五章 ラビィと妖獣と氷狼(5)
響き渡る咆哮は、そこに含まれる激しい怒りと、息が詰まるほどの殺気をまとって、聞く者の全身に突き刺さった。
大気を震わせる獣の咆哮は、窓ガラスと建物を震わせて、大地をも振動させた。
生き物達が、激しく鼓膜を叩く野獣の怒りを聞いて、本能的な危機感から動きを止める。
先程まで晴れていたはずの空に、低い雲が渦を巻いて広がり、あっという間に日差しが遮られた。漆黒の毛並みに赤黒い光りをまとわせ始めた一頭の黒大狼の、四肢が触れている大地が割れ、低い唸りを轟かせて全身の毛が逆立った。
一回り身体を膨れさせた黒大狼に、三本目の尾が出現して俊敏に伸びた。黒大狼の尾は、まるで生き物のように動き出して荷車を引き寄せた。
二人の騎士が逃げるそばから、漆黒の獣が大きな口を開け、荷車の中の石を勢いよく喰らい始めた。
動きを止めた生き物達の前で、野獣の鋭利な歯が荷車ごと石を噛み砕いた。黒大狼の身体が急激に数倍の大きさまで成長し、警備棟の半分までの高さに達すると、その鬣に赤黒い炎が灯り始め、尾が別れて五本となり、鋭利な銀色の爪が伸びて大地を刺した。
鋭利な牙を覗かせた口から、重々しい吐息と共に赤黒い炎が零れ出した。
変化を終えた妖獣の黒大狼が、怒り狂った金緑の眼光を上げ、標的を定めるなり瞳孔を開かせた。
一瞬怯んだ氷狼達が、警戒して耳と尾を伏せながら、黒大狼を威嚇し始めた。
先に動いたのは、黒大狼だった。彼は巨大な身体とは思えないほど俊敏にラビの前に回り込むと、彼女の近くにいた二頭の氷狼に牙を剥いた。
他の氷狼達が、人間に見向きもせず野獣に向かって一斉に飛びかかった。
黒大狼が五本の長い尾で薙ぎ払い、自分に噛みつく氷狼を振り落として前足で打った。眼下にいた三頭の氷狼に食らいつこうと口を開けると、三頭の氷狼達は反射的に逃げ出したが、黒大狼は構わず、怒り狂うままに強靭な顎で大地に食らい付いて地面を砕いた。
我を忘れた野獣同士の、見境も容赦もない激しい戦いが始まった。グリセンとセドリックの咄嗟の判断で、騎士団は退避を命じられ、ラビの近くにいたヴァンとサーバルが、倒れたまま茫然とする彼女の身体を抱え上げて、騒ぎの中心から大急ぎで離れた。
まるで縄張りを争う醜い獣のように、凶暴な狼達が、お互いの爪と牙を剥き出しに激しくもみ合った。
黒大狼に噛みついた氷狼が、口許から煙を立ち上らせ苦しみもがいて地面をのたうち回った。黒大狼から流れ落ちた血が大地を焼き、氷狼から流れた血は、滴り落ちるごとに大地を凍らせた。
黒大狼は、戦いの中で氷狼の氷結の血を浴びたが、凍るどころか途端に蒸発させてしまう。
「あんな害獣見たことねぇぞ!」
ジンが喚いた。ラビは、ヴァンとサーバルに助け起こされながら、変わり果てたノエルの様子を茫然と見つめていた。
セドリックが人を押しのけて、ラビの怪我の状況を確認した。傷が重症ではない事を知って、半ば安堵の息をついたが、ラビの目は彼を映さなかった。
グリセンと並んだユリシスが、息を飲む騎士達の前でラビを振り返った。険しい顔で、「あれは一体何ですか」と問う。
「君の親友の獣は、炎狼の一種なのですか? あんなに巨大で凶暴なのは見た事がありませんがッ」
ラビは、何も答えられなかった。氷狼達に集中攻撃を受けるノエルが、まるで凶悪な野獣のように暴れる様が信じられなかった。
五本の尾をもった黒大狼から流れ落ちる血が、大地に触れるたび煙を上げていた。氷狼の血を浴びるたび、黒い獣の身体からは蒸気が立ち、誰も傷つけない優しい友達の凶暴な姿に、ラビは悲しくなった。
「……駄目だよ、ノエル。ノエルはひどい事をしない子だもの、きっと傷つけるたびに辛いんだ」
ラビは、怒り狂ったノエルの金緑色の瞳や咆哮の底に、傷付ける事に対する悲痛を覚えた。
もつれる足で歩き出そうとしたラビの腕を、セドリックが掴んだ。
「ラビ、どこへ行くんですかッ」
「……ノエルを迎えに行くんだよ、彼を止めなきゃ」
黒大狼と氷狼の戦いは、まるで虎が仔猫を相手にするような体格差があった。ノエルは悪鬼を切り離す目的を忘れて、殺さないギリギリの苦痛を与え、氷狼達をいたぶり続けているようにも見えた。
セドリックがラビの腕を引き寄せようとした時、黒大狼の胸元が大きく膨れ上がった。
剥き出しになった黒大狼の牙の間から、赤黒い炎がもれた。黒大狼が四肢で大地を踏みしめ、一気に顎を引いたのを見て、グリセンがハッとしたように顔を強張らせた。
「ぜッ、全員更に後方へ退避―――――――――ッ!」
グリセンが叫ぶと同時に、黒大狼が、強烈な火炎砲のように赤黒い炎を放った。
激しい熱風が巻き起こり、全員が吹き飛ばされて地面の上を転がった。セドリックがラビを引き寄せて、熱風から庇うように抱きとめた。
黒大狼は長い間、赤黒い炎を吐き続け、黒い炎に呑まれる氷狼が悲鳴を上げ、頭の上の悪鬼が燃え尽きた。強烈な炎が止んだ時、黒大狼の周りに立つ氷狼はおらず、どうにか息はあるようだが、悪鬼が引き剥がされた事で既に意識を失い地面に崩れ落ちていた。
黒大狼が、鋭い眼光を氷狼に向けた。
『喰ラッテヤル』
喉の奥で、低い呪いの言葉が呟かれた。肉食獣の狂気のような吐息をこぼした黒大狼が、鋭利な牙を覗かせて唸り、地面に転がる一頭の氷狼に顔を向けた。
「駄目だよノエル!」
ラビは、セドリックの腕をすり抜けると、ノエルに向かって駆け出した。彼女は「待って下さいラビ!」と追ってくる彼に気付くと、「邪魔しないでッ」と転がっていた石を勢いよく放り投げて、見事腹にヒットさせて地面に沈めた。
セドリックが崩れ落ちた様子を見た騎士達が、ギョッとしたように目を剥いた。しかし、すぐ我に返ると「あいつを止めるんだ!」と悲鳴を上げた。
地面に背中を強打したまま転がっていたテトが、走るラビに向かって手を伸ばしたが、届かなかった。腹ばいになったままのサーバルが、駆けるラビの足止めをするべく咄嗟に足を出したが、器用に避けられてしまう。
ラビの両脇から、ユリシスとグリセンが飛びかかったが、走りながら器用に足蹴にされて、彼らは地面に転倒した。他の男達も次々に加勢に入ったが、ラビの服の裾さえ掴まえられなかった。
ジンとヴァンが、ラビの進行方向に立ち塞がり、大きな身体で彼女を捕えようと身構えた。相手は小さな女だと言い聞かせ、肉弾戦では負けない自信を持って睨みつける。
すると、ラビが地面に転がっていた木材を拾い上げた。
彼女は一気に跳躍を付けて飛び上がると、ヴァンとジンの腹と後頭部に、容赦なく木材を打ちつけ地面に沈めた。彼女は打倒した敵の様子さえ確認せず、「ノエル!」と再び一直線に走り始める。
「くっそ、なんて凶暴なガキなんだ……!」
「俺はあんなのが女だとは認めん……ッ」
後頭部を負傷したジンが、目尻に涙を浮かべて悶絶した。
ラビは、痛む身体に鞭を打って駆け続けた。優しいノエルが、氷狼を食い殺してしまうところなんか、見たくなかった。
大きな黒い口が氷狼を持ち上げる直前、ラビは彼の顔に飛び付いた。すっかり大きくなってしまったノエルの口は、ラビが手を伸ばしても、全部を抱きしめる事が出来ないほどに大きかった。
「ノエルッ、食べちゃ駄目だ!」
ラビは、彼の耳に届くよう必死で叫んだ。ノエルの口の隙間から零れる赤黒い炎に、強い熱気を覚えて「あつッ」と顔を歪めた時、ノエルがピクリと耳を立てて、動きを止めた。
『……ラビィ……?』
ノエルは遠慮がちに、すっかり低くなった声でその名を呼んだ。低い呟きが地面を這ってすぐ、黒大狼の全身から炎が消え失せ、広がっていた五本の尾が地面に落ちた。
ラビは、ノエルの口に回した腕に力を込めた。漆黒の獣の口に抱えられた氷狼が、彼の牙に乗りかかったままぐったりとしていた。
「駄目だよノエル、もうやめて。お前、いっぱい怪我してるんだよ。だって血が、地面を何度も焼いて――」
ノエルが暴れ回って怪我をする様を鮮明に思い出し、ラビは込み上げる涙を止められずに、とうとう泣いた。ノエルの漆黒の毛に顔を埋め、ぎゅっと握りしめた。
『……ラビィ、怖イ思イヲサセテ、ゴメン…………俺ノ血ハ全テヲ焼キ尽クスシチマウ。危ナイカラ、少シ、離レテナ?』
「やだ、絶対に離れない。オレはお前なんて怖くないし、離れたくないんだもん」
ラビは、堪え切れず嗚咽をもらした。涙はどんどん溢れて止まらなくなった。
「ノエルは、ずっと一緒にいてくれるって言った。オレの事、独りにしないって言ったのに、怪我がひどくて死んじゃったら、もう会えないんだよ」
『…………俺ハ、死ナナイ。殺セル奴ハ、イナイ』
どこか呆れたようにノエルが言って、口許から氷狼を離した。
黒大狼の姿は次第に小さくなり、五本の尾が一つにまとまって、優雅で贅沢な漆黒の毛並みを揺らめかせた。彼女が大声を上げて泣き始める頃には、いつも見慣れたノエルの姿がそこにはあり、彼はそっと腰を落ち着けた。
座りこむノエルの首に、ラビは改めて抱きついた。
彼の赤い血は、もう何者も焼き尽くさなかった。ラビの腕と頬を赤く染め上げ、静かに地面へと滴り落ちる。
疲れ切って項垂れた金緑の瞳が、ラビの華奢な背中を見据えた。その視線が彼女の傷ついた腕へと流れ、尻尾が労わるようにその腕を撫で上げる。
「……ノエル、帰ろう。どこまでも一緒にいてくれるんでしょう?」
場が収束した事を知って、セドリックを筆頭に、騎士団が駆け寄って来る。
ノエルは、その光景をラビの肩越しに見つめて、静かに目を閉じた。
『――ああ、そうだな。お前のいるところが、俺の帰る場所だ』
ノエルは自分に言い聞かせるように呟くと、ラビの肩に顔をすり寄せ、尻尾で彼女の背を抱いた。
セドリック達が周りに集まっても、ラビは泣き止まなかった。普段なら人目がある場所では気丈に振舞って泣き止んでくれるはずの彼女は、ノエルを抱きしめたまま、大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼし続けていた。
ノエルが溜息混じりに、『まいったな』と顔を歪めた。
『おいおい、これぐらいの怪我で死にはしないから安心しろ。だからほら、泣きやめって』
「う~……」
ラビはノエルの胸元に顔を埋めると、泣き声を堪えて呻いた。
『――そういうとこ、ガキの頃から全然成長しねぇなぁ』
ノエルは、苦笑しつつ顔を上げた。そこまで近づいてきた騎士団が、自分を恐る恐る眺めている事に気付いて怪訝な表情を浮かべる。
『別に取って食うつもりはねぇぞ。俺は美食家なんだよ』
そう言葉を発した時、代表者としてノエルに歩み寄ろうとしていたグリセンが、安堵と緊張とストレスで、とうとう意識を手放した。




