一章 ホノワ村のラビィ(3)
村の中心地にあるヒューガノーズ伯爵の別荘の前には、騎士団の紋章が刻まれた二台の立派な馬車が停まっていた。
随分前に到着したのか、どの馬も落ち着いて呼吸に乱れはなかった。毛も整えられており、先頭の馬のそばには、丹念にブラシをかけている中年男の姿があった。別荘に勤めている使用人の一人だと、ラビはその男の顔を見て確認した。
恐らく、先程慌ただしく通っていた馬車はこれだったのだろう。
王宮騎士団お抱えの馬は、どれも美しい茶色の毛並みをしていた。後方に停まっていた馬車に繋がれていた馬の一頭が、歩くラビとノエルに目を向けた。
ラビは、他の人目が自分に向けられていない事を確認してから、優しい瞳をしたその馬に「こんにちは」と労った笑みを向けた。もしかしたら、以前話しをし、自分の事を知っている馬なのかもしれないと思ったからだ。
すると馬は、茶色の目を細めてこう言った。
『以前も、お会いしましたね』
「ああ、やっぱり。前も来ていた子?」
聞き覚えのある声を思い出して、ラビは「なるほど」と呟いた。
賢く人語を理解する雌馬がいた事は、印象に強く残っている。
他の馬は言葉は理解するが、ここまで丁寧に駆使するまでのものはなかった。
ラビが歩みを止めて考えていると、その馬が、尻尾を一度振るって小さな虫を払った。
『今日は、次男のセドリック様が、お供を連れていらっしゃっているのですよ』
「ふうん、という事は、今は夫人に挨拶しているのか……いつ出る予定なの?」
『そうですね、長居の予定はないようですが……』
彼女は賢い馬であるが、人間の都合や社会的知識の全てを理解している訳ではない。
セドリックは、ヒューガノーズ伯爵の次男で、現在は王宮騎士団に所属する支部の副隊長である。ちょくちょく戻ってきては、母親に顔を見せている親孝行者だった。騎士の場合は仕事の都合で外泊も多いが、現在は兄であるルーファスと共に、王都の伯爵邸を拠点にしている。
伯爵家の長男であるルーファスは、現在、王宮騎士団の総隊長を務めている。彼は忙しい役職の為、最後にホノワ村に顔を出せたのは四年も前の話しである。夫人が公務のため王都に出た際には顔を会わせ、他の日々は手紙でやりとりをしていた。
伯爵家の兄弟は、どちらも律儀な男であるので、戻って来るたび幼馴染のラビの元も訪ねた。しかし、ただの幼馴染なのだ。何年も会えない環境でない場合、特にセドリックに関しては、ラビはその必要性を覚えていなかった。
むしろ、ラビは人付き合いが苦手なのだ。誰かがいると、落ち着かない。
彼女はずっと、ノエルと二人きりだったから。
「お邪魔っぽいし、一旦引き返して、後でもう一度訪ねるよ」
『お顔を見せると、喜ばれると思いますけれど』
あの家族の仲が良いことを知っていて、ラビは気を利かせている風で告げたが、馬は気遣うように微笑んでそう助言した。
前方の馬車の馬を手入れしていた男が、馬の鼻息とラビの小さな声に気付いて、怪訝そうに顔を持ち上げたが、別の馬が首を伸ばして彼の視界を遮った。彼は「気のせいか」と首を傾げて、自分の作業に戻ってしまう。
「先月にも会っているし、いらない世話だよ。うん。だってあいつ、無駄に心配性だから、会うと途端に面倒になるんだ。ちゃんと食ってるかとか、小さいとか、いちいち煩いし」
『面倒ってのが本音だろうが。そうやって逃げて、結局、先月は一年振りの顔会わせになったのを忘れたのか?』
ノエルがそれとなく注意したが、ラビは「それとこれとは状況が違うじゃん」と、当然のように言ってのけた。
「数ヶ月で、人間は変わったりしないよ。あいつの事だから、また暇を見付けてすぐに戻って来るんじゃない? 挨拶はその時でも問題ないって」
『人間にとっては、一ヶ月も長い時間だと思うがなぁ……』
「夫人だって、息子と水入らずの方が嬉しいに決まってるよ。最近は伯爵も不在だからさ、ここは気を使ってやろうぜ」
ラビは、ノエルに向かって少年のような陽気な笑みを浮かべて、「なっ」と言って親指まで立てて見せた。ノエルは、彼女が面倒をしたくないだけだと気付いていたが、口にはしなかった。
やりとりを見守っていた馬が、僅かに目尻を下げた。
『お顔を見せないんですか? それは残念です。――ああ、では最後に、私に挨拶して下さいませんか』
ふと考えた馬が、そう言って頭を下げてきた。
ラビは、「仕方ないか」と嘆息し、馬の頭を優しく撫でてやった。
「よし。じゃあ、ひとまずオレは一旦かえ――」
そう言い終わらないうちに、別荘から一人の男が飛び出してきた。
「ちょっと待って下さいラビッ、顔も見せずに帰ってしまうつもりなんですか!?」
非常識だと言わんばかりの悲痛な声を上げて、蒼灰色の癖のない髪に、優しい深い藍色の瞳を持った二十歳ぐらいの美青年が、見捨てられた子犬のような表情で立ち塞がった。
彼は、伯爵家の二男であるセドリック・ヒューガノーズであり、ラビの幼馴染だった。騎士団の正装を身にまとっており、腰には金の装飾がされた剣がある。小奇麗な出で立ちは、足の先から頭の天辺まで貴族そのものだ。
セドリックは、馬の頭に手を置いたままのラビを、しばらく見つめていた。
ラビも、既に自分より頭二個以上も背丈が高くなってしまった彼を、じっと見つめ返した。
ノエルが苦々しい表情を浮かべて、『馬野郎、考えたな』と呟いた。馬はにこやかに『だって、セドリック様が可哀そうでしょう?』と賢そうな顔を上げた。
「あ~……久しぶりだな、副隊長殿」
「名前で呼んで下さいよ、なんですか『副隊長殿』って。ええ、そうですね、久しぶりですね。あなたとは一ヶ月も会えていませんから」
セドリックは言葉早く言ったが、途端に諦めたように溜息を吐いた。
「ラビィは相変わらずですね。害獣の被害どころか、ここ数年は迷い込んだという目撃報告もないそうですが、あなたが何かしたんですか?」
「『ラビィ』って言うなよ、『ラビ』って呼べ。オレは何もしてないよ」
「そうなんですか? でも昔、人に懐かない狼を手懐けていたじゃないですか」
指摘されて、ラビは言葉に詰まった。
確かに七年ほど前に、自宅近くまで迷い込んで来た狼を保護し、言い聞かせて山に帰した事はある。人間嫌いな狼を扱える獣師はほとんどいないが、ラビは言葉が交わせた。だから、どうにか短時間で説得出来た訳であるが……
あの時は大吹雪で、周りに人の姿はなかったはずだ。
ラビは、セドリックが、一体いつからその状況を見ていたのか気になった。
朝から大吹雪となったあの日、その狼は群れを守るため、熊との闘いで怪我を負い、腹も空かせてここまでやってきた。手負いの狼は衰弱していたが、本能から村にいる家畜の気配を嗅ぎ取って興奮していた。
しかし、村に入ったら間違いなく撃ち殺されてしまう事は、幼いラビにも分かっていた。だからラビは、「お願いだから村には行かないで」と寒さに震えながら狼に懇願したのだ。
長い時間をかけて説得し、自宅に連れ帰って手当てをした。自分が持っていた少ない食事を分け与え、少し休んで体力が戻った後、彼は群れの元へと帰っていった。
狼達とは、あれから交流が続いており、村の家畜には手を出さない、村には下りないと軽い調子で言い合った約束が守られていた。ラビが困るからと、熊が人里に下りないよう誘導しているのも彼らだ。
「……そんな大昔の事なんて忘れた」
ラビは、語尾を濁して話題を切り上げた。
ラビが俯く様子を、セドリックは不思議そうに見つめた。
彼はしばらく考えると、「一つ訊いてもいいですか」と唐突に口を開いた。
「獣師は害獣を払う為に銃を使う事が多いですが、ラビは使いませんよね。何かコツはあるんですか?」
動物と話せるとカミングアウトする事は出来ないし、信じて貰えるはずもない。
ラビは視線をそらしたまま、唇を尖らせてこう答えた。
「怪我したら、動物だって痛いんだよ。銃なんて使ったら余計混乱するから、相手の動物の特性なんかを把握したうえで対応策を考える……それだけ」
明後日の方向を向いて、片方の腰に手をあててラビは言葉を切った。
二回ほど瞬きしたセドリックが、やや背を屈めた。彼はラビと視線の高さを合わせると、「ラビ」と柔らかい声で呼んだ。
「ラビ、こっちを見て下さい」
「なんで」
「だって、あなた、話す間も僕の方を見ていないんですよ。話しをする時は、相手の顔を見るのが礼儀で――」
「わかってるって! また礼儀とか教養っていうんだろッ。お前、いちいちそういうの細かいッ」
ラビが小事を遮るように睨みつけると、セドリックは一瞬の間を置いて、それから困ったように笑った。
伯爵の別荘入口から一人の騎士団服の男がやってきて「副隊長」と抑揚のない声を上げた。彼は、セドリックの向かいに立つラビに気付くと、秀麗な眉を怪訝そうに持ち上げた。
やや長い栗色の髪を片方の耳に掛けた、鋭い眼差しを細い眼鏡の奥にしまった男だった。年は二十代中盤ぐらいだろうか。顔立ちは整っていて体躯は細長く、男にしては色が白い。薄い水色の瞳には愛想がなく、彼はラビを小汚いと言わんばかりの顔で眺めていた。
「……副隊長、彼が例の幼馴染の獣師ですか」
一文の台詞だけで、ラビは浅い苛立ちを覚えた。セドリックが自分の事をどのように話したのかは知らないが、男の見下すような眼差しと、言い方が気に食わなかった。
金髪金目には触れてはいないが、恐らく『忌み子』を嫌っているタイプだろう。そして、低い身分が気に入らない貴族の人間だ。
その男が貴族である事と、自分の事を男だと勘違いしている事を把握しながら、ラビはとりあえずセドリックに訊いた。
「おい、セドリック。こいつは誰だ?」
「えっと、彼は僕が所属する第三騎士団の補佐官、ユリシスです」
紹介されたユリシスが、「こいつとはなんですか、失礼な」と眼鏡を押し上げた。ラビの足元で、ノエルが『てめぇの事だよ』と吐き捨てた。
ユリシスは、腕を組んで改めてラビを観察するように見てきた。品定めされているようで嫌な感じだ。ラビが露骨に拒否の表情を浮かべると、ユリシスも眉間に皺を刻んだ。
「君は害獣の【氷狼】を知っていますか?」
「まぁ、存在は知っているけど……一般的に知られている範囲内なら」
ラビは、ユリシスの凝視に慣れず、思わず歯切れ悪く言った。
氷狼については、危険動物の一種として中級の害獣に指定されており、昔、両親が揃えてくれていた図鑑で何度か見た事があった。体表が氷で覆われた狼で、年中雪に覆われた場所にのみ生息する害獣である。
害獣についても知識が深いノエルの話しだと、氷狼は気性は荒いが、縄張りを荒らさなければ逆鱗に触れる事はないらしい。血液は温暖生物とは真逆で、触れた先から熱を奪っていく性質がある。
中級以上に指定されている害獣に関しては、個性的な生態を持っている動物がいるのだ。例えば、炎狼は、氷狼とは逆の性質で、血に触れると冷気か奪われ燃えるといわれている。
『氷狼かぁ……体表がクソ硬ぇんだよな。血に触れると鉄だろうが一瞬で凍っちまうから、銃弾も貫通しないんだぜ』
話しを聞いていたノエルが、ニヤリとしてそう言ったので、ラビは心の中で「へぇ」と答えて視線を向けた。
ノエルは、自身の生い立ちといった詳細は語らなかったが、他の獣についてはかなり詳しかった。ラビは彼から、害獣達の生々しい話しを聞かされるたび、彼が実際はどのぐらい長生きしているのか不思議でならなかった。
それぐらいに、ノエルは博識である。
勿論、聞いていてすごく面白いし、好奇心を引かれる事の方が多い。
「馬の脚に何か?」
不意に、ユリシスが怪訝そうに言った。
ラビは目も向けず「なんでもねぇよ」と、ノエルと目を合わせながら答えた。
「で、氷狼がなんだよ。あいつらは人里には降りない習性だろ」
「ラビ、また顔が向こうを向いてますよ」
セドリックが、指摘しつつも語尾を弱めてこう続けた。
「最近になって、第三騎士団の管轄内で氷狼の被害が出ていまして、その、少し話しを聞いて頂けたら、と……」
セドリックが、このように仕事の話しを持ち出すのは珍しい。
嫌な予感を覚えてラビが横目に睨み上げると、セドリックは、途端に語尾を濁した。すると、ユリシスが、口をつぐんだ上司に代わって口を開いた。
「副隊長の案ではありませんよ。あなたの事は、以前から少し話しを聞いておりまして。騎士団内からも『やってみてはどうだ』と提案がありましたので、知識をお貸りしようと伺ったのですよ。何しろ辺境の地なので、獣師の手配も難――」
ユリシスは勝手に話し始めたが、ラビは先を聞かず断言した。
「ヤだ。だから、話も聞かん」
ラビは「オレは仕事があるから」と、片手を振って彼らの横を素通りした。その後ろを、ノエルが追いかけた。
セドリックが「やっぱり」と項垂れる横で、話しを遮られたユリシスのこめかみに、見事な青筋が立った。