三章 ラオルテの異変(3)
ラビが、梯子を下りて少し歩いたと先に報告すると、グリセンは書斎机の椅子に座ったまま気絶してしまった。
多分、持ち前の胃痛と小心のせいかなと察しつつも、ラビは、どうしたらいいのか分からず黙っていた。ユリシスが「数分で起きます」とそっけなく告げて、二人は書斎机の前に立ったまま彼の目覚めを待った。
二人が見守る中、グリセンは数分後に意識を取り戻した。彼は目覚めてすぐ、もう二度としないように、と震える声で何度もラビに頼み込んだ。
「君に怪我でもされたら僕の責任問題に……いや、恐らく総隊長に抹殺される可能性が…………」
グリセンは、先程まで読んでいたらしい手紙を握りしめ、残った方の手で腹を押さえながらそう呟いた。
ラビは、何故そこでルーファスが出てくるのだろうと不思議に思った。問い掛けてみようかと考えたところで、先にグリセンが質問を投げかけて来た。
「……君は、セドリックだけでなく、ルーファス総隊長とも深い仲なのかい?」
「深い仲? 一時期世話になった際に殴り合って、それから交友が続いている感じ。最後に会ったのは四年前ぐらいかな」
「総隊長と殴り合ッ……!?」
グリセンは、途端に激しい胃痛で背を折り曲げた。脂汗を浮かべ、青い顔で「ぐぅぅ」と呻く。
彼が握りしめる手紙を見やったユリシスが、察したように微かに片眉を引き上げた。
「隊長、ルーファス総隊長から何か知らせでも頂いたのですか?」
「いや、これは、その……」
「その紙はあれですよね。非常伝令用の鷹――」
「違うぞユリシス! これは決して個人的な内容ではないのだッ」
今にも死にそうな顔で、グリセンは「だから軍の規律に反するものでもないしッ」と必死に主張して来た。
ユリシスは内容が気掛かりだったが、今回の訪問に関しては、ラビが尋ねたい事があるというので連れて来たのだ。仕事に関わる情報だった場合を考えて、大人しく黙っている事にした。
グリセンは胃薬を飲んで落ち着くと、立ったままだった二人に、ようやく応接席のソファに腰かけるよう促した。
グリセンの隣にはユリシスが、ラビは二人と向かい合う形で腰を落ち着けた。
「氷狼の件が発生する前、氷山の方で人が死んだと思うんだけど、詳細を教えて欲しいんだ」
「誰かから聞いたのか?」
「えぇと、まぁ、そう」
質問の仕方を間違えた、と内心焦りつつも、ラビはどうにか冷静を装って返事を待った。
グリセンは訝しむように前髪をかき上げたが、目の前の少年が、獣師として協力してくれている事を思い出して、自身の記憶を辿った。
「……確か、金品狙いの賊に商人が襲われた事件があったな。運悪く害獣に殺されいて、両者の死亡でその件に関しては終わったのだけれど……それが、何か?」
「荷物はあった?」
すぐに問い返され、グリセンは促されるまま、記憶を更に辿った。
殺された男のそばには大きな荷袋はあったが、ほとんど中身は入っていなかった。近くで死んでいた男の持ち物に、金品が詰まった荷物があった事から、窃盗を働いたのだろうと推測された事を彼は教えた。
ラビは、ノエルの推理の裏付けが取れたような気がして、やや興奮した目を上げ、テーブルから身を乗り出した。
「殺された人は、町の中で買い物とかしていたんだよね?」
「まぁ、そうだな? 目撃情報がいくつかあって調書は取ったが……」
「その人が立ち寄った先とか、分かる?」
「え、えぇと、その……」
グリセンは、こちらに真っすぐ向けられる、好奇心旺盛な大きな金色の瞳に動揺した。
近くから見てみると、男にしては小さな顔だと思った。首も折れてしまいそうなほど細く、血色の良い唇は柔らかそうで、こうして正面から観察すると、白い肌は真珠のように滑らかにも見える。
目の前にいるのは、口調も荒く、話し合いの途中で身を乗り出す落ち着きのない少年だ。
しかし、好戦的でもなく、不貞腐れた表情もしていないラビを改めて観察すると、小奇麗な容姿をしている事に気付かされた。瞳を輝かせる表情も、小動物のように可愛らしい。
思い返してみると、ツンとした態度も、失礼な態度も許せてしまうぐらい、彼は不思議と愛嬌があって憎めない。警戒が解けた際に少しだけ、荒い口調が消えて丸くなっているような気もする。まるで、誰かの悪い口調を中途半端に真似ているみたいにも思える。
グリセンは、ラビを茫然と見つめた。
なんだ。そうして威嚇していない顔は、中々に美少女じゃないかと思い掛けて、ふと我に返る。
「――――ッ」
グリセンは、訳も分からず卒倒しそうになった。あどけない少年に対して、一瞬でも少女だと勘違いし見惚れていた自分が信じられない。
正体不明の緊迫した感情が口から飛び出しそうになったが、彼はどうにかソファに深く背中を預けて、冷静になろうとした。彼は男の子だッ、と心の中で何度も自分に言い聞かせた。
ラビの様子を見て、ユリシスが「品がないですよ」と着席を促した。ラビは唇を尖らせたが、突然俯いてしまったグリセンが気を悪くしたらしいと気付いて、渋々座り直した。
早急にあれやこれやと尋ねてしまったのは、確かに悪かったかもしれない。
ラビは反省しつつ、グリセンの胃痛を悪化させないよう配慮して口を開いた。
「で、どうなのグリセン」
「呼び捨て、タメ口、君は最悪ですね。窺う表情と台詞が、全く合っていません」
「黙っててよ。オレがグリセンと喋ってるんじゃん」
テーブルを挟んで睨み合い、ラビとユリシスの言い合いが始まった。二人の陰険な空気に気圧されて、またしてもグリセンが意識を飛ばした。
半ば説教へと移行したユリシスの挑発に乗ったラビが、カチンときてテーブルに手をつき、腰を上げて「白黒つけるか」と彼の顔を覗きこむように睨み付けた。
すると、何故かじっと、穴が空くほど無言で見つめられてしまった。
ラビは鋭い瞳で探られているような気がして、戸惑いつつ僅かに顔を引いた。
露骨だったかと気付いたユリシスは、強い眼差しを解くと「横暴な方ですね」と、いつもの見下す顔に戻して言葉を続けた。
「白黒付けるかと言いますが、頭脳と真剣での勝負でしたら、恐らく君に勝ち目はありませんよ」
「やってみなきゃ分かんないじゃん」
「体格差の問題です」
ユリシスは、言い合う間も、それとなくラビの顔をしげしげと観察していた。
「手を見せて下さい」
「なんでだよ」
唐突に要求され、ラビは鼻白んだ。
「――ちょっとした力比べをしましょうと言っているだけですよ。白黒ハッキリさせたいのでしょう?」
腕相撲で勝負をつけよう、というのだろうか。そうであるなら、見せてという言い方は間違っているような気がする。
彼でも言葉を言い間違える事もあるんだなと思いながら、ラビは、テーブルに肘をついて構えた。ユリシスが一瞬、呆れたように眉を寄せたが、すぐに同じような姿勢を取ってきた。
お互いの手を握りしめ合うと、ユリシスが、掴んでいない方の手で握り具合を確かめるように触れてきた。ラビは顰め面のまま首を捻り、余計な手を引き剥がそうとしたのだが、唐突にその手を掴み返されてしまった。
ラビが驚いて目を丸くすると、害はないのだと伝えるように、ユリシスが優しい動きで流れるように指先を握り込んできた。彼の指は、ラビの細い指をなぞり、僅かな躊躇を見せて指先を絡め取る。
「……お前、何してんの?」
「……反則がないか確かめていたのですよ」
「んな卑怯な事しねぇよ! 何言ってんだ、お前の手がデカい方が反則じみてるのにッ」
ラビの怒鳴り声と同時に、グリセンが「はッ!?」と目を覚ました。彼は、目の前で始まっている腕相撲を見てギョッとした。経緯は不明だが、悪い予感しかしない。
ユリシスは、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに息を吐くと、ラビに半眼を向けやった。
「失礼な、平均的な大きさですよ。君の手が、男にしては小さすぎるんです」
ユリシスから感じる冷たい棘を含んだ言葉と、ラビの攻撃的な眼差しに、グリセンはまたしても肝が冷えた。今は腕相撲でも、すぐにでも殴り合いが始まるのではないかと不安になる。
悩めば悩むほど胃が痛み、グリセンは耐えきれなくなって叫んだ。
「ッ、ラビ君!」
すぐにでも勝負を始めようとしていたラビは、ユリシスの手を掴んだまま「なんだよ」と、グリセンの方に顔を向けた。
「被害者が立ち寄った先なら、確か資料が残っていたはずだから、ユリシスに見せてもらってくれ。だから腕相撲なんてやめなさいッ」
「資料があんの?」
そういう事ならば、とラビは素直に手から力を抜いた。
しかし、数秒ほど待ってもユリシスの手が離れてくれなかったので、無理やり手を振り払った。新しい嫌がらせかと目を向けると、何故かユリシスは自分の手を見つめて動かないでいる。
グリセンも、ユリシスの異変に気付いて首を捻った。聞こえていなかったのだろうかと思い、ユリシスの名を呼んだ。
「ユリシス。例の調書を探して、彼に見せてあげてくれ」
「人手不足なので、新しいものはまだ整理されていませんが。……まぁ仕方ありません、探してみます」
ラビを連れてユリシスが部屋を出ようとした時、グリセンは、思い出したように彼を呼びとめた。
「ユリシス君ッ、手紙の件は、絶対誰にも言わないように!」
ユリシスは、ますます手紙の内容が気になったが、グリセンの必死な形相に追及を諦めた。
上司の胃痛を増やす訳にも行かず、ユリシスは難しい顔で「かしこまりました」とだけ答えて、ラビと共に部屋を出たのだった。