五章 大蛇の中の宝
大蛇の口に突入した瞬間、まるで空間が歪むみたいに、身体の重心が分からなくなった。頭の中がぐらりと強く揺れた一瞬、意識が途切れで、飛び込んだ蛇の口内の暗さを映し出していた視界が、ブツリと切れて聴覚も遮断された。
気付くとラビは、見た事もない穏やかな草原に立っていた。
一面に広がっている草が、揺れているのに音は聞こえないし、温度も感じない。
ああ、きっと夢を見ているんだろうなと思った。意識を失うなんて情けない、早くノエルの背中にいる『自分の身体に戻らなくちゃ』と、自分でもよく分からない事を考えながら視線を上げる。
見上げた空は、クッキリとした青だった。日中なのに、まるで夢物語みたいな大きな薄い月があって、巨大な数匹の生物が、翼を動かせて優雅に飛んでいる。
遠くの地平線には、こじんまりとした村落の、古びた造りの屋根が見えていた。見た事もない兎みたいな生き物が、蕾みたいなものを付けた頭の触覚を揺らしながら、背中の薄い翅で低く飛んで、集団で過ぎっていくのが目に留まった。
「いつか『門』が閉ざされてしまったら、このような光景も、見られないのだろうねぇ」
そう呟く、穏やかな男性の声が聞こえた。
目を向けてみると、少し先の草原に、足まである長い金髪を背中に流した長身の男性がいた。ゆったりとした白い布地で、身を包んでいる。
「師匠、そんな事は起こりませんよ。今までも、それからこれからも、ずっと僕らは共存し助け合って、共に生きていくのでしょう」
どこからか、若い少年の声が聞こえてきた。しゅーっと、小さな蛇の音が上がる。
長身の男が、僅かにこちらを振り返り、雪みたいな白い肌と、形のいい薄い唇がチラリと覗いた。
「ふふっ、なんとなくね、そんな予感がして言ってみただけなんだよ。だから気にしないでくれ。君は将来、きっと偉いところの神殿を任される一人になるんだろう」
「もう、またすぐそんな冗談を言うんだから……。何度も言っていますけど、僕には師匠達みたいな才能もありません。ただ、こいつらが可愛くて仕方ないだけなんです。友になった大蛇達と一緒にいられるように、いつか契約出来るといいなと思って、修行を頑張っているだけですよ」
短い間でしたが、旅の道中にお時間をくださり、ありがとうございました。僕は、このままアスラルダ師匠についていきます、さようなら、いつかまた会えますように……少年の声がそう言う。
ふっと振り返ると、頭を下げる小さな金髪頭が見えた。丁寧に腰を折って胸元に当てられた手は、同じようにとても白くて――
※※※
『腹の中に隠し宝物庫の空間を作る術仕様ってのも、面白い発想だよなぁ』
不意に、ノエルの声が耳に入ってきて、ラビはハッとして目を見開いた。
何か夢を見たような気がする。よくは覚えていなかったけれど、ノエルが気付かないくらい、ほんの一瞬だけ意識が途切れていたらしいとは分かった。
辺りを見渡してみると、木材質の壁が見えた。足元は、同じ材質から出来た長い廊下になっていて、そこをノエルが、自分を乗せたまま軽い足取りで駆けて進んでいる。
「…………あのさ、これが大蛇の中……? オレら、口の中に飛び込んだよね? それなのに、喉が真っ直ぐ平坦の廊下になってる…………」
『混乱しているみたいだな。ざっくり簡単に説明すると、別空間に続く入口があって、訪問した人間に反応して『扉』が開く仕掛けになっていた。オレはそこに飛び込んで、真っ直ぐ一本道を奥に向かって進んでる』
説明を受けて、ラビは「なるほど」と相槌を打った。大蛇の中であるのは間違いないけれど、そこには別に空間があるらしい、とざっくり理解する。
「随分静かだけど、大蛇はどうなったのかな」
『こうしてきちんとした別空間が設けられて、手間を掛けてわざわざ『宝置き場』まで作られているって事は、もしかしたら訪問した人間への配慮で、一時停止の術設定になっているのかもしれねぇな。蛇の集団については、どうかは分からねぇ』
大蛇が動いて暴れ回ったら、きっとこうして歩く事もかなわなかっただろう。術具を使える次の人間が来るのを、待つために掛けられた術、という実感も増した。
ずっと真っ直ぐ進むと、倉庫のような正方形の室内に辿り着いた。こじんまりとした空間内は、まるで大事なものを仕舞う木箱みたいに、分厚い木材で頑丈にしっかりと組み立てられていた。
その部屋の中心部分には、細くて長い展示台のようなものがあった。こちらも、大きな木を切り倒して、丹念に磨き上げたかのような台だ。
そこにぽつんと置かれていたのは、置き場所を間違えたかのような美しい首飾りだった。随分質素な木材色に染まった室内で、異色の存在感を放っている。
男性用であるのか、首飾りはチェーンの部分が、かなり大きく作られていた。金細工は、古い時代の物とは思えないほど、曇り一つない滑らかな光沢がある。
その金細工の中央部分には、大きなアメジスト色をした宝石が収まっていた。それは中心に向かうにつれてブルーの色彩を描き、更に透明度を増して、中心は白銀と化していた。まるで夜空の星の輝きを、そのまま閉じ込めたかのようだ。
「キレイな宝石だね。青と白銀が混じっているけど、この星みたいな柄は、どうやって作ったんだろう?」
『これは生粋のアメジストだ、中に混じっている色は魔力の結晶でな。大きすぎるエネルギーが濃度を増して集まり続けると、稀にこういった結晶化を起こすが、普通の人間には、ただの一色のアメジストにしか見えない』
ラビは「そうなんだね」と、少し残念に思って答えた。他の人には、この星のような白銀の輝きの美しさが見えないのは、勿体ない気がした。
原理はよく分からないけれど、氷狼の件であった『月の石』と同じなのだろう。あれも自分には、色がハッキリ違って見えていたのに、皆にとっては同じ色をしたただの鉱石だった。後でジン達にチラリと話を聞いて、確認は取れていた。
そう思い返したところで、ふと、首飾りに対して一つの疑問を覚えた。今もこうして遺跡にあるままだけれど、そもそも最初に運び出していたのなら、いくつもの術が発動して『砂の亡霊』と騒がれる事も、なかったのではないだろうか?
「トーリは、後継者がいなかったから持ち出せなかった、って言っていたよね? 術が発動してしまう前なのに、運ぶ事が出来なかったの?」
『持ち主がいて、制御している状態であれば出来ただろうが、強い魔力を宿した術具は耐性のない人間にとって毒になる。そのうえ、こいつは神殿内で次の持ち主を待つための術もかかっているみたいだな。だから、それを解けるだけの力を持った人間もいなくて、運び出す事が出来なかったんだろう』
そう言って、ノエルが首飾りに鼻先を近づけた。数秒ほど、しげしげと眺めて様子を確認したかと思うと、ふっと息を吹きかける。
すると、首飾りがぼんやりと光って、ゆっくりと浮かび上がった。その場で時間をかけて一回転すると、金のネックレス部分がキラキラと光って伸びて大きくなり、ふわりと移動して、そのままノエルの頭の上から首に向かった。
太い首に引っ掛かった首飾りが、一瞬強く輝いて、パキーンっと不思議な音を発した。そこから白銀色が弾けたように見えた時、ラビは小さな耳鳴りが頭の中に響いて、自分の耳を軽く叩いてしまっていた。
その直後、首飾りが光りを失った。チェーン部分が魔法のように収縮し、ぴったりノエルの胸元に収まった。
「今の、何?」
『掛かっていた術を全部弾いた。ついでに、うっかり誰かが触っちまっても大丈夫なようにした』
ノエルは簡単に答えて、付け心地を安定させるように、ぶるりと身体を揺すった。首飾りのチェーン部分が毛並みに埋もれて、残ったアメジスの宝石の装飾部分が覗く様子は、彼の黒に映えて上品さが増し、お洒落をした貴族犬みたいだった。
術は解いたみたいだし、あの蛇の群れも消えるのだろう。
ラビは、そう思いながら、お洒落になって凛々しさも増した気がする親友を、角度を変えて観察した。なんだか嬉しくなって、つい、にこにこしてしまう。
その笑顔に目を留めたノエルが、やや怪訝そうに首を傾げた。
『どうした? やっぱり、ちょっと変か?』
「ううん、とってもよく似合ってるよ。すごくカッコイイ!」
彼にぴったりだと思って、ラビは喜びが滲む笑みを浮かべて答えた。
ノエルが『こういう装飾品は面倒だと思っていたが、まぁ、たまになら悪くないな』と口の中で言って、彼女に見えるように胸を張って座る。優雅な長い毛並みを持った尻尾は、上機嫌に大きく揺れていた。
『せっかくの術具だ。魔力の無駄遣いをしねぇように、長く使わせてもらうさ』
「みんなに、ノエルの姿が見えるようになるかなぁ」
『お前は、目が良すぎるから分からないかもしれねぇが、もうなってるぜ。今試しにやってみたが、ちゃんと【実体化】してる』
「えっ、そうなの?」
違いが分からないや、とラビは口にして、ノエルの頭や首のふわふわとした毛並みに触れた。相変わらず、柔らかいのに毛質はしっかりとしていて、指先を埋めるといつも通り暖かい。絡まる事なく指の間をすり抜けていく。
ついでに耳をつまんでみたら、彼がチラリと苦笑を浮かべて『ほんと、昔からそこ好きだよなぁ』と頭を少し右に倒した。
『さて。ゆっくりしていたら、この空間の崩壊に巻き込まれちまう』
そう口にしたノエルが、立ち上がって辺りを見回した。それから、再びこちらを見ると、ふっと雰囲気を和らげて、普段は好戦的な赤い獣の瞳を、ひどく穏やかに細めた。
『さぁ帰ろう、小さなラビィ。俺の背に乗って、離れず付いておいで』
彼はそう告げて、まるで人間を思わせる様子で、愛情深くふわりと微笑んだ。
時々、持ち前の荒々しい口調が、こうして微塵にもなくなって、とても柔らかくなるのを、ラビはいつも不思議に思っていた。別の口調で話していた時代もあったのだろうか、と、そんな阿呆みたいな想像をしてしまうくらいだ。
もう幼くないのに、癖みたいに、たびたび『小さなラビィ』とも呼んでくる。今日だけでも、数回は聞いた。
自分はもう十七歳なのにな、とチラリと思って、ラビはそれを考えながら、ノエルの背中に乗った。歩き出した彼に「ねぇ」と声を掛けたけれど、そんな小さな疑問も、やっぱりどうでもよくなって、ぎゅっと抱きついていた。
「ノエル、大好きだよ」
『また突然だなぁ。ぎゅっとする癖も、昔からそのまんまだ』
彼が、そう言っておかしそうに笑う。でも引き続き、その口調は柔らかいままだった。
『俺だって大好きだよ、ラビィ。こんな俺が、誰よりも優しくありたいと思ってしまうほど』
口の中に落としされた、下町風の荒々しい訛りも一切ないその呟きは、ラビの耳には届いていなかった。ノエルは出口を目指して一気に走り出していて、その足はすぐに床を離れて宙を駆けた。




