一章 ホノワ村のラビィ(6)
伯爵夫人に、ビアンカの件が解決したと手短に挨拶を済ませた後、ラビは、セドリックとユリシスに「仕事が残ってるから帰る」と強引に告げて別荘を出た。
玄関にたむろする騎士達と鉢合わせしたが、驚くその三人を睨みつけて、道を開けさせた。
朝に収集した薬草の一つに関しては、加工作業が残っていたので、手っ取り早く済ませて、少し休もうと考えていたのだが――
何故かセドリックとユリシスがついて来たうえ、断りもなく家に上がってきた。
小さな家は、奥に寝室への続き扉を置いて、キッチンと食卓と作業台が一つのスペースに詰められたような間取りをしていた。足場の踏み所を狭めるように、辺りには本やノートが積み重ねられている。
そんな中、小さな食卓に二人の男が窮屈そうに腰かける事になった。
元々三人家族で住んでいたので、どうにか椅子は足りたが、ラビとしては不服だった。
「このお茶、苦いですね」
「嫌なら帰れ」
ユリシスが飲んで早々、感想を口にした。家に上がった当初、彼は整理整頓のなさを指摘してきし、人間が住む場所じゃないとまで言い放ったが、上司であるセドリックが腰を落ち着けているためか、出て行く気配は一向になかった。
ラビは、苛々しながら作業台の上の支度を進めた。改めて室内の様子を見渡したセドリックが、「すごく狭くなりましたね」と驚いた様子で口にする。
ここ数年、本や地図などの資料が増えていたから、ラビは彼を家に入れていなかった。何かと煩く言われるだろうとも想像が付いたし、一人と一匹で暮らしているのだから、大きな彼が入ると窮屈になってしまう。
「この大量の本は、一体なんです?」
「お客さんに譲ってもらった図鑑とか資料。欲しい薬の材料を頼まれるから、オレでも加工出来るものがあれば手伝ってるんだよ。父さんや母さんみたいに技術は持ってないけど、簡単なものだろうと、仕事だから失敗したものは渡せないだろ」
「相変わらず、そういったところはマメなんですね」
ラビが加工台に向かって背を向けてしまうと、暇を持て余したユリシスが、早速近くに積み重なっていた古紙の束に目を向けた。
つまんで広げてみて初めて、ユリシスは、そのほとんどが地図なのだと気付かされた。かなり書き込みがされており、国内ばかりではなく、大陸全土の地図が収集されているようだった。
セドリックも近くから一冊の地図を拾い上げた、地図を黒く塗り潰すバツ印を見て眉を顰めた。どれも人里を中心に書き加えられ、ついでといった具合で、生息している動物や害獣の名前が走り書きされている。
集められた地図は黄ばんで古びており、何度も広げては畳まれた跡が残されていた。
「ラビ、このバツ印はなんです?」
『仕分けてる地図を勝手に見てるけど、いいのか?』
セドリックが華奢な背中に問い掛けた時、窮屈そうに床に寝そべっていたノエルが声を上げた。
ノエルの言葉を聞いて、ラビは眉間に皺を刻み、自由すぎる二人の男を振り返った。彼女は、ノエルの尻尾を踏まないよう避けて通ると、セドリックとユリシスの手から地図を奪い返した。
「勝手に見るな、触るなッ、眺めるな!」
「だって暇なんですよ。副隊長も、私も」
「くっそ、この自由人どもが。もてなした覚えはないんだからとっとと帰れ! もしくは大人しくしてろッ」
ラビは、反論したユリシスに怒鳴り返した。
不意に、セドリックに腕を掴まれて、片手に取り返した地図をあっさりと奪われた。ラビが驚いて振り返ると、そこには、冷静ながらも強い眼差しをしたセドリックがいた。
「ラビ、答えて下さい。この大量の地図や、バツ印はなんですか? あなたの仕事に地図が必要だなんて聞いた事がありません」
いつになく真剣な眼差しだったので、ラビはたじろいだ。
掴まれた腕の力強さから、話すまで解放しないという空気も感じて戸惑う。
「……印は、印だよ。聞いたって面白くないよ」
そう弱々しく反論しつつも、ラビは促す彼の腕に逆らえず、余っていた椅子の一つに腰かけた。
セドリックの力が弱まったので、手を振り払って、自分の分として用意していたお茶を口にした。すぐそばで、ノエルの尻尾が振れている様子に気付いて目を向けると、彼の長く大きな尻尾が左右にゆっくりと振れて、柔らかそうな毛並みを動かせていた。
どうして、誰も彼が見えないのだろうかと不思議になる光景だ。
「――ちょっと、旅に出ようと思って……そろそろいい加減、もういいかなって」
みんなには秘密の、大事な友達。
初めてラビの友達になってくれて、髪や目を好きだと言ってくれた。
ノエルから話を聞かされるたび、ラビは、いつか自分の目で見てみたいと憧れた。だから、いつか一緒に、人の目も気にせず旅に出る事が夢になった。
「もういいかなとは、どういう事ですか」
ラビは、ハッと我に返った。つい口が滑ったと後悔したが、セドリックの探るような眼差しは更に鋭くなっており、誤魔化すのは難しそうだと悟る。セドリックは昔から、世話焼きで心配性という面倒な性格をしているのだ。
ノエルの尻尾の動きが優雅過ぎるせいだと、ラビは内心八つ当たり気味に舌打ちした。
『なんだよ、俺なんも言ってねぇだろ』
視線に含まれる言葉を察したノエルが、床に伏せたまま、呆れたようにラビを見つめ返した。
ラビは、一番落ち着ける自分の家の中でありながら、彼と言葉を交わせない状況をもどかしく思い、コップをテーブルの上に戻した。ノエルと目を合わせたまま頬杖をつくと、ノエルも、ラビの不貞腐れた視線を受け止めた。
『俺のせいじゃねぇからな?』
分かってるよ、とノエルは目で答えながら、セドリックが納得してくれるような説明を考えた。
「――昔から考えてはいたんだ、自由気ままな旅もいいよなって。ずっとタイミングが掴めなかったけど、ちょうど一段落出来そうだから、近いうちに出ようかと思って」
「誰かに相談したんですか?」
「相談なんていらないよ。残る家に関しては村の連中に全部譲るし、オレがどいたら有効活用出来ると思う」
「僕は反対です」
セドリックが立ち上がった。眉を潜め、非難するような眼差しでラビを見降ろす。その視線を横目に見やり、ラビは面倒な説教が始まる事を予感して、そっぽを向いた。
「あなたは何を考えているんですか。いくら喧嘩が強いからって、まぁ確かに剣の腕もありますけど、無謀です。害獣の他にも山賊もいて、特にこの時期は被害が多いんですよ。何もこのタイミングで出て行かなくても――」
「だから、以前からずっと考えてたんだってば」
ラビは鬱陶しくなって、幼馴染の言葉を強く遮った。
「獣師の勉強がてら、いろんな土地を渡るのだって悪くないだろ。オレはずっと独学で――……それに、ここに閉じこもっているよりは、ずっと面白いと思う」
思わず本音をこぼすと、セドリックが急に真面目な顔で考え始めた。
ようやく納得してくれただろうかと思いながら、ラビは喉の渇きを覚えて、コップを持ち上げた。しかし、沈黙を守っていたセドリックが、ふと、血の気を引かせた面持ちを彼女へと向けてこう言った。
「――まさか、僕がいない間に、誰かに何か、ひどい事をされたんですか……?」
何故か心配するような声で、全く予想もしてないかった問い掛けをされた。
ラビは、口に含んだお茶を、もう少しで噴き出すところだった。