三章 アビードの町(3)
ラビは、屋上にしっかり結ばれている洗濯物干しの太いロープの結び目を確かめると、ノエルとほぼ同時に躊躇なく宙へと躍り出た。ロープにかかった洗濯物越しにロープを掴んだ直後、勢いよく下降が開始され、次々に洗濯物を巻き込みながらロープを下る。
五階建ての屋上から伸びるロープを伝って、地上に向かってくるラビに気付いた人々が、驚いたように指を向けて騒ぎだした。
ノエルは、体重を感じさせない優雅な跳躍で、建物の間に張られたロープを器用に踏み台にしながらラビを追った。彼にとってそれは、彼女がまだ幼かった頃にあった森の特訓で見慣れた光景でもあったので、何かあればいつでも飛びだせる距離を保っていた。
ラビは進行方向を変えるため、途中で近くの洗濯物のロープへ飛び移った。女性達が見ていられないとばかりに「危ないッ」と悲鳴を上げ、男達が「なんて危険なことをするんだあの子供は!」と叫ぶ。
何事だと目を剥いて騒ぐ人々の反応も構わず、ラビはロープを使った移動を続けた。これ以上は進めない位置までくると、勢いを付けたまま手を離し、丈夫そうな屋台の屋根に飛び降りた。
悲鳴を上げる店主に「ごめんね!」とだけ言葉を残して、ラビは猛スピードで駆け出した。すぐにノエルが着地し、隣に並ぶ。
密集したテント店の通りで、目指す男達に追い付いた。
よっしゃ、と短い声を上げて、ラビは走りながら路上販売の商品が入った籠を掴んで持ち出した。突然店の商品を持ち去られたターバン頭の店主が「何しやがんだ!?」と顔を出した時には、その姿は随分先まで進んでしまっていて「後で弁償しますからッ」という言葉が遅れて彼の耳に届いた。
ラビは、籠の中に入っていた木の実を一つ掴み出すと、逃げる三人の男達に向かって思いきり投げつけた。周りの人々が慌てて回避する騒ぎっぷりと悲鳴に気付いた彼らが、肩越しに振り返って「うおっ!?」と悲鳴を上げてギリギリで避ける。
「危ねぇだろうがチビ助!」
彼らの先頭を走る男が、目をつり上げてそう怒号した。
怒られる義理などないと信じて疑わないラビは、頭にカチンときて「次こそ当てる」と漢らしい強い眼差しで、更に力を込めて木の実を続けて放った。
拳よりも大きなその実は、確かなコントロール力で投球され、凶暴な風音と共に宙を真っ直ぐつき進んだ。攻撃一色の恐ろしい凶器と化したそれを見て、男達が「ひぇ!?」と飛び上がり、反射的に不格好な姿勢で次々に木の実をよける。
人々が避難してすっかり通りの中央が開けられている中、的を外れた木の実は店先に向かい、柱や屋根に当たって重々しい衝撃音を立てた。
「やべぇよッ、なんでよりによってパパナの実をチョイスしたんだ!」
「まさかケイラー地方一の固い実なのを知って投げてんのか!? だとしたら悪魔だッ」
「うお!? ちょ、待て! なんで俺の顔面狙った!? チビの癖に凶暴すぎんだろッ、今の当たったら洒落にならんぞ!?」
まるでこちらが悪いとばかりに男達が非難してくる。最後の一個まで問答無用で投げきったところで、ラビは大の男がいちいち騒ぐ様子を見て、「うるっさい!」と怒りのまま怒鳴り返してこう断言した。
「たかが木の実で、人は死なん!」
その台詞を聞いた男達が、「マジかよ」と目を剥いてその惨状へと視線を向けた。ノエルも柱や壁に当たった木の実が、割れる事もなく地面に転がる様子を目に留めて、『ずいぶん頑丈な実だな……』と損壊してしまった出店の柱を黙視する。
手に持った重量感や固さから、普通なら凶器となる木の実である事に気付きそうなものである。しかも、ちょいちょい店や壁に被害も出ている状況だ。
逃走中の男達のうちの一人が、熱気がこもった頭のターバンの結び目をバタバタとさせながら、たまらずラビを振り返ってこう指摘した。
「いや死ぬよ多分! この木の実、斧で思い切りやらないと割れねぇやつだからな!?」
次の商品を投げつけられる前にと、一番背の高い先頭の男が仲間の二人に合図し、テント店と屋台が統一感なく建ち並ぶ細い通りに入った。
ラビが「逃がすか!」とその通りに滑りこんだ瞬間、男の一人が道を塞ぐように屋台の柱を蹴り折った。屋台の屋根が、隣のテントの出店を巻き込んで崩れ落ち、商品がぶちまけられる。
店主とそこに居合わせた人々の悲鳴が上がり、砂埃が舞って視界が遮られた。舌打ちしつつも、ラビは足を止めず地面に転がった障害物を飛び越えた。ノエルが後に続き、その大きな獣の身体と尾に触れた屋根の一部と商品が弾かれて、人々と周囲の店や壁に当たりより騒ぎが大きくなった。
砂埃で視界が悪い。小さく咳込みながら、早く悪い視界位置から脱しようと意識して走ったものの、そこを抜けた時、追い駆けていた三人の男の姿をすっかり見失っていた。
またしても逃げられたのだ。その現状を察した瞬間、ラビはピキリと青筋を浮かべた。その隣で、ノエルがチラリと後方の様子を窺う。
『なんだか大事になってんなぁ』
「あの悪党ども……!」
彼が見ている被害現場を目に留めて、ラビは更に怒りを覚えた。
ノエルとしては思うところもあり、なんだかなぁと悩ましげにぼやいてしまう。
『俺としてはな? ラビと俺にも、その原因があるような気がしてならねぇ、というか、なんというか…………』
洗濯物の被害も、店先の商品だった木の実を投げたのもラビであると思い返して、ノエルは思わずそう呟いた。
『うーん、こんな時に俺の姿が見えていたとしたら移動も楽なのになぁ、とは思っちまうな。見えない方が確実に不便だ』
それを考えると、やはりルーファスに話を聞いた時に、同感だし名案だと思った自分の直感は間違っていない。そう思案を口の中にこぼすノエルの隣で、ラビは付き当たりの道を右に行こうか、左進むべきかと急く思いで考えていた。
後方の騒がしさを除くと、新たな騒動の発生源と感じられる音はしなかった。もしかしたら、追われている現状から、身を潜める判断をされてしまったのではないだろうか。食べ物や人間の匂いが多すぎるから、ノエルの鼻でも直接近くから匂いを嗅いだわけでもない男達の痕跡を辿るのは難しいだろう。
『俺が捜してくるか?』
どこを捜すべきかと考え込み、あてもなく歩きだしたラビを見てノエルがそう提案した。
『今の俺は人間の目には見えねぇし、空からなら町を出られる前に発見出来ると思うぜ』
「あ。そういえば、ノエルは空を走れるんだっけ」
広い通りに出たところで、ラビは彼へ目を向けた。だから足跡を残さない事だって出来るし、高いところも一つ飛びで行けて高所からの飛び降りも平気であると、以前氷狼で関わったラオルテの町でも見ていた事を思い出した。
確かに彼の足であれば、自分よりも早く町中を駆け回る事も出来るだろう。二手に分かれて捜索した方がいいのかもしれない、とラビは腕を組んで考えてみた。
「俺がここを真っ直ぐ進んだ先を捜して、ノエルが別方向を見てくるって手もありなのか…………」
傍から見ると大きな独り言である。擦れ違う通行人がチラリと目を向けて、金髪金目だと気付いて慌てて顔をそむけた。
ノエルが『とはいえ』と、悩ましげに言葉を続けた。
『それはあまり賛成出来ないっつうか、使いたくねぇ作戦でもあるんだよなぁ。その場合は、ラビには待機していてもらいたいって気持ちもある』
「どうして?」
思わず足を止めて尋ね返すと、彼が珍しく視線を泳がせて、もごもごと何事が口にした。
『なんつうか、その、治安面を考えると……』
「よく聞こえないんだけど、二人でそれぞれ捜した方が早いよ?」
『うーん、そういう問題じゃねぇんだよなぁ』
ああ、俺の姿が見えてりゃ背中に乗っけてひとっ走り出来るのになぁ、とノエルが頭上を仰いで前足で顔を押さえた。
ラビはよく分からなくて、首を捻った。
『そもそも、こんだけ騒ぎが大きくなってるって事は、次男坊の連中もそろそろ気付くだろうし。――つか、この町にも公的機関が入っているとは思うんだが、その辺もどうなっているのか、はじめに聞いて確認しときゃ良かったな』
正式に登録されている町であるので、規模は小さかろうと必ず役場関係の組織が存在しているはずだ。そう思案を口にするノエルを見て、ラビは深くは考えずに「あるのなら、とっ捕まえて引き渡したいよね」と相槌を打った。
他力本願なんて考えた事はないし、今のところセドリック達がどうしているのか、といった些細な事も眼中になかった。
財布を盗られたうえ、二度にわたって逃げられたのである。しかも、チビだの悪魔だの凶暴だの文句まで言われたのだ。説教も文句もたんまりあった。
まずは、自分の手でボコボコにする。
ラビは、愛らしい顔で物騒な思考をして拳を固めた。そのためには、やはりノエルが提案してくれた、二手に別れて捜索する方がいいだろう。もしかしたら奴らは町を出るため、外に向かってずっと走り続けているかもしれないし――
その時、先程聞いた声が耳に入って、ラビとノエルは同時に足を止めた。
がやがやと賑わう人通りの中、まさか、いや気のせいかもしれない、という心情でゆっくりと同じ方向に顔を向ける。
視線の先にあったのは、珍しく出店も並んでいない細い通りだった。どうやら並んでいる建物は、住居用のアパートメントであるらしい。小さな窓には植木鉢や鮮やかな色合いのカーテンが覗き、玄関先には少しお洒落な呼び鈴が設置されていて生活感が漂っていた。
そこには、つい先程見失ったばかりだった三人の男達がいて、細い一本道で御者台で苛々している商人の馬車の前を、ゆっくり横断する老婆を手伝っていた。
男達は愛想良くへらりと笑っていて、「ほら、もう少しで渡れるぜ婆ちゃん」と声を掛けながら老婆の手を引いている。彼らの手には、買い物袋らしい荷物と杖があった。
「婆ちゃん、ゆっくりでいいから足元に気を付けな」
「全く、こんな時にお孫さんが放っておくとか呆れるぜッ」
「そもそもこんな細い道を走る方が間違ってんだから、迷惑な馬車には杖でも振り上げてやればいいんだよ」
その光景を目に留めて、ラビとノエルは数秒ほど沈黙してしまった。
「…………あんなのに手間とっていたかと思うと、なんだか馬鹿らしくなってくるんだけど」
『…………まぁ、良かったじゃねぇか。あっさり捕獲出来そうで』
ノエルは、他になんと言っていいのか分からなくて、素直な尻尾を力なく垂れさせてそう言った。
無事に道を渡りきった老婆が、玄関先で見送る三人の男達に礼を告げて、アパートメントに入っていった。
その直後、警戒心皆無の彼らの背後に容赦なくラビが迫り、大きく右足を振り上げた。




