めて先生が私に質問を返してきた。それこそありふれた、教師らしい質問だった。だけれどもその言葉は私をひどく傷つける。夢だなんて、笑ってしまう。
「なんにもない」
私に未来はない。夢は見るものでも叶えるものでもない。夢は目を瞑ると現れる幻想でしかない。
「ふーん」
先生はそんな私の子供らしからぬ返答に、教師らしい返答を返さない。どこまでもこの人は、この人だ。
だから私は気になった。
「先生は?」
「大人に夢はない」
「そんなことないでしょ。じゃあ昔の夢でもいいから」
「ねーよそんなの。お前と一緒」
先生は煙草を揉み消した。また地面に焦げた跡が刻まれる。
「……じゃあ私はお嫁さんになりたい」
帰ろうとする先生に私は投げ掛けた。先生はそんな私を振り替える。
「じゃあ、バンドマン」
私の頭の中にギターを抱える先生の姿が浮かぶ。奇抜な格好の上になぜか白衣を羽織っていた。あり得ない姿だろうけれど、どこかそれっぽくて私は一人残された屋上でクスリと笑った。それから自分のウエディングドレス姿を想像してみたけれど、全然イメージできなかった。
5
私と両親の関係は冷め切っている。いや、この言い方は違う。冷めているのではなくて、外的要因によって溶かすことが出来ないくらいに冷やされて、カチカチに凍ってしまっているといった方が近い。いつだって私の家は北極のように寒い。北極にある氷山をいくら火を当てて溶かそうとしても全て溶けることなんて絶対にない。それぐらい私たち家族がつくってしまった氷の結晶は大きく、硬く、鋭く、冷たい。
私の両親は一般的な人たちと同じく病気のことを受け入れようとはしなかった。嘘だ嘘だと跳ね除けて、違う違うと突き放した結果、そう現実から目を背ける行為すら苦痛に変わってしまった。
どうしてこんな目に合わなければいけないのか。
なぜ私たちの娘なのだろう。
何に怒ればいいのだろう。
何を責めればいいのだろう
嘘だと信じて本当だったら?
本当だと受け入れてこの子を追い込んでしまったら?
深く深く暗い底へと二人は落ちていってしまった。主に、母親が早くにその心を壊してしまった。
母は毎日のように泣いていた。どんな時であってもその涙を止められなくなった。
小さな幸せに、長く続かないと涙して。
小さな希望に、すがり付いても意味は無いと涙して。
小さな不幸に、激しく絶望して涙した。
そんな母を父は一生懸命支えていたのだと思う。父はどうにか冷静でいようとした。だけど父だって一人の人間で全部を抱えることは無理だった。
二人がこうも傷ついてしまったのは全部私の病気のせいで、そして私を深く愛しているがゆえにはね返った呪いだった。私が産まれる前から両親にとって私は最愛の娘だった。どうしようもなく。そして私は生まれた瞬間から神にばつ印を付けられた出来損ないの子供だった。
二人が私の事なんて忘れて次に進んでくれていたらこんなことにはならなかった。私の事を“失敗作”だと諦めて、踏ん切りをつけてくれればもっと違う未来があったはずなんだ。だけど両親は私を憐れんでしまった。
「ごめんなさい」と泣く母をいつしか私は受け入れられなくなった。この“ごめんなさい”の意味はなにか。何に対して謝っているのか。
病気にしてしまったこと?
ーーーそれはあなたのせいじゃない。
私を、産んだこと?
ーーーそれはどういうこと?
私なんか生まれなきゃよかったと、この人は暗に思っているのでは?
謝罪は責任の押しつけだ。自分を責める相手を責め立てるだけの言葉の暴力。
そう思ってしまうぐらいに、私は母の「ごめんなさい」を受け入れられなくなってしまった。だから学校に行くことを選んだ。この終わらない冬から、明けない夜から私は逃げたかった。
それが正しかったと、結局今になっても、最後の学校生活となった今でも、分からない。学校に行っても私の夜明けは来なかった。いつも真っ暗で太陽は上ってこない。
秋のように肌寒くて暖かな春は来ない。
私は、フッと目を開ける。どうやら眠ってしまっていたようだ。この屋上は心地よい。春の気持ちいい風が頬をくすぐる。暖かくてほっとする。時間の流れがゆったりとしている。
「……おはよう」
私は弾かれたように横をむく。先生がいた。そういえば私は先生と話をしていて、それでそのまま先生の肩を枕に眠りこけていたようだ。
恥ずかしさで顔が赤みを帯びていくのが自分でも分かった。
「ごめん、なさい」
「んー……肩が凝った」
「ごめんなさい」
「そんな謝るな」
「あ……」
私は思わず手で口を覆う。謝罪は責任押しつけ。そんなことを思うほどのやり取りでもないけれど、何となく自分で自分の嫌な事をやってしまったことが私をモヤモヤさせた。
「……」
「宇多野」
「なんですか」
「お前、何色がすき?」
「……は?」
ぼんやりとした目でぼんやり前を見据えながらぼんやりと煙を吸い込む先生の意図は読めない。
「色、ですか?」
「俺は青」
「……なんでですか?」
「静かな感じがして、落ち着く感じがするから」
「随分曖昧ですね」
「昔髪の毛を真っ青に染めたことがある」
「えっ」
でも真っ青頭の先生を思い浮かべるとそれほど違和感はなかった。なんなら似合っているかも。
「それこそバンドマンみたいですね」
「……そーだな」
「髪の毛を染めるのって痛いですか?あの色抜くやつ」
「ブリーチのこと?」
「ぶりーち……」
ふっと先生の口から笑いが漏れる。普段ずっと真顔の先生はちょっと口元が上がるだけで随分違った表情に見える。
「タバコ吸ってるくせに、それ知らないのな」
「別に私はヤンキーじゃないし、知りませんよそんなの」
先生の笑いどころがいまいち分からない。
先生は思い出すように自分の髪の毛先を弄りながら答える。
「人によって違うけど、俺はちょっと痛かったような気がする」
「へぇ……」
「で、お前の好きな色は?」
「え。うーん……」
好きな色なんて考えたこと無かった。私はいつも合理的というか、色とか模様とかそういうものにこだわった記憶が無い。一番安いものを買ったり、一番量のあるものを買ったり。そこに私の趣向というものはそういえば存在しなかった。
私の好みってなんだろう。
なんでこんな簡単なことも私は分からないんだろう。
私は私を知らない。
私はこんなにも空っぽ?
そんな自分に初めて気がつく。
「薄桃色」
先生が不意に溢した声にハッとする。
「お前のイメージカラーは、ピンクの絵の具に水をいっぱい使って薄くした、透明みたいな桃色」
「……存在が希薄ってことですか」
わざと笑って言ってみる。でも先生は真顔のまま真剣とも言えるようなその顔で答える。
「存在はあるよ。透明じゃないんだから。ただの真っ白な紙と桃色をのせた紙は違うだろ」
「違うだろうけど、なくてもいいでしょそんな色」
「そんなことないだろ」
先生はふぅっと煙を吐く。風に吹かれてその姿は消えていく。
「喫煙者は今肩身狭くて正直邪魔者だろ。この学校の喫煙所も無駄に遠いし。だけど俺はこの煙草が必要だ。1本吸うのはたった数分だけどそれでも俺にはその時間が必要だ」
燃えている嫌われ者の熱を彼は見つめる。
「そういうもんだろ。価値なんて人それぞれだ」
「じゃあ薄桃色を無駄だっていう私の価値観も正しいんじゃないですか」
「正しい正しくないっていう言い方はどうかと思うけど……まあ、そうだな」
「……自分自身の価値も自分で決めれたらいいのに」
「決めればいいだろ」
「そうはいかないですよ。タバコは吸いたい人が吸うし、誰かに送る手紙の色を薄桃色にするのも勝手だけれど私の価値は誰かが決める。向かい合っている人が、私を見ている人が、私の必要性を吟味するんでしょ」
「……そうかもな」
先生は否定しない。否定して、くれない。
「私はその誰かから失敗作ってレッテルを貼られてるんです 」
私はこの16年間胸にバツ印をか抱えて生きている。私の価値を否定され続けて生きている。生きてるというか、死んでいく。だって私は生まれた時から要らないもの。期間限定のその命は50年も60年も要らなくて。だから私は。
「そいつはお前にとっての“誰か”じゃねーの」
私は目を見開いて先生を見る。先生はやっぱりぼんやりと前を向いている。だけどその目は確かに何かを見据えてる。先生には一体何が見えているというのだろう。
「何、それ。どういうこと」
「いや、誰かがお前の価値を決めるのであれば、お前も“誰か”の価値を決められるんだろ」
「えっ、と?」
「お前を失敗作だという誰かさんをお前は評価すんのか?そいつにお前の価値判断を決めさせていいのかってこと。納得してないんならそいつに自分の価値を判断させる必要ないだろ」
「納得って……そういう話じゃないでしょ」
”誰か”っていうのは神様なのだから。
私を、私たちを産み出した人なのだから。その人が私にバツをーーーー
産み出したくせに、どうして私はいらないの?
いらないのにどうして私は、私たちは、生まれるの?
「ほら、納得してない」
私の眉間をつんと指の先で押された。痛くはないけれど反射的に手で押さえる。
「きっとそいつじゃないよ。お前の価値を決めるのは」
「……じゃあ先生が決めてください」
「それは無理」
「なんでですか」
「俺自身に価値がないから」
先生は立ち上がる。タバコはいつのまにか吸い終わって先生の手はもう白衣のポケットの中だった。あのポケットの中には深い青色の煙草の箱と、安っぽい青色のライターが隠されている。
「また明日」
言葉の意味を問いただせないまま先生は扉の中に消えた。それでも先生は確かに私に価値をくれた。
明日もここに来ていいと、あの人は約束をくれた。